大神神社 市杵嶋姫神社 檜原神社 石上神宮 二月堂 転害門
2014年に桜井駅から天理駅まで歩いたのは「山辺の道」の南半分でした。そこで今回は天理から奈良に続く北半分を歩いてみようと計画をたてましたが、初めての人も居ると言う事で結局大神神社から奈良公園までを通して歩く事になりました。前回二日掛けて 歩いた区間を最初の一日で歩いてしまおうと言うのですから、実際に1日目で天理まで届くのかと心配にもなります。そこで3年前のコースを改めて見てみるとかなりあちらこちらへの寄り道をしていました。今回は初日、コース上を歩くだけにすれば何とか天理まで行けそうです。2日目は天理から、柳生街道と出会う奈良の新薬師寺辺りまでとなり、距離も差ほど長くもありません。 人数も希望者を全て受け入れた結果、8人の大所帯になりましたが「旅は道連れ」です。
三輪駅 大神神社
大神神社 狭井神社
久延彦神社 玄賓庵
檜原神社 渋谷向山古墳
行燈山古墳 柿本人麻呂歌碑
夜都伎神社 夜都伎神社
天理観光農園 芭蕉句碑
石上神宮 布留の高橋
最後の登り ゴール間近


1日目 三輪駅 〜〜 天理駅


朝4時に清水を出発し、8:30am 天理駅に到着。駅前の駐車場に車を置いて桜井線で三輪駅まで行きます。スタート地点となる大神神社までは駅からはさほど距離はありません。大神神社(おおみわじんじゃ)の祭神は裏山の三輪山に鎮座する大物主大神。その為に、拝殿はなく、三つ鳥居を通して三輪山を拝む形になります。
崇神天皇の御代に神意を伝える巫女として天皇のまつりごとを助けた倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)という姫がいました。この姫が大物主大神の妻となるのですが、大神は夜にしか姫のもとを訪れません。姫は貴方様の顔をはっきり見たいと大神に願い出ます。姫の申し出を聞き届けた大神は、姫の櫛を入れた箱の中にいるが、箱を開けても決して驚いてはならぬと念を押しました。不審に思いながらも明朝に姫が箱を開けると、そこに小蛇が入っており、驚きのあまり姫は悲鳴を上げてしまいます。大神は蛇からたちまちに麗しい男性に姿を変え、約束を破ったことを責め、二度と姫とは会えぬと大空を翔けて三輪山に帰ってしまわれました。そして後悔した姫は箸で女陰を突いて命を落としてしまわれました。このことから百襲姫 の墓は箸の御墓と呼ばれました。三輪山の麓にある箸墓にまつわる、この悲しいお話が『日本書紀』に記されています。
日本書紀と言えば日本の天皇家の正史でもあるわけで、こうした書物にこんな内容の話が出てくる事が何か可笑しいです。
そうそう ゆっくりもしていられないので先を急ぎます。風も程よくあり、気温も適温、言う事無しの街道歩きなのですが、この2ヶ月間のノンビリが祟ったのか結構体が重いです。
   柿緑 山辺の道燦々と   夢の輔
街道脇にある小さな磐座神社では何かの神事が行われていましたが、横を抜けて先に行きます。この先にあるのは狭井神社。狭井神社は狭井川の畔にある大神神社の摂社で、正式な名前は「狭井坐大神荒魂(さいにいますおおみわあらみたま)神社」といいます。拝殿の左後ろに、この神社の由来になっている神水の井戸・狭井があり、この霊水を飲めば健康でいられるといいます。 この先で街道を外れて大和盆地を見下ろす事が出来る「久延彦神社」まで上がってみました。残念ながら前回来た時より周りの竹藪が広がり、視界はかなり狭められてしまっていました。玄賓庵を過ぎ、檜原神社に到着して境内に立ち入ると、正面には鳥居が3つ連なった三つ鳥居、振り返って下界を見下ろせば正面には箸墓古墳。なかなかの絶景です。
   万緑の 里山縫ひて古道かな    一秀
今回は時間もあまり余裕が無いので箸墓古墳に寄るのは諦めこのまま北に進みます。この辺り一帯は大和青垣国定公園に指定されています。奈良盆地の四周を囲む山地は、昔から青垣山と呼ばれていますが、この公園は盆地の東部の丘陵線を保護・整備するために昭和45年末に指定されました。
この先に相撲発祥の地となった相撲神社もありますが、これも前回見ていたので今回はパスです。
のどかな畑地帯を進むと前に見えてくるのは日本武尊の父親である景行天皇の陵と比定されている「渋谷向山古墳」。そしてその先には左に周りの堀に満々と水を湛えた崇神天皇陵(行燈山古墳)右に櫛山古墳。山辺の道はこの隙間を抜けて北に延びています。3年前にはここが1日目のゴール地点でしたが、今回はまだ初日の予定の中間地点。丁度ソバ屋さんがあったので昼食にしました。勿論、ビール付きです。と、言うより、昼食の食事処を選ぶ最低条件がビールを飲める事なのです。
ビールとソバで腹を満たし、リスタートです。少し先に柿本人麻呂の歌碑があり、そこには切ない歌が残されていました。
   衾道 を引手の山に妹を置きて
            山路を行けば生けりともなし

引手の山(現在の龍王山)に妻の屍を葬り、山路を帰ってくると悲しくて生きた心地もしない。
この先には念仏寺があり、その辺りからまた古墳が連続します。右手に中山大塚古墳、少し進むと燈籠山古墳、次に見えるのは左に下池山古墳、右に西殿塚古墳(衾田陵)、正面には西山塚古墳とこの一帯は古墳だらけです。ここを過ぎると再びのどかな畑地帯が続きます。右手に見えてくる竹之内町の集落は環濠に囲まれた環濠集落として知られていますが、残っている環濠は僅かしか無いようです。ここも前回寄ったのでパスということになりました。
竹之内の集落を過ぎると正面に夜都伎神社の林が見えてきます。
<夜都伎神社の説明看板>
天理市乙木町の北方集落からやや離れた宮山(たいこ山ともいう)に鎮座し俗に春日神社といい春日の四神を祀る。
乙木には、もと夜都伎神社と春日神社との二社があったが、夜都伎神社の社地を竹之内の三間塚池と交換して、春日神社一社にし社名のみを変えたのが現在の夜都伎神社である。
当社は昔から奈良春日神社に縁故深く、明治維新までは当社から蓮の御供えと称する神饌を献供し、春日から若宮社殿と鳥居を下げられるのが例となっていると伝える。
現在の本殿は明治39年(1906年)改築したもので、春日造檜皮葺、高欄、浜床、向拝彩色7種の華麗な同形の四社殿が末神の琴平神社と並列して美観を呈する。拝殿は藁葺でこの地方では珍しい神社建築である。鳥居は嘉永元年(1848年)4月奈良の春日若宮から下げられたものという。

3年前には茅葺きの屋根も傷んでいましたが、その後葺き直したようで綺麗な屋根に生まれ変わっていました。ここまで来れば石上神宮も近くです。しかし最後のきつい登りがあるので、その前にソフトクリームで休憩をとり急坂に備えます。キツイキツイ坂道を登り切るとかつてはそこにあったという「永久寺」の跡に説明が書かれていました。かつては広大な寺領と伽藍を誇った永久寺でしたが、明治の廃仏毀釈の流れの中で寺の経営基盤を失い、廃寺となってしまったようです。近くにある芭蕉の句碑には
   うち山や とざましらずの花ざかり     宗房
この句碑からは10分ほどで石上神宮に到着です。石上神宮も大神神社と並ぶび、日本最古の神社として知られています。
   山の辺の 道老鶯を道連れに  一秀
ここからゴール地点までは約2.5Km。どうやら早く着いてしまい、バスを30分ほど待つようになりそうです。ならばバスを待つより天理駅まで歩こうと言う事になり、天理駅まで歩いたところでゴールとなりました。
距離は大したこと無かったはずなのに、かなりバテ気味。それも70過ぎの年配者より、自分の同級の若いのがバテ気味で情けない状況でした。

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SUPER HOTEL 白川ダム
弘仁寺 大師堂
崇道天皇陵 白毫寺
白毫寺 本堂 中の禰宜道
若草山 手向山八幡宮
三月堂 二月堂
転害門 興福寺


2日目  天理駅 〜〜 奈良駅


2日目。朝は余裕を持って早めに食事を済ませ桜井線で再び天理駅に向かいます。昨日のゴール地点まで歩く気にはなれないので、路線バスで行く事にしてありました。予定通りのバスに乗り、2日目のスタートは8:10AM。今日は新薬師寺までの約12Km+奈良駅までの4Kmで16Km程。昼には余裕で奈良公園辺りにいるはずです。歩き出してすぐに白川ダムの湖畔へ出ました。ダム湖では、多分ヘラブナ釣りなのでしょう、太公望たちがノンビリと釣り糸を垂れていました。
この先でミスコース。この街道は脇道へ入ったり出たりと激しいので、気をつけていないとすぐにミスコースしてしまいます。正規のコースに戻り先に進みます。何故か、小さな山を廻るように街道が延びているのですが、何故こんな遠回りをするのか?この小さな山に何か理由があるのか?
スタートしてから1時間。左手の小山に登る坂道を進み弘仁寺の境内に出ました。静かな山の中に凄く立派なお寺です。嵯峨天皇の勅願で弘法大師が開基したといわれる古刹で この近隣では「高樋の虚空蔵さん」として親しまれているようです。13歳になった子供に知恵を授けてもらう十三参りで知られるお寺のようでした。ここは秋の紅葉も良さそうです。
   山門を 潜りて緑満身に   一秀
 下に降りて先に進みます。舗装された道路なのですが、行き交う車が少ないのには助かります。しばらく歩き大きなため池の畔に出ると向こう側に立派な「崇道天皇陵」が見えてきました。真っ白な壁が梅雨の合間の青空の下綺麗です。でも、この陵に眠る崇道天皇は藤原種継暗殺事件に連座して廃されてしまいますが、無実を訴えるため絶食し、淡路国に配流される途中で亡くなっています。天皇の名は崩御後に付けられるものですが(諡号)一般的には「崇」の字のつく天皇はあまり良い亡くなり方をしておらず、恨みを持って亡くなるために祟ると言われていました。そんな事から恨みを少しでも和らげようと崇の字を贈ったのでしょう。「崇(あがめる)」と「祟(たたる)」は字もよく似ていて違いは僅かです。この間京都で見てきた「崇徳天皇」は日本で最大の怨霊と言われていますが、やはり崇の字が贈られています。
   風薫る 天皇陵のをちこちに   一秀
ここから4Km程長閑な田舎道を進みます。
   耕運機 走り靡ける苗田かな   夢の輔
白毫寺の案内標識がありました。花の寺と言われる白毫寺でもこの時期には何も無いでしょうが、折角なので寄っていきました。からくも「ササユリ」を数輪見る事が出来ました。白毫寺は少し高台にあるのでこの境内からは大和盆地をほぼ見渡す事が出来ます。白毫寺は天然記念物に指定された五色椿で知られていますが、これとは別に樹齢600年と言われる「白毫寺椿」があります。この木に咲く椿の花には白いぼかしが一点見られ、これが仏の額にある白毫を思わせることから「白毫寺椿」の名前がつけられたと伝わります。
   萩緑 眼下眺むる白豪寺   夢の輔
再び街道に出て北に少し進めば「新薬師寺」に出ます。街道はこの裏で柳生から奈良に伸びた「柳生街道」にぶつかり、ここが「山辺の道」のゴールです。ゴールはしましたが、まだ時間も早いし、昼食もまだです。このまま「中の禰宜道」と呼ばれる春日大社の神官(禰宜)が通ったと伝わる山道を登り春日大社の前に出ました。
ようやくビールも飲める食事処を見つけて昼食をとる事が出来ました。ここからは若草山の麓を進み、「手向山八幡宮」経由で三月堂に出ました。目的はこの堂内に安置されている「不空羂索観音像」。想像していた以上に大きな仏像で迫力があります。流石に国宝クラスになると素人が見ても凄い!と思えるような仏像です。この横にある二月堂の前には「若狭井」が中にある「閼伽井屋」があり、この中でお水取りの儀式が行われますが、一般参拝者は絶対に見る事の出来ないようです。どんな事が行われているのか、一度見てみたいものです。
ここからは大仏殿の裏を通って転害門に寄ってみました。この門は天平時代からそのまま残った門で、その柱をみると流石に歴史を感じます。創建当時は無節だった太い柱が長い刻の中で表面が風化し、少し痩せて、中に隠れていた節が出てきて何とも言えない雰囲気を持つ柱になっています。
青嵐 旅の終わりの転害門  一秀
あとは奈良公園を抜け、朝ホテルに預けてきた荷物を受け取って車のある天理までJRで戻るだけ。3:30PM 奈良駅に到着です。
清水は遠い!
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