広瀬の歴史

江戸時代以前

広瀬部落の発祥は古く明応7年(1498年)~永正7年(1510年)の間に最初の鍬入れがされたようです。1500年前後の日本の歴史はと言えば応仁の乱の直後、戦国時代が始まろうとしている時代です。あの織田信長でさえまだ生まれてはいません。
富士山も再三にわたり噴火を繰り返し、それにより駿河湾一帯に大地震、大津波が頻繁に起きていたようです。そのような中、清水市村松の住人であった私達の祖先2軒が地震による大津波で田畑を流失し、難を逃れて広瀬に入って来ました。そして、この数十年後の永禄11年(1568年)に、ほぼ天下統一を治めた信長が諸国の関所を撤廃していますが、撤廃に伴い清見関の役人をしていた1軒が職を失い広瀬に入り、前の2軒と合わせてこの3軒から広瀬の歴史は始まったとされています。そのため、広瀬のほとんどの家のお寺は遠く離れた清水市村松の海長寺、そして、興津の清見寺になっています。また、姓も殆ど全戸が「杉山」姓です。

江戸時代

当時広瀬に入るには波多打川沿いの山道を越えてくるしかなかったと思われますが、波多打川には途中「ドウドメキ」と呼ばれていた川の狭まった谷があり、そこを越えた所に広がる広い瀬を見て広瀬の地名が付いたと思われます。

この後の資料があまり残っていないため江戸末期までの事はよく分かっていません。江戸末期の古文書には他部落との境界争いの記録が残っていますが、これには韮山代官であった有名な江川太郎左エ衛門の名も出てきます。
この時代までは昔からの山越えの山道を歩くしかなかったようです。しかし、道路の必要を感じた部落民の努力により、天保11年(1840年)に波多打川沿いに新道(馬車道)が完成しています。戸数十数戸の人員で農作業の合間に時間を作り、何年もかけての大変な工事だったと思われます。

明治時代

その後、明治時代になると広瀬に入ってくる道路だけでなく産業の発展の為にも村内の道路も又拡張に迫られてきます。何回となく道路工事は行われていますが川沿いの狭い道ですから災害のたびに崩壊し、その復旧にかかる維持費もかなりの額にのぼったようです。
大正の初期にトンネルを掘る計画が進められたようですが、資金面を考えると二十数戸の部落では不可能に近く、そこで将来のために資金作りをして時期の到来を待つことにしました。

トンネル工事

まず、当時の共有地に生えている松を伐採しそこに植林し、松材売却代金で六町歩の山林を一万円で買いました。そしてこれを補植、下刈り管理し20年後に2万円で売却、そしてそれを元手に16町歩の山林を9千円弱で買い取りトンネル工事が出来るようになる時代をじっと待っていました。
実際にトンネル工事が始まったのは昭和29年になってからでした。この年の5月10日に起工式が行われています。足かけ4年の歳月をかけ、完成は昭和32年で8月17日に竣工式が行われました。これで、50年近く2世代にわたり、村民の夢であったトンネルができ、災害時にも壊れない道路がようやく完成しました。
また、この工事は補助事業でしたが、地元負担分1400万円は先人達がこの時のために買って維持管理していた山林を売却しこれにあてました。これがなんと買い取り時の1500倍にもなる1400万円で売れ、結局全てをこれでまかなえたといいます。
今の時代とかく結果を急ぎ短期で考えてしまいがちですが、何十年も先の子孫の為に、今何かをしておく事も大事な事のようです。  

地区内の道路整備

この時期トンネル工事と平行して、村内の道路の拡幅工事も積極的に行われました。当時は広瀬の主産業であるミカン栽培も景気のいい時代で、収量も急激に増えていったため、大型車両の通れる道がどうしても必要でした。
このように、近代における広瀬の歴史は道路の歴史とも言えるくらい、それほどまでに広い道路、大雨でも壊れない安全な道路を願っていました。これは、全国どこの山間地でも同じようなものだと思います。生活している村民にとっては子供でも安心して通れる道は夢にまで見る道路だった事でしょう。

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その後、平成に入り中部電力の変電所建設に伴い,道路は10mまで拡幅され、トンネルも大型車がすれちがえるりっぱなものが新しく出来、以前のトンネルは両口を塞がれて三十数年の役目を終えています。
この入り口を塞がれたトンネルは暫くの間はそのままで放置されていましたが、先人たちの苦労の遺産を何とか残したいと、県の許可を得た上でトンネル入り口の斜面に「見顧の丘」と名付けた緑地を作り 自治会員によって維持管理しています。

平成に入り完成した新トンネル。歩道もつき大型車もすれつがえる広さがあります。旧トンネルがすぐ北側(写真では右側)に入り口を塞がれて残っています。このトンネルのおかげでトンネル内の通行は格段に楽に、また安全になりました。全長は350m程あります。

その昔村民が手仕事で作り上げてきた村内の道路も現在では県道にまで昇格しています。かつて先人たちが必要としたのは生きるために必要な道路でした。それは、ミカン産業の発展の為であり、茶産業の発展の為のものでもありました。必要と分かってもなかなか実現は難しかった当時に較べれば現在でははるかに容易に出来てしまいます。しかし、それを生かす産業(ミカン、茶)が斜陽とは皮肉なものです。

トンネルの上から見た広瀬の中間地域です。右の山の中腹にある建物は中部電力の東駿河変電所です。波多打川沿いに県道が北に延びています。この道を北に上っていくと茂畑の笹子峠を越え清地に抜けます。

電気と電話

道路以外の部分では広瀬はどうだったのでしょうか。まず、電気は大正5年に引き込まれ、大正12年には早くも6カ所に街灯が設置されています。6か所から始まった街灯も今では56カ所まで増え、夜でも照明の当たらない所は無いほどになっています また、電話は明治10年に日本に初めて輸入され、明治41年になって江尻局が電話交換局として開設されています。広瀬には昭和6年に庵原局より電話線が敷設され、これによって外部との連絡は以前とは較べようもない程進歩しました。

有線放送

昭和の20年代までは村内の連絡は会合や回覧により行っていましたが、放送施設の必要を感じ、昭和28年に有線放送設備が設置されています。当時の記録によれば金16万5千円とあります。現在では各家にスピーカを取り付けて放送機械も平成6年に最新式のものに新調されています。

教育


大正13年に完成した分教場。これは昭和35年まで使われました。その後、若葉保育園として、昭和55年に廃園されるまで続きましたが、その後は一般に有料で開放され大勢の方に利用されています。

子供達の教育はどのようなものだったのでしょう。日本では明治5年に学制が領布され、身分による教育の差別が撤廃されて4年生までの義務教育の制度が発足しています。
この翌年の明治6年、庵原地区に3小学校と1分教場が開設されます。この分教場は茂畑の一渓寺におかれこれは興津の由学舎の分校となっていました。その後、明治12年の教育令制定により、広瀬、茂畑を1学区として広瀬に広茂学校が建設され、明治41年の通学区域変更まで30年間使用されました。
広茂学校が廃止された 後、広瀬は草ケ谷に出来た東方小学校に通うことになります。この東方小学校も大正13年には廃止されましたが、この年に広瀬茂畑分教場が広瀬字樋田に新築されています。この分教場はその後、昭和35年まで使われていました。
分教場廃止の後は昭和50年代まで自治会運営の保育園となりましたが、保育園も廃園となってからは多目的に利用できる施設として、バンドの練習、太鼓の同好会の練習など、一般からの利用者にも重宝されています。

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夜間学校

一方地区内では 明治38年には広瀬夜学校が始められています。これは、義務教育を終えた者に農業、及び、社会一般の読み書き、珠算等の補修指導を目的とした学校で、年限は3年となっていました。皆、なかなかの教育熱心であったようです。広瀬に初めて人が入った時にはわずかに3軒だった戸数も500年経った今、68戸迄増えています。改めて、先人達の苦労に頭の下がる思いです。たまには、後ろを振り返って見てみるのも必要な事のようです。

自治会館

2000年に完成した自治会館です。1階に談話室、厨房、図書室、2階に会議室を備えたりっぱな会館です。これだけの建物をただ、地区の集会のために使うのももったいない話です。他にも何か有効な利用方法を考えたいものです。

中部電力変電所

平成に入り建設された中部電力東駿河変電所。広瀬の東側の山の中腹に作られています。工事前の面影は殆ど残っていないほど地形は変わりました。ヘルツ変換の変電所のため東京電力と中部電力の両方の鉄塔が建ち並んでいます。

餘光園

明治35年2月3日、時の皇太子殿下(後の大正天皇)が有栖川親王、徳川慶喜公と共に広瀬に狩猟に来られた事を記念して記念碑を建てここを餘光園(ヨコウエン)と名付けました。
餘光園の主碑面には
  明治三十五年二月三日
     皇太子殿下御休憩の処
         正二位子爵 杉 孫七郎謹書

裏面には
  大正三年甲寅歳 八月三十一日
        庵原郡庵原村広瀬区民敬建立

広瀬歴史年表

広瀬500年の歴史年表です。とはいっても主なものは明治以降の歴史になります。しかし、これだけ自分の住む地域の歴史が解明されている地域もあまり無いと思います。
上の画像をクリックすると大きな画像が表示されます。(pdfファイルです)

広瀬500年部落史

広瀬の歴史を今知ることが出来るのもこの本があればこそといえます。この歴史本は地区内に住んでいた杉山久夫氏(故人)が30年程の間に集めてきた広瀬に関わる古文書等を調べて2000年に発行した広瀬500年の歴史書です。
これ以前には大正2年に畑芳太郎氏という分教場の先生が書かれた「広瀬区史」という歴史書があった事は分かっていましたが見つける事は出来ませんでした。2014年になって、この久夫氏のお宅を解体して新築することになり、その時改めて探させて貰いようやく見つける事が出来ました。500年部落史と広瀬区史、この2つの歴史書は広瀬にとっても貴重な財産といえます。こうしたものを後世にしっかり残していける方法を考える必要があります。