4月19日は地区内の行事が二つも重なっていると言う事で会長もお役目柄そちらの方を欠席する訳にはいかず、今回は会長抜きの100寺巡礼となりました。
他にも何人か同じような用事で欠席された方もいましたが、最終的にはゲスト参加が何人かあり、結局25人で出かける事になりました。遅いだろうと諦めていた富士霊園も低めの気温のおかげか、まだまだ桜も残っていてサクラの下の昼食は寒いながらも楽しいものでした。
清見寺
清見寺の特徴を一番表しているのはやはり境内を東海道線が走っているこのような写真という事になってしまう。今でこそ海は埋め立てられて海岸線はずっと先になっているが、東海道線が敷設された当時は清見寺のすぐ前が海だったという事の証でもある。
清見寺の中興の祖は今川義元の軍師として名高い太原雪斎であるが、彼の父は庵原城主の庵原政盛であるから庵原の生まれだ。という事は、昨年行った彦根で案内して貰った庵原さんの血筋なのだろうか?
雪斎はドラマなどにもよく登場する。一乗寺で生まれたという話も聞いた事があるが、本当はどうなのだろうか?
境内にある俳句「秋晴や三保の松原一文字」の作者は大野伴睦だと今回調べていて始めて知った。大野伴睦といえば東海道新幹線を作る時に何も無い岐阜の田舎に岐阜羽島駅を強引に持ってきた事で知られる政治家だ。そんな彼の句が何故清見寺にあるのだろう?
残念ながら秀吉が韮山攻めの時持って行ったという梵鐘の架かる鐘楼は改修工事の為にシートの中で見る事が出来なかったが、これも夏までには工事も完了するようだ。
松陰寺
松陰寺は白隠禅師の生誕の地として知られる沼津市原にある臨済宗の寺。
「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」
と詠われた程の名僧だったという白隠はこの近くで生まれ、産湯に使ったという井戸も松陰寺の横にある。松陰寺は鉢かぶり松の話で知られるが、その松は3年ほど前に枯れてしまい、現在は別の松に鉢を被せて鉢かぶり松にしている。そのために先端の太い幹を切り落とされてしまった松はえらい迷惑であろう。先端に乗っている鉢もレプリカになっている。考えてみるとチトおかしい。
白隠は境内にあった枝の折れた松を見て、そのままにしておくと枯れてしまうかもしれないと、松に池田公から頂戴した鉢を被せてやった。
しかし平成時代の松は先代が枯れてしまったので身代わりに枝を強引に切られ、二代目鉢かぶり松にされてしまった。これでは本末転倒だ。
写真の正面に見える白隠が考えたという山門の屋根の葺き替え工事の際、瓦を外して枚数を数えたら108枚だったという。山門は、お寺に訪れると誰もが通る場所。お寺に訪れる人の煩悩を鎮めるよう、白隠は人々を思って、瓦を人間の煩悩と同じ数、108枚にしたのだそうである。
富士霊園
松陰寺を見たあとは、一路北へ小山町を目指す。目的地は小山町の富士霊園で、ここの桜の下で昼の弁当を食べようというのだ。桜の方は先週友人が行った時にメールを貰い、満開だったと聞いていたので、多分もう葉桜ではないかと、あまり期待はしていなかったが、現地に着いてみると桜はまだまだ沢山の花を着けていて綺麗だった!
それだけに人も凄い。
世界中を探しても国中で花の開花に大騒ぎするのは日本人くらいのものだろう。
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