広瀬の農業

西暦1500前後に広瀬に初めて鍬が入れられた時代、広瀬の産業(と言ってもその当時産業と呼べるものは農業しかありませんが)はどのようなものだったのでしょうか。広瀬地内には稲作の出来るような平地は殆どありませんでした。これは現在でも同じ状況です。広田と呼ばれている所にわずかばかりの平地がありますが、当時ここでは当然稲作が行われていたはずです。その他,少しでも平地があれば米を作っていたと思われます。 昔の税金は金ではなく米での物納だったのですから何としても自分たちの生きていくための食料と年貢分は米を作らなければなりませんでした。

江戸時代の農業

江戸中期までは換金出来るような作物はありませんでしたがその後、毒荏(どくえ 一般的にはアブラギリとよばれる)の栽培が奨励され広瀬でもかなりの面積に植え付けられました。この毒荏の栽培には幕府も熱心だったようで植え付けた場合には年貢も減額控除されたようです。 元禄のころより現物経済から貨幣経済に移行していく中で、年貢だけでなく金納も加えられ幕末まで続きました。寛文10年(1670)の広瀬の田畑の総石数は50石732、うち年貢は35石439で約7割が年貢として納められていたと記録があります。

明治時代

 毒荏の栽培は明治中期まで盛んに行われていました。明治9年の地租改正時の調査資料によれば広瀬の毒荏木立は40町歩(40ha)あり1戸平均では2haにもなります。しかし江戸中期より広瀬の経済を支えてきた毒荏栽培も年々毒荏虫(ゴマダラカミキリ)の発生がひどくなり、また一方では石油ランプの普及も重なり需要の減少とともに価格も下落し明治中期には自然消滅しました。  衰退してきた毒荏に替わる次の換金作物を模索している中、明治初頭より紙の原料となる三椏(ミツマタ)の栽培が始まり明治20年代には盛んに栽培されていました。また、三椏の栽培が始まったと同じ頃、養蚕も導入され明治29年には広瀬の蚕糸業の組合員は24名まで増えています。養蚕は毒荏、三椏の後をうけ、やはり明治初頭に導入された蜜柑、茶の増植と共に農家の現金収入源として広まっていきました。

茶栽培

明治に入り本格的に始まった茶栽培は明治初年頃は荒茶1貫目は米1俵と同価値になるほど茶価が高騰していました。その当時天秤棒で茶を担いで箱根山を越し横浜まで売りに行った者があったと伝えられています。

明治中期の茶生産
年度 面積 件数 数量 金額
明治27年 7町6反6畝 21 1,547 2,470
明治28年 7町6反6畝 21 1,853 2,922
明治29年 7町6反6畝 21 2,214 2,689

他地域では生葉売りが多かった時代、広瀬では上記表の21戸全戸が自園自製で茶栽培を行っていました。当時は機械はなく手揉製茶で、その後機械製茶に替わっていきます。昭和に入ると自園自製農家は12軒まで減り、代わりに生葉買いによる大量製造工場が2軒出来ていました。

戦後の農業

昭和15年を境に茶園は戦時中の主要食糧増産のために減反し生産量は急激に減少しますが、戦後、各種の統制が全廃され茶の価格が高騰すると生産量も急速に増えていきます。生産量が増えると製造業者も増え粗製濫造の嵐も起こり、農協としてもこれをすててはおけず生葉を配分して委託製造が行われましたが、これもまた、機械も老朽化してきた為それまでの委託業者に対して補償し、生産者自らの運営する新工場の建設を決定し、広瀬、茂畑は茂畑地域に製茶工場を建設しました。

昭和・平成の茶生産

年度 生産量Kg 金額 ¥
昭和63年 90,557 25,979,698
平成1年 94,687 36,178,584
平成5年 117,637 55,792,705

昭和の末から平成にかけて蜜柑から茶への改植が進み茶園面積は増大しました。園地の管理においても凍霜害対策に効果の大きい防霜ファンの設置が進み被害程度は軽くなってきています。しかし、そのような生産農家の努力の一方では、近年、食の変化による茶消費の減少が茶産業全体の問題となってきています。

山の頂上まで開墾された広瀬の一般的な山の景色です。実際には写真で見るよりはるかに傾斜は急です。広瀬の周囲の山の標高は200mから350m程でほぼ全域が開墾し尽くされています。

広瀬の山は山頂付近になると傾斜が緩くなります。傾斜の緩い所は茶が植えられています。昔は鋏で刈り取っていましたが、最近では2人用の茶摘採機を使えるように園地の地形改造を行い摘採効率は格段に進歩しました。

昭和30年代から40年代に掛けて造成された山頂付近にある農場。最初はミカンが植えられていた。

上の2枚の写真は同じ所から撮ったもの。時代は20年ほど経過した昭和50年代後半。農場は他地区の農家に譲渡され、再び大きな造成をして、お茶畑に生まれ変わった。

昭和47年のミカン価格大暴落以後、みかん園の廃棄が進み、生産量は激減しました。写真の茶色の部分は廃棄されたみかん園です。全盛期にはこの山全てがみかん園で収穫期には山全体がオレンジ色に染まりました。この写真は2000年に撮ったもので、それから十数年経った今は写真以上に放任園が多い。というよりこの写真の範囲は殆どのみかん園が放棄されている。

農協の広瀬出張所、兼自治会館。中央の2階建ての建物が、昭和26年に建てられた事務所兼集会所です。昭和40年代まではこの建物の前に池が作られていました。平成5年に建物全てが取り壊され新しい自治会館と農協の出張所が建設されました。

基盤整備された農地でのミカン栽培

この原稿を書き上げた平成12年当時工事が進んでいた尾羽地区の基盤整備事業も平成20年代初頭には完了し、地権者に換地されて生産性の高い農地でのミカン栽培が始まっている。しかし、立派な農地が出来ても相変わらずのミカン価格、茶価格の低迷は続いている。平成12年当時よりその環境は遙かに悪くなっており、それらに加えて最近ではTPP交渉も農家にとっては大きな不安材料となってきている。

ミカン栽培

一方、茶と並ぶ広瀬の主生産物であるみかんはどのようなものだったのでしょう。
温州みかんは杉山地区の片平信眞氏が幕末期に和歌山より苗木を導入し始めたのが庵原におけるみかん栽培の始まりとなっています。当時は毒荏の衰退期でもあり、代わりの換金作物を模索している時期でもありました。みかんの有利性がわかり、その後日清戦争以後、一般的に栽培されるようになっていきます。 庵原全体の栽培面積は明治20年には24町2反歩でその半分以上は茶園の間作であったのが、20年後の明治40年には215町8反となり、さらに10年後の大正5年の調査では526町9反にまで増植されています。明治の時代にはすべて個人個人で商人に売り渡されていましたが、大正末期の価格暴落により、共同出荷の機運が高まり昭和5年に広瀬共同出荷組合が創立されました。
その後、昭和9年に各部落の共同出荷組合を統合し庵原村産業組合が設立され、それまでの出荷組合は農事実行組合と改称し産業組合の傘下となります。とはいっても事業自体は各部落の実行組合の責任で販売を行っていました。戦時中はみかん園も荒廃しましたが戦後の復興も終えたた頃よりみかんの全盛時代を迎えます。
昭和26年には現在の自治会館の場所に組合事務所と集会場を兼ねた2階建ての事務所も建設され、同じ年作業場には大型選果機も導入されています。

昭和のミカン収量
年度 生産量 金額 単価
16年 170,575 176,313 1円03銭
18年 152,899 134,216 00  87
20年 72,817 1,351,975 18  56
24年 114,496 11,235,155 98  12
26年 160,451 18,363,837 114  45
28年 221,518 31,841,163 143  74
30年 238,641 36,263,625 151  91

大暴落

昭和40年代に入ると、30年代に全国的に行われたみかんの増植が需給バランスを崩し昭和47年にはみかんの価格は大暴落を起こします。にもかかわらず40年代に庵原では外に土地を求めて出作農場が各地で誕生しました。
広瀬においても磐田農場、榛原農場など2団体が進出し、地元では報徳社の土地を買い求め共栄農場が誕生しました。しかし、みかん価格が低迷している中ので事業が成功するわけはなく広瀬内に於いては現存する農場はありません。そして昭和47年、清水市の各農協は一元化され清水市農協と名を改め庵原農協は庵原支所に広瀬支所は広瀬出張所に名を改めます。
昭和47年に暴落したみかん価格はその後、20年近くもの間回復の兆しがありませんでしたが、平成元年に行われた全国的な減反政策により,ある程度の回復はみられました。それでも平成10年以降未だ、昭和30年代の価格を維持するのが精一杯の状態です。そればかりか、生産量は全盛期の20%を切るまでに落ちこんでいます。

農道の整備

その一方では、みかんも好況な40年代初頭より、それまで徒歩で行くしかなかったみかん園に車が入れるようにと農道工事が本格化しました。
昭和40年より始まった農道工事はその後、昭和56年まで続き、その総延長は実に12,084mにも及びます。農道の完成によりみかん、茶の生産性は飛躍的に高まりました。しかしその反面、合計1億円を越える農道負担金は、みかん産業不況下にある各農家の懐には大きな負担にもなりました。

これからの広瀬の農業

これからの広瀬の産業(農業)にとっての1番の問題は後継者がいないということに尽きます。
現在農業を営んでいる最少年齢者は40歳でこの後には誰もいません。(この後、平成25年になり新しい農業の担い手がうまれた。)
かつて江戸末期から明治にかけて、毒荏が駄目なら三椏、三椏が駄目なら養蚕、またその後もみかん、茶とその時代時代、暗中模索の中で見つけてきた生活の糧を、今の時代100年前と同じように考える事自体、無理な話のようです。500年続いてきた広瀬の農業も、今やその終焉を迎えようとしているように思えてなりません。
これも時代の流れとは言え、500年もの長い年月営まれてきた農業を、たかだか30年程度の短い変化の中で、まして、私達の時代で終わりにしてしまっていいものなのかと考えさせられてしまいます。