昨年4月からの100寺巡礼も今回で12回目となり1年が経ちました。昨年から通算64寺を参拝した事になりますが、よくもまぁお寺ばかり出かけたものです。これだけ仏の前で手を合わせ、賽銭も一生懸命?入れてくれば自分は絶対に成仏出来るのだろうと思います。でも相も変わらずストレスは溜まる一方で気は短くなるし、物欲もまだまだ旺盛だし、どうやら人間の出來の方はあまり変わってもいないようです。ガックリ!
考えてみれば、釈迦でさえ6年もの時を費やし、苦行の末ようやく悟りの境地に達したというのですから、バスでのお気軽巡礼で、終わって帰りのバスでは酒飲んでいるようではそうそう簡単に悟りは拓けないようです。
しかし、生身の人間としたら煩悩だらけの人生で、そんな中で苦しみながらの余生の方が楽しそうにも思えてしまいます。
円覚寺
今回は鎌倉五山という事で全て臨済宗の寺で円覚寺は第二位の寺となってます。
自分の家の宗派が臨済宗だからと云うわけでもないのですが、禅宗の寺のあの凛とした雰囲気はいいもので、全てがピシッとしている境内に入ると身が引き締まる思いがします。こうした雰囲気は臨済宗の宗旨によるものなのでしょうが、それが鎌倉武士にも受けたのでしょう。
昭和の時代、円覚寺の管長をされた故朝比奈宗源翁は清水の出身。自分の住む広瀬にも深い縁があり、宗源翁の書はかなりの数が地区内に現存しています。宗源翁はTVドラマの水戸黄門のタイトルの題字を書いた事でも知られる名僧でもあります。と云うより、水戸黄門で有名になってしまったか?
弁天堂まで上がって西の山際に見えた東慶寺があの縁切寺だと帰ってきてから知りました。東慶寺の二十世住職となった天秀尼は豊臣秀頼と側室との間に出来た子(奈阿姫)で、大阪城落城後に徳川秀忠の娘で、秀頼の妻であった千姫の助命嘆願により命を救われ東慶寺に入ったといいます。
浄智寺
淨智寺は鎌倉五山の第四位となっている臨済宗円覚寺派の寺です。
鎌倉幕府五代執権・北条時頼の三男・宗政が29歳の若さで弘安四年(1281)に没し、八代執権・北条時宗が弟の菩提を弔う為に、その夫人と子・師時を開基として建てた寺です。最盛期には七堂伽藍を備え、塔頭も11寺院に達したほどの寺でした。
延文元年(1356)の火災で当初の伽藍は焼失しましたが、それでもまだかなり大きな寺でした。しかし1400年代半ばころから鎌倉という都市そのものの衰退と足並みを揃えて徐々に荒廃していきました。その後、関東大震災で殆ど倒壊し現在の伽藍は概ね昭和になってから復興されたものです。発掘調査では谷戸のずっと奧、天柱峠のすぐ下あたりまで人の手の加わった跡があり、おそらくは現在の円覚寺の規模に近いものがあったと思われます。
山門までの参道は鎌倉石を敷き詰めて舗装されており、その先にある山門は上層が鐘楼を兼ねている珍しい形式のもので、花頭窓をあしらった中国風の意匠が特徴。この門をくぐったところに、本尊の三世仏を安置する曇華殿(仏殿)があります。
建長寺
建長寺は鎌倉五山の第一位の寺。
ここ建長寺は鎌倉幕府5代執権北条時頼によって創建された禅宗寺院で建長5年(1253年)に落慶供養が営まれています。
当時の日本は承久の乱(1221年)を経て北条氏の権力基盤が安定し、京都の中央政府の支配力は相対的に弱まり、鎌倉が事実上日本の首府となっていた時代でした。建長寺が建つ山ノ内は、幕府のある鎌倉の中心部からは山一つ隔てた所に位置し、鎌倉の北の出入口の護りに当たる要衝の地であり、北条氏の本拠地でもありました。
建長寺の境内が広がる谷(鎌倉では「やつ」と読む)は、元は「地獄ヶ谷」と呼ばれる処刑場で、地蔵菩薩を本尊とする伽羅陀山心平寺という寺が建っていたところです。建長寺の本尊が禅宗寺院の本尊として一般的な釈迦如来ではなく地蔵菩薩であるのはこうした因縁によるものです。
総門を抜けると目の前にそそり立つ三門(三解脱門の略)は見事な作りで、楼上には五百羅漢などを安置し、この下をくぐると身が清められるといいます。この三門建立には古狸が貢献したという面白い言い伝えもあり、別名「狸の三門」ともいわれています。
本尊を安置する仏殿や方丈入り口の唐門は東京芝の増上寺より二代将軍、秀忠の婦人、お江の方(崇源院)の霊屋を持ってきたものです。
奥にある半僧坊は明治になり静岡県の奥山方広寺より勧請したものといいます。昨年暮れに方広寺に参拝した際、住職から説明のあった、内田裕也もどきのあの半僧坊のようです。
半僧坊への登り道は鎌倉外周も廻る鎌倉アルプスとも言われる「天園ハイキングコース」の登り口にもなっているようで、こちらも一度歩いてみたいものです。
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