有明宿と桶狭間

6月のあんどん倶楽部は三河に出かけました。

有松宿、桶狭間古戦場、大樹寺、岡崎城

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有松宿

有松絞で知られる東海道の有松宿。有松宿は53次には入らない、知立宿と鳴海宿の間に出来た間の宿です。尾張藩ではこの宿場を作るにあたり、移住者を募るお触れを出し、その結果知多の阿久比から7人がこの地に入ったのが有松宿の始まりと言われています。

桶狭間古戦場

織田信長と今川義元の戦った桶狭間古戦場。まぐれ勝ちとも思える、信長の圧勝となったこの戦で義元が戦死した田楽坪という場所が特定出来ておらず、ここでは無いか?という場所が豊明市と名古屋市の2カ所ある事になり、本家「田楽坪」争いという現代の桶狭間合戦が起きているようです。

大樹寺

三河松平家(徳川家)の菩提寺となっているのがこの岡崎市内の大樹寺。桶狭間の合戦で今川方で戦った家康はこの寺に逃げ込み、自害しようとしていたそうです。その家康を思い留まらせたのがこの寺の住職であった登誉の諭した「厭離穢土 欣求浄土」の教えだったといいます。

岡崎城

徳川家康は、ここ岡崎城内で誕生しました。別名は龍城といい、 戦国時代から安土桃山時代には松平氏の持ち城、江戸時代には岡崎藩の藩庁でとなっていました。江戸時代、岡崎城は『神君出生の城』として神聖視され、家格の高い譜代大名が歴代の城主となりました。

有松宿

有松・鳴海絞会館

有松の絞会館でガイドさんと待ち合わせ。宿場町の観光では予備知識なし、ガイドさんなしで歩いてみても、ただ古い町並みを見るだけで何も分からないまま終わってしまいます。
そういった事からもガイドさんは必須。ただ、往々にして案内を頼んでも、ガイドさんの研究発表会みたいになってしまい、聞いている方がついて行けずにウンザリしてしまう事も多いです。
今回のガイドさんはこちらが知りたいと思う範囲で話して貰え、最後まで興味深く聞く事が出来ました。それに女性でしたし。

服部良也邸

服部家は明治時代服部家から東隣に分家し創業した絞商人(いげ一)で、屋敷の大部分が当時のまま残っています。
二階部分の虫籠窓の格子に金属の丸棒が使われていますが、これは明治以降に見られる主屋の特徴のひとつです。塗籠造、なまこ壁を持つ主屋西隣の土蔵は分家時に西隣にある本家の服部家から譲り受けたもので、切石の土台の上に建ち、白漆喰の塗籠造、腰を海鼠壁とする外観は、西隣の服部孫兵衛家の表倉と一連のものとして調和しており、東海道沿いの景観要素として貴重です。

服部邸 卯建

服部家は寛政2年(1790)向かいにある大井桁屋から分家し、創業した絞問屋で、この主屋の建造は1861年となっています。敷地の間口は45mあり、これは有松宿最大で、敷地内には江戸末期から明治にかけて建てられた建物が数多く残っています。
主屋、絞りの原材料や米を貯蔵する為の蔵、接客用の書院座敷などが建ち並び、絞商人の屋敷構えを良く残しています。卯建は有松宿では何カ所かで見る事が出来ますが、その中でもこの服部家の卯建は見るからに豪壮な造りとなっています。
 入梅晴れ 往時偲ばる卯建かな   一秀

昭和レトロ

8年程前、東海道を歩いた時に有松は一度来ていますが、その時は天気も悪く雨合羽を着てこの宿場を抜けた記憶があります。天気が悪いからか、宿場内も静かで、またその為なのか、昔の雰囲気も結構感じる事が出来ました。しかし今回はピーカンの晴天。町全体が明るく、建物も8年前と比べると古いながらも綺麗になっていました。これも昨今の歴史ブーム、ウォーキングブームによる観光客の増加に依るものなのかもしれません。
いずれにせよ、どんな形であれ、こうした歴史遺産を残そうとしている事は有り難い事です。

中濱家住宅

この辺りまで歩いてくると、豪壮な屋敷と蔵を幾つか見てきているので、どれがどの家の建物なのか区別が付かなくなってきています。この中濱家の主屋も立派な建物で、蔵も見事です。有松宿は天明4年(1784年)に大火が起って、全村のほとんどを焼失し、創設以来茅葺の町屋は灰燼に帰しました。この復興には20年を要したといいますが、復興時には大火の教訓から屋根は瓦、壁は塗ごめ造り、卯建を設けて火災につよい町作りをしています。こうした事が功を奏して、現在の町並みを見る事が出来ているのでしょう。

手越川河畔の柳

手越川(藍染川)河畔の柳が綺麗です。有松絞りの技法に「柳絞り」というものがあり、これは丸太に布を巻いて染めるようですが、詳しい説明はこちらへ。(ここをクリック
有松駅まで来た所で、これからは裏道に入り、先ほど見てきた東街道沿いの屋敷を裏側から見ていきます。最初にみた服部家の裏にも立派な蔵や庭があり当時の豪商の財力には驚きます。これだけの建物が有れば常時何処かの修理が行われる事になり、その為の材料を保管しておく倉庫も塗り壁の立派なものでした。

旧東海道碑

仲間達と旧東海道を歩いたのは2008年から9年にかけて。この有松宿通過は2009年5月31日でした。天気は前述のように雨。有松宿はその時初めて知った宿場でしたが、街道沿いにある豪壮な商家が沢山残っている事に驚きました。と、言うのも東海道筋には日本橋からここ有松まで、これ程の家並みが残っている所はこれまで無かったのです。実際、有松を通過してからもこれ程の所は有りませんでした 。関宿は旅人相手の宿場でしたから、有松とは雰囲気も違いました。
 涼しげに 伏せし藍甕軒下に  一秀

羽目板の謎

以前から「何だろう?」と思いながらもこの年まで知らずに来てしまった事が今回の有松でようやく解明。というのは、こうした妻の部分の羽目板には横に渡した小さな角棒(50cmくらい)が何カ所かに取り付けられています。これが取り付けられている理由は、火災の際にこの棒に鳶を引っかけ、これを思いっきり引っ張って羽目板を外す為の物なのだそうです。燃え易い板を剥がしてしまえば下地は燃えにくい土壁ですから延焼をある程度防げるという訳です。長年不思議に思っていた事が解明しスッキリ!

広重の有松

ガイドさんの着ていたこの法被は有松絞りのオリジナルなのですが、よく見てみると柄は広重の描いた鳴海宿之図。広重の鳴海宿の版画は有松を描いたものなのです。この絵の部分と周りの小さな柄は別に染めた布地を縫い合わせて作ったものかと思ったら、そうではなく、絵柄も周りの小さな柄も一体になっていました。一見地味ですが、よく見てみればかなり手の込んだ作りになっていました。
有松宿を一周して、ガイドさんとは別れ、近くにあったソバ屋さんで昼食となりました。

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桶狭間古戦場

桶狭間古戦場公園

有松から桶狭間までは近く、歩いても行ける距離なのですがバスで移動です。先にも書いたように現在桶狭間古戦場とされている場所は2カ所あり、これは今川義元が戦死したという「田楽坪」という場所が特定されていない為に起きている混乱なのです。片や「名古屋市」そしてもう一方は「豊明市」と市境に二つの「田楽坪」が存在してしまっています。東海道を歩いた時に寄ったのは豊明市の古戦場跡でしたが、今回は名古屋市の桶狭間です。この公園に来る途中、豊明市の古戦場跡の前を通って来たら、そちらでも観光ガイドさんが何人か見えました。こちらの説明も聞いてみたいものです。
 緑陰や 武将の雌雄つくづくと  一秀

近世の曙

公園内には「近世の曙」と書かれた両側に信長と義元の像がありました。義元の像は全国でもここにあるだけなのだそうです。
こちらの古戦場ではこの公園が義元が戦死した「田楽坪」とされており、北から攻めてきた信長軍に対し最初に布陣した「おけはざま山」から少しづつ南に後退し、最後はこの地で討ち取られたとされています。この戦後、それまで東海道に君臨した今川氏が没落する一方で、勝利した織田氏は美濃・伊勢侵攻から畿内の制圧へと急成長し、戦国時代の重要な転機となりました。
しかしその信長とて、この22年後には明智光秀に討たれています。

義元戦死之地碑

今川義元に一番槍をつけのは織田軍の服部小平太と言う武将。討ち取られた義元の首は清洲でさらされていましたが、鳴海城で奮戦していた岡部元信は信長と交渉し、義元の首と引き換えに、鳴海城を明け渡すことにしました。首を抱え駿府に戻ろうとした岡部でしたが、時期も6月、傷みが予想以上に早く、やむなく途中立ち寄った西尾市にある東向寺に塚を築いて首を埋葬したと伝わります。一方、首を斬られた胴は家臣達が駿府へ持ち帰ろうとしましたが、やはり痛みが早く、こちらは豊川市にある大聖寺に胴塚を築いて葬っています。それでは静岡臨済寺にある義元の首塚は?となりますが、一説として岡部が駿府まで持ち帰ったとする説もあるようです。

おけはざま山

桶狭間古戦場公園の北東のおけはざま山の西斜面中腹あたりに義元の本陣があったようです。「信長公記」には「今川義元おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」と記されています。「おけはざま山」は固有の山の名称でなく、当時の大脇村と桶狭間村の境界にある桶狭間の山を指しているようで、織田信長が釜ヶ谷から突撃したのは、このおけはざま山の本陣であり、桶狭間の戦いの主戦場となりました。そして、義元は古戦場公園辺りまで攻め込まれ、ついに討ち取られたと伝えられています。敗因はいろいろと未だに論議されていますが、いかにせん400年以上も昔の話。あーでもない、こーでもない、と論議している方が楽しいのかもしれません。

名古屋市緑区桶狭間

現在の住所も「名古屋市緑区桶狭間」になっています。別に不思議でも無い事ですが、外部から来た人間にとっては特別の地名に思えます。
昔の戦で今の時代でも誰でもが知っている戦の一番手は「関ヶ原の戦い」これに次ぐのはこの「桶狭間の戦い」ではないでしょうか。全国メジャーな戦はこれに「長篠の戦い」「三方原の戦い」「壬申の乱」くらいでしょうか。静岡市でも家康でなく、今川氏をもっと顕彰すべきと思います。今川氏は二百数十年の時を掛け、京の文化も取り入れた洒落た駿府を築き上げてきたのですから、家康の位ではありません。家康は人質時代を除けば僅か30年でしかありません。

瀬名氏俊陣地跡

桶狭間の戦いに臨み、先発隊として本陣設営に来たのが今川家臣の瀬名氏俊。瀬名氏は遠江堀越郷(現在の袋井)の堀越氏でしたが、一秀の時、駿府の瀬名郷を与えられ、それ以後瀬名氏を名乗るようになっています。一秀の子は氏貞、その子がこの氏俊になります。因みに家康の妻となった築山殿(瀬名)は氏貞の孫になり、氏俊の妻は義元に父、氏親の娘となっています。
先発隊として真っ先に桶狭間に入り、今川の陣所設置をした瀬名氏俊でしたが、設営後は大高城へ向かっていたため、直接は戦っていませんでした。この後は武田の家臣となり、最期は高天神城とも伝えられています。

戦評の松

義元の本陣の設営を終えた瀬名氏俊は、ここの大松の下で軍議を開いたと伝わり、戦評の松と言われています。初代の松は樹齢400年を超え、直径1m以上あるすばらしい松でしたが、昭和34年(1959)の伊勢湾台風で枯れてしまいました。今の松は3代目にあたります。他に敷地内には、明治以降、御料地の払い下げを受けて、農地を開墾した記念の碑があります。疑問なのは軍議を開く場所なら本陣に近い場所になるのでは?と思いますが、それだけ北から攻めてくる信長を誰も想定していなかったという事にもなるのかも?

井伊直盛陣地跡

「直虎」の父、直盛が布陣した陣地跡。場所的には田楽坪からみると北にある義元本陣の真反対になる南側の高台。ここからは北側に桶狭間を見下ろす事になります。『井伊家伝記』によれば「家来残らず召し連れ出陣」と伝わり、その数は200~300人だったと言います。それがほぼ全滅に近い状態といいますから、大将をとられた当時の軍隊がいかに脆かったか。 直盛は、そんな状況の中で先鋒の大将を務めていました。今川義元の重臣60人以上が全て討死か追腹したので、直盛もそれに従ったと伝えられています。

桶狭間古戦場公園

当たり前の事ですが、古戦場跡に明るい話題はありません。こうした場所で必ず出てくるのが、戦死者の血で池が赤く染まった、その土地の土がその後血で黒くなった、川の流れが赤くなった、川の石が血で黒くなった、など様々な言い伝えが残ります。それだけ戦死者が多かった事を表しているのでしょうが、今年1月に行った「関ヶ原古戦場」ではそのような話は聞きませんでした。と言う事は関ヶ原の場合は総人数の割に戦死者が少なかったと言うことなのかもしれません。戦いの時間が短かった事も幸いしたのでしょう。

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大樹寺

多宝塔(重文)

大樹寺は岡崎市内にある三河松平家(徳川家)の菩提寺で徳川代々将軍の等身大の位牌が安置されています。これは徳川家康が残した「予の遺体は久能山へ埋蔵せよ」 「位牌は三河の大樹寺へ安置せよ」の遺言により収められたもので、その後の代々将軍についても同じように等身大の位牌が大樹寺に安置されました。大樹寺に安置されている江戸幕府歴代将軍の位牌は、それぞれ将軍の臨終時の身長と同じという説があります。また15代将軍慶喜の位牌は将軍職を退いた後も存命であった事にから、大樹寺に置かれていません。

弥勒菩薩像

一光千体阿弥陀如来と如意輪観音菩薩の二体が大樹寺の本尊となっています。これまで参詣してきた浄土宗の寺同様、こちらのお寺の本堂も大きくて金ぴかです。須弥壇の左右の柱に掛かっているのは家康の命を救ったという「厭離穢土 欣求浄土」の教え。桶狭間の戦いで今川方についた家康は追手を逃れて手勢18名とともにこの寺に逃げ込みました。しかしついに寺を囲んだ追撃の前に絶望し自害して果てようとした家康でしたが、第13代住職登誉天室はこの教えを諭して家康に自害を思い留まらせたと伝えられています。

山門の中に岡崎城

総門・山門を通して、まっすぐ向こうに岡崎城を見ることが出来ます。また現在はこの間に高い建物を建てることが規制されているようです。大樹寺と岡崎城を結ぶ約3キロメートルの直線を歴史的眺望「ビスタライン」と呼んでおり、この間の交差する道路上にはその位置を示す「ビスタライン」と明示した金属鋲(直径5センチメートル)が92箇所設置されています。確かに門の真ん中に岡崎城が見えていました。名古屋といい、岡崎といい、歴史的遺産の保護にはかなり力を入れているように感じますが、我が静岡は?? 東海道歩きで失望しました。

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岡崎城

空堀

岡崎城は徳川家康の生まれた城として知られています。「桶狭間の戦い」で今川義元が亡くなった際の家康の居城でした。この後、徳川家康は本拠を浜松城に移し、岡崎城は子の松平信康が入りました。しかしその後信康は謀反の疑いをかけられて自刃してしまいます。
以後、重臣の石川数正、本多重次らが城代を務めました。江戸時代には家康誕生の城として重要視され、譜代大名が歴代の城主を務めています。現在は岡崎公園として整備され、桜の名所となっています。

天守

岡崎城は東海地方の城では3番目に数えられる規模を誇っていましたが、1873年(明治6年)の廃城令によって廃城となり城内の建物及び土地は払い下げ、現在は一切の建物を失い、本丸と周辺の持仏堂曲輪、隠居曲輪、風呂谷等の曲輪と石垣、堀などの遺構を残すのみとなっています。敷地は龍城神社、岡崎公園として整備され、1959年には鉄筋コンクリートの天守が再建されました。現在公園は市民の憩いの場となっています。
 背負い来し 重荷下ろせし今日の旅
      ゆるり感謝の岡崎城址  一秀

家康遺訓

よく知られている  ”人の一生は重き荷を背負いて”  で始まる家康の遺訓は、幼少期を人質として過ごし、織田信長、豊臣秀吉の側で天下統一を支え、最後には自らがその天下を治める地位に昇りつめた家康だからこそ言える言葉なのだと思いますが、 実はこれ、偽物 なのだそうです。家康の遺訓を偽造したのは、幕臣だった池田松之介という人物。明治時代に松之介により偽造された遺訓は、高橋泥舟らによって日光東照宮など各地の東照宮に収められたという何ともお粗末なお話。

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