今から1300年程前、実に32回にも及んだという、持統天皇の吉野宮滝への行幸の道をノンビリと3日掛けて辿ってみました。
スタート 行幸のスタートは持統天皇自身が作り上げた藤原宮だった筈です。藤原宮の門の柱位置が朱色の柱で示されています。真北に耳成山、西に畝傍山、東に香具山、と大和三山に囲まれた中に藤原宮が作られました。
ゴール ゴールは吉野宮のあった吉野の宮滝でした。平安時代になると吉野宮は宮滝から吉野山に場所を移し、後醍醐天皇が南朝の宮としました。
この何年かよく通る名阪道路を天理東ICで降りて天理駅に到着です。昨年の「山辺の道」ウォークの時も利用した駅前の駐車場に車を駐めて近鉄の天理駅から大和八木駅に向かいますが、途中の平端駅で乗り換えになります。鉄道網が発達している所は羨ましく思います。
9:25am 八木駅に到着し二日後の吉野宮到着を目指し、ようやくスタートです。八木駅は橿原市になりますがスタートするとすぐに、その昔、藤原京と平城京の朱雀門を真っ直ぐに結んでいた下ツ道に出ました。家並みは見事なもので、殆どの屋敷に卯建が上がっています。
東西に横断する横大路と南北に縦断する下ツ道が交差するするのが「八木札の辻」。江戸時代になると横大路は「初瀬街道」とか「伊勢街道」と呼ばれるようになりました。江戸時代中期以降この札の辻界隈は伊勢参りや大峯山への参詣巡礼などで特に賑わっていました。
嘉永6年(1853)に描かれた「西国三十三所名所図会」にも描かれている井戸です。絵では六角形の井戸も今では写真のように半分に切られてしまっていますが、残っていただけでも驚きです。
交流館二階の、元は宿泊部屋だったところから見る横大路(伊勢街道)。横大路は大阪の境から東に伸びる竹内街道に繋がり、東は桜井市まで伸びている街道で、我が国最古の官道(国道)と言われています。
南北に抜けている下ツ道から90°東に向きを変え、少し進むと境内に人の賑やかなお寺がありました。山門の入り口には「おふさ観音」とあります。境内には約4000種のバラが植えられていています。
正式な寺名はおふさ観音寺で真言宗のお寺です。
おふさ観音から少し行くとJAがあり、その2階が藤原京の資料室になっていました。なんでJA に資料室が?見学も無料なので入ってみました。ここで凄い!と思うのが藤原京のジオラマです。6m x 7m 縮尺千分の一のジオラマですから見応えがあります。こうした物を見ると位置関係がよく分かります。
飛鳥京から藤原京へ遷都されたのは持統8年(694)。藤原京は平城京へ遷都される710年までの16年間、都が置かれた日本の首都でした。最近の研究により藤原京の規模はこの後の平城京より大きな都だった事が分かってきています。不思議なのはそれだけの規模を誇った藤原京が何故に僅か16年程度で平城遷都になったのか?
三山に抱かれ飛鳥長閑けくも
歴史は時事に新たなりけり 一秀
藤原宮跡を少し東に進むと大和三山の一つである香具山の麓に出ます。ここに奈良文化財研究所があり、無料で見学できます。展示物の中に複製瓦がありました。重さは11Kg。持ってみるととんでもなく重たいです。大極殿にはこの瓦が10万枚使われていたと言いますから、その総重量は1100トンにもなります。この当時この重さを支える事の出来る建築物があった事は驚きです。
奈良大安寺の前身で、金堂と塔の基壇を残しています。《大安寺伽藍縁起幷流記資財帳》と《日本書紀》によると,617年(推古25)聖徳太子が熊凝(くまごり)村に建てた道場を起源とし,639年(舒明11)百済川のかたわらに移建,百済大寺としますが,その後,673年(天武2)高市郡に移し,高市(たけち)大寺と改号しています。さらに677年大官大寺と改め,飛鳥寺,川原寺,薬師寺とともに,藤原京内の四大寺となりました。
天智天皇が建設した漏刻(水時計)の遺構です。 残念ながら建屋部分や仕掛けそのものは失われていますが、基礎の面積や礎石の大きさ、配置などからその規模を実感できます。天智天皇は時計という物を初めて使った天皇で、中山道ウォークの時に寄った山科にある天智天皇陵にはこの事に因み、日時計が備えられていました。
突然見た事のある風景が目に飛び込んできました。右手に蘇我入鹿の首塚、左を見れば我が国最古の本格的仏教寺院「飛鳥寺」がありました。行幸の道はこの間にある街道だったのだと、今にして知りました。水の張られた水田に映る山は蘇我入鹿の館のあった甘樫丘。
大化の改新のきっかけにもなった「乙巳の変」の舞台になった飛鳥宮跡。ここで蘇我入鹿が中大兄皇子と中臣鎌足の謀略により殺害され蘇我氏は滅んでいきました。現在の日本の元を作るきっかけとなった舞台がこの地だったのだと思うと感慨深いものがあります。しかし、裏を見れば藤原氏が天皇家と結びついて日本という国家を操っていくきっかけとなった事件とも言えます。
岡まで来た所で寿司屋があったのでここで昼食としました。ここまで来れば1日目のゴール予定としている石舞台は目の前です。と、言う事で安心していつものようにビールの乾杯となりました。写真の玉藻橋は飛鳥川に架かる橋でここが今日のゴールとなりました。ここから民宿まで歩く事になりましたが、時間があるので遠回りして明日香村内を見ながら宿に向かう事にしました。
聖徳太子誕生の寺として知られる「橘寺」です。100寺を歩こう会でも来ていたので今回拝観はパスしました。品のある雰囲気を持つお寺です。大きな建築物は無いのですが、聖徳太子が建立した法隆寺にも通じる、それなりの迫力を感じます。これは聖徳太子という人物のカリスマ性によるものなのかもしれません。
川原寺は先ほどの大官大寺(大安寺)と並び飛鳥四大寺に数えられ、朝廷に重用されてきた大寺でした。この地にはは板蓋宮が焼失した時に一時期皇居として使われた川原宮が有りましたが、この跡地に建てられたのが川原寺となりました。他の3寺については記紀等にその創建が詳しく記載されているのに、この川原寺だけは一切記述されていない事も謎で、平城遷都の際、この寺だけは移築されなかったという事をみても謎の多い寺となっています。
長辺4.53m、短辺2.77m、高さ2m強の巨大な石造物。大字川原と野口の間にあります。伝説では、奈良盆地が池だった時に、川原の鯰と当麻の蛇が池の水を巡って争い、鯰が負けて池の水を蛇に取られてしまったので、その為に多くの亀が干上がって死んでしまいました。その亀達の霊を慰める為の石がこの亀石で、今は顔は南西を向いていますが、亀石が当麻の方向(西)を向いた時、奈良盆地は再び池になってしまうそうです。
緩い坂道を下ってい行き、右上に入った所に「鬼の俎」と呼ばれる加工された巨大な一枚岩がありました。上面が平らな事から鬼の俎と呼ばれているようですが、明日香はこうした石の加工物が多い所で、石材やこれを加工する技術を持った集団がいたと言う事になります。こうした技術者は渡来人だったのでしょうか。
をちこちに 謎多き石飛鳥には
訪ね巡りし歴史のロマン 一秀
鬼の雪隠とはまたいい加減な名前を付けたものです。この不思議な石はどうやらこの上にある前出の「鬼の俎」とセットで古墳の石室となっていたようです。周りを覆っていた土砂が流され、その後二つの石が離れてしまい、これが転げ落ちて「鬼の雪隠」と呼ばれるようになったという説明でした。
鬼の雪隠から坂道を下りきり、再び坂道を登って高松塚古墳に到着。古墳自体も整備されて綺麗になっています。この下には「高松塚壁画館」があり、ここでは高松塚古墳の石室を忠実に再現したレプリカを見る事が出来ます。飛鳥時代に描かれた極彩色の絵が未だに鮮やかな色を保っている事には驚きます。
今回の街道歩きのテーマとなった持統天皇が夫と共に眠っている「天武・持統天皇陵」。正式名は「檜隈大内稜」といい、夫と同じ稜に入る事は持統天皇の願いであったといいます。今回お世話になった宿は明治になるまでこの稜を護って来た家柄のお宅と知り、まさかの偶然に超ビックリでした。
2日間お世話になった民宿「脇本」。この宿はお勧めです。檜隈大内稜をずっと守って来た家柄というだけに稜の近くにあり、他にも亀石、鬼の俎、鬼の雪隠などへも近い場所になります。広大な御屋敷で立派な蔵もありました。私たちの泊まった時は1泊2食付きで4人部屋で6,000円。一名だけ女性だったのでこちらは一人で7,500円。食事も良かったです。もしこれから明日香に行かれるのならお勧めの宿です。飛鳥駅からは歩いて15分程。
バスは始発でも9時過ぎになってしまうので歩いて昨日のゴール地点に向かいました。昨日の玉藻橋までは約2Km。今日は最初から最後まで山の中なので宿の近くにあったコンビニで水と昼飯を確保しました。青空の下、田植えの終わった水田に映る橘寺が綺麗です。明日香の寺は奈良や京都にあるような巨大な寺院ではありませんが、歴史の重みで見る者を圧倒させるような雰囲気があります。
五月晴れ 古都の歴史に遊ばむや 一秀
ようやくスタート地点に立ち、今日のゴールである吉野川を目指して飛鳥川に沿って上流に進みます。暫く進むと目の前に広い棚田が広がってきました。ここは奈良県景観資産として指定を受けた「稲渕の棚田」。中世(平安~室町時代)に開墾され、日本の棚田百選にも選ばれた稲渕の棚田は300枚あまりの水田と畑により形作られ、明日香村の美しい歴史的景観の一部となっており、農村の原風景を強く残しています。
歩を止めて 見遣る棚田や夏模様 一秀
飛鳥川に綱を張る綱掛神事は、稲渕と栢森両大字に伝わる、毎年正月11日(稲渕では成人の日)に、勧請綱を新しく取りかえる神事です。 集落の下手の飛鳥川の上に綱を張る。子孫繁栄と五穀豊穣を祈ると共に、悪疫などがこの道と川を通って侵入するものを押しとめる結界となり、 住民を守護するための神事といわれています。綱にの中央には稲藁で作った男性のシンボルが 吊り下げられます。
中大兄皇子が南淵請安のもとへ、また、天武天皇・持統天皇が吉野離宮へ通った時にも渡ったであろう飛鳥川を渡る飛石。表面の平な8個の自然石が 川中に据えられていて、 歩いて川を渡ることができるようになっています。しかし、万葉の歌の中にも「 年月もいまだ経なくに 明日香川瀬瀬ゆ渡しし石橋もなし」と、橋が無くなってしまった事を嘆く歌も残されていますから、この石が当時のものとは考えにくいです。
栢森集落には稲渕の男綱と同じように、こちらには女綱が掛けられています。また中央には稲わらで作られた女性のシンボルが吊り下げられます。興味深いのは、稲森のそれが神式で行われるのたいして、栢森では仏式で行われている事です。これは明治になるまでは一般的であった神仏習合の名残なのかもしれません。しかし、中央に下げられる陽物と陰物はさほどの違いは無いようにみえました。
栢森の集落に入ると小さな沢が合流していました。何でもない風景なのですが、何となく気になった風景です。
同じく栢森のワンショット。今では珍しくなったホーロー看板が、それも酒の宣伝看板ばかり纏まっていました。
栢森を過ぎるといよいよ山の中に入っていきます。でも本当の山路の区間はあまり無さそうで殆どは奈良県道15号桜井明日香吉野線を進みます。
芋峠悩みし女帝幾度か
超え宮滝へ夫を偲びて 一秀
山路から再び県道に出る直前にあった石仏。役行者(役小角)のように見えます。役小角は吉野の金峯山寺の開祖ですから、吉野近くの山中に彼の石仏があっても当然と言えば当然の事。
11:03am ようやく芋峠(標高556m)に到着。芋峠の語源は、芋を背負って峠を越えた という伝承や、疱瘡(ほうそう・いも)の疫病神を払 うという説のほか、吉野の「妹山」が見おろせる峠の説などがあります。
興喜ちゃん 吉野の山に雉撃てり 一秀
0:34pm 途中で昼食にしてゆっくり休憩を取りました。天気は快晴ですが、そんなに暑くないので助かります。そこからはノンビリと歩を進め、麓の集落、千股に出ました。ここから吉野川までは緩い下りとなり、距離的にもあと僅かでゴールの吉野川に出ます。
1:20pm 今日のゴールである吉野川に出ました。事前に調べた時に、この場所に宿があるようでしたが、実際に見てみるとどうも営業はしていないようでした。ゴール地点から最寄りの近鉄、大和上市駅までは1Km以上歩かなくてはなりません。
吉野川に架かる近鉄吉野線の鉄橋です。 吉野川橋梁は、 近鉄吉野線の大和上市駅と吉野神宮駅間に位置し、1928年(昭和3年)3月に吉野鉄道(現在の近鉄吉野線を建設した鉄道会社)が六田駅(旧吉野駅)から吉野駅までの延伸にともない完成させています。
近鉄の大和上市駅に到着。まだ時間も早いので吉野まで行き、ロープウェイで吉野山に上がってみる事にしました。上市駅から終点の吉野駅までは二つ目の駅なので吉野川を渡ればじきに到着です。
初めての吉野駅。流石にこの時期観光客もさほど居ません。ロープウェイの駅に行ったら、昨年の5月に故障して以来、運転を止めているようです。このロープウェイは1928年に出来てから既に90年を経過している国内最古のロープウェイと言う事もあり、故障も無理も無い事です。ロープウェイに乗ってみたかったのですが残念!。代行のバスで下千本まで行きました。
前回来たのは2014年の7月の事でしたからもう4年も前の事。時の過ぎゆくスピードは年齢を重ねれば重ねるほど加速していく程ようです。バスを降りて少し進めば黒門をくぐります。この門は金峯山寺の 総門で、言うなれば吉野全山の総門でも有って、この様な様式の門を高麗門と云います。昔は公家、大名と云えどもこの門から中へ入る時は、槍を伏せ、下馬して通行したと云う格式の高い門です。
総門の先に日本三鳥居(大阪四天王寺の石の鳥居、安芸の宮島の朱色の両部鳥居と共に)の1つ、「銅の神明鳥居」が建っています。高さ7.6m、柱の径1mで、東大寺の大仏さんを造る時に余った残りの銅で造られたといい、扁額に弘法大師の筆で「発心門」と書かれています。
前回来た時にも修理中であった仁王門でしたが、未だに工事が完了していませんでした。額に「金峯山」と書かれた「仁王門」は、重層入母屋造、三間一戸瓦葺です。建立後、南北朝1348年(正平3年)に足利尊氏の執事・高師直の兵火で焼かれましたが、1455年(康正元年)再建されました。
役行者が本尊「金剛蔵王大権現」を感得し、その姿を桜の木に刻んで祭祀したのが始めとされています。その後、桜の木の寄進が続き、現在のような桜の名所になったのだとか。この日は本尊の蔵王権現を見る事は出来ませんでしたが、あの大きな蔵王権現は見ているだけでも元気が出てきそうな雰囲気を持っています。
大塔宮護良親王は後醍醐天皇の皇子。元弘三年(1333)に北条幕府の大軍に攻められた大塔宮は、ここを本陣として壮絶な戦いを繰り広げましたが、落城に際して最期の酒宴を行った場所とされています。石柵内の四本桜はその折に張り巡らした陣幕の柱の跡だと言われているようです。
吉野駅までの帰り道はロープウェイの駅に向かって降りる道があるようなのでバスに乗らず歩いて下る事にしました。道沿いはアジサイが植えられていて、丁度この時期には満開を迎えていました。歩いての下山は大正解だったようです。
不器用に 生きて今朝見し七変化 一秀
再び吉野駅。丁度ホームには近鉄の超豪華列車「蒼のシンフォニー」が入っていました。車体の色も濃い蒼で見るからに豪華に見える車両でした。
吉野駅からは50分ほどで飛鳥駅に到着しました。宿までは1Km程あるので少しだけ歩かなくてはなりません。昨日も見てきた天武・持統天皇陵の前を再び通り宿に到着です。今日はよく歩きました。そんな訳で足も些か疲れ気味。夜のビールも旨かったです。
3日目の今日の天気は雨模様です。宿で朝食を済まし、宿の玄関で記念撮影をして早々に出発しました。早い時間にスタートすれば降り出す前にゴール出来そうです。飛鳥駅からの昨日のコースを逆に進み、飛鳥駅に到着。まずは昨日の大和上市駅まで行き、リュックはコインロッカーに入れ、身軽になって昨日のゴール地点まで戻りました。
今にも雨の降りそうな空模様です。国道の裏通りはいかにも昔ながらの古道といった道幅ですが、そうかと言って古い建物が残っている訳では無く家並みは現代風です。飛鳥時代、ここを大勢の共を引き連れての行幸が何回となく通り過ぎて行った行列をイメージしようとしても、この家並みからはそのイメージが思い浮かんで来ません。
妹山と吉野川を挟んで向かい合っている山が背山です。雛鳥と久我之肋の悲恋として名高い浄瑠璃や歌舞伎の『妹背山婦女庭訓』に登場する二つの山です。この世で一緒になれないと思った妹山側の雛鳥は、自害して自分の首だけを船に乗せ、久我介のいるに背山まで吉野川を渡ります。妹背大橋は悲恋だった二人を結ぶ橋といわれているそうです。この橋で吉野川の左岸に渡ります。
吉野と言えば吉野杉。それだけに製材所もあちこちに幾つもありました。確かに質の高い杉や檜材なのでしょうが、現在の日本の建築でこれらの材料が使われる事があるのでしょうか。
流石に綺麗な吉野の杉林です。これまでに育つには何十年も掛かっている事でしょう。このような材を使った日本建築が一般的に建てられるようにならなければ、今にこのように管理された美林はその姿を消してしまうのかもしれません。今の時代、新築の家で木の肌の見える家など見る事など無くなってしまいました。
とうとう雨が降り出し、傘をさして雨の宮滝へ到着です。宮滝の吉野宮があったのはこの場所の対岸辺り。吉野川の流れもここまで遡ってくると姿を変え渓流になってきました。宮滝といっても滝が有る訳では無く、両岸の岩が張り出して流れの幅が6m程に狭まっている様を滝に見立てたようです。
飛鳥や奈良の都人にとって、 吉野は近くて遠い神仙郷のようなもので、足を踏み入れようとも、 隔絶された自然は厳しく、人を容易に寄せ付けないような地でもありました。人々が憧れるそんな吉野の地に宮を置き、またそこへ何度も通った当時の天皇の思いも分かるような気がします。
今は緑で綺麗な宮滝ですが、秋になれば紅葉で色鮮やかな宮滝になりそうです。そんな季節にもう一度来てみたいものです。吉野川の川の水はずっと濁っていますが、何故なんでしょう?。
橋を渡ると吉野川の北岸に「史跡 宮滝遺跡」の碑がありました。でも実際に遺跡の遺構が発掘されたのは少し下流に行った所だった筈で、少し下流川に移動してみました。人も一人も見えないので、人に聞こうにも聞けません。
ようやく宮滝にあった吉野宮の跡に到着です。平安時代になり後醍醐天皇により南朝が吉野山に起こされるまでは吉野宮はこの宮滝にありました。聖武天皇の頃にはこの少し西に離宮も建てられ、奈良や明日香の都人がここ宮滝に足繁く通いました。
離宮の発掘調査の説明看板がありましたが、こちらで吉野離宮と考えられる建物の遺構が出たようです。それによれば当時の建物は山際から川岸近くまでの広い範囲に建てられていたようです。
この吉野宮滝でも一番高い所に「資料館」があったので、坂道を登って行ってみました。無料かと思ったらしっかり入館料200円を取られました。その割に展示物はあまり大した物は無くこの拝観料には割高感があります。どうやら主だった出土品は橿原の方にいっているようです。
資料館に宮滝の宮に関わる年表が展示されていました。これによれば吉野宮は656年に斉明天皇が造営したのが始まりとなっています。その後、671年に大海人皇子が吉野へ逃れてきて、翌年に挙兵し壬辰の乱の始まっています。持統天皇の初めての行幸は689年。その後702年に没するまでの13年間で32回も通っています。平均すれば1年に2.5回となり、行幸の回数とすればかなり多い事になります。
予定していた路線バスに乗り大和上市駅に戻り、壺坂山駅まで電車で来ました。これから雨の中を歩いて「キトラ古墳」まで行きます。雨も小降りというものでは無く、結構本格的な降りになってきています。
キトラ古墳なんてこれから見に来る事も無いのでしょうから、見る事が出来るうちに見ておくのが後悔しない一番の選択でしょう。後悔といえば、宮滝にあった桜木神社は予定していたものの、雨が降り出していたので止めてしまいました。しかし今になって思えば、寄ってくれば良かった、と些かの後悔が残ります。
キトラ古墳は石室内の4面の壁にそれぞれ青龍、朱雀、白虎、玄武の四神が描かれている事で知られる古墳です。古墳の周りは国営飛鳥歴史公園の「キトラ古墳周辺地区」としてかなり大がかりに、また綺麗に整備されています。
キトラ古墳の本体部分。形は円墳で、その直径は下段でも13.8mと小型の古墳です。古墳の周りは驚くほど綺麗に整備されています。ここに埋葬されたのは誰なのか?。これは天武天皇の皇子たちや、実務にあたる高位高官が候補にあがってくると考えられますが、特定は出来ていません。
古墳の前に設置されていたキトラ古墳の模型。 キトラとは何とも洒落た名前ですが、これは見つかった当初、南側の壁に開けられた盗掘の穴から中を見た時に白虎と玄武の絵が見えたそうで、そうした事から亀虎古墳(かめとら)と呼ばれたそうです。しかし、明日香村の方から「亀虎では格好悪い」との要望がありこの亀虎を「キトラ」と読ませ、尚且つカタカナ表記にしたのが「キトラ」の名の起こりなのだそうです。
平成28年に開館したばかりの施設で、キトラ古墳や古墳の壁画について学べる施設となっています。館内では古墳の内部を正確に模したレプリカが展示されていますが、そのリアルさにはビックリ。
施設の名も壁画の図柄に因み「四神の館」となっていています。これだけ大規模な施設への入館が無料というのですから驚きます。そう言えば3日間明日香にいますが、ゴミや草の生えている所ってあまり気がつきませんでした。これも明日香法という明日香村のためにつくられた法律に寄る所が大きいのでしょう。この法によって明日香村の自然遺産や歴史遺産、文化遺産が守られるようになっています。
腹も減りました。駅の近くのラーメン屋でようやく昼飯にありつけました。このまま天理まで行き車の運転になるので、今日は昼のビールは無しです。この後橿原で橿原神宮を観て行く予定もありましたが、天候も悪いのでこれは次の機会に譲ることにしました。