信長の居城として知られる謎の多い城でしたが、近年の発掘調査でかなり詳細が分かってきているようです。

安土城趾

秋も深まり、吹く風も冷たく感じるようになってきた11月19日、今回のあんどん倶楽部は近江之國、安土城趾と近江八幡へ出かけました。個人的にもこの2,3年、近江に来る事が多く、数えてみると近江八幡は今回が6回目になりました。
これまではガイドさんに案内して貰った事はありませんでしたが、今回安土城趾でも近江八幡散策でも観光ボランティアのガイドさん付きになり、なるほど!と思う事も多く、良い勉強になりました。
清水を出発してから4時間半、10時30分に安土城趾の駐車場に到着。ここでボランティアガイドの山添さんと落ち合い、早速安土城天主跡を目指して登坂開始です。
   信長の 泡沫の夢 安土城   一秀
安土城は言わずと知れた織田信長が築いた城で、築城は天正4年となっていますから、天正10年に起きた本能寺の変の後焼失するまでの僅かな寿命で終わっています。築城当時、安土山の麓まで琵琶湖でしたから、信長がこの地を選んだのも舟運による物流を考えての事と思います。
   石垣に 栄枯盛衰 秋深む

上の地図は明治 26年の安土城周辺の地図です。まだこの当時は安土山の麓は琵琶湖でした。この周辺が干拓事業で埋められるようになったのは昭和の時代になってからで、まだ最近の話なのです。地図の上にマウスポインタを置くと現在のマップに切り替わります。
この地ならば、琵琶湖に出て、大津から瀬田川、宇治川、淀川と下れば瀬戸内海に出る事が出来る、海運には絶好の地でした。
大手門から始まる石段は幅も広く、これなら馬でも駆け上がれそうです。という事は防御についてはあまり考慮されていない城だったと言えます。安土城は防御の為というより、信長の権威を見せつける為の城だったという事が最近の研究で分かった来ています。
   晩秋や 栄華の夢か 天守跡
天主台(安土城は天守ではなく天主と呼ばれる)まで上がると眼下にはかつては琵琶湖だった平坦な干拓地が広がっています。この天主台の上に地上6階、地下1階の7層構造の安土城が建っていました。また、本格的な天主を持つ城はこの安土城が初めてだったと言われて居ます。
帰りは元總見寺の三重塔経由で下りました。現在は大手門からの石段横に移っていますが、元々はこの地にあり、ここには三重塔が残っています。安土山を後にして、近江八幡へ向かいます。今日の昼食は弁当ではなく、近江牛の昼飯なのです。100寺からでもこんな昼食は初めてですが、もう少し厚くて大きな近江牛が食べたかった!
昼食後は近江八幡の散策です。ここでもボランティアガイドの○○さんをお願いし案内して貰いました。ここは一人西国巡礼の時に歩いていますが、やはりガイドさんが付いてくれれば、また新しい発見もあります。近江八幡の町名には孫平治の名がみられます。孫平治は「中村一氏」の別名。一氏は豊臣秀次の補佐もしていた水口城主。秀吉の小田原攻めでは秀次隊と共に大きな働きをして、この後に駿府城主になっています。静岡の臨済寺には彼の墓もありました。
近江八幡で忘れてならないものに八幡堀があります。
八幡堀は、安土・桃山時代に豊臣秀次の八幡山城居城のもと、城下町が栄える原因となった町の一大動脈です。
昭和初期までは、常に町の人々の経済・流通路でしたが、戦後は陸上交通の発展によって廃れ、生活排水も流れ込む事で。おおきな汚染問題となっていきました。これにより市では埋め立てて、別の利用を図ろうとしましたが、市民運動により、かつての景観が戻り、現在では市にとっても大きな観光財産になっています。映画のロケなども頻繁に行われこれもまた市の活性に大きな貢献をしていると聞きました。行政の計画を市民運動によって変更させた好例となっています。蘆ノ原を舟で行く水郷巡りや八幡堀巡りもサクラの咲く頃に乗ってみたいものです。
八幡山へのロープウェイで八幡山城跡を見に行こうと思い、ロープウェイ乗り場に行ってみたところ、とても時間が足りそうもなく、渋々諦めました。現在は石垣を残すのみですが、本丸跡には秀次菩提寺の村雲御所瑞龍寺(むらくもごしょずいりゅうじ)が京都から移築されています。
また、次回です。
石段に使われた石仏 広い石段もここまで
信長廟 寝殿があったと考えられる天主下
天主台へ登る 天主礎石
總見寺三重塔 琵琶湖
近江牛 昼食
近江八幡のガイドさん 八幡堀
八幡堀 八幡神社
八幡堀 白雲館

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