広瀬の神仏

神社

北野天満宮が現在の地に建立されるまでは広瀬の神様は広瀬の北、字中山に上権現、下権現の二社がありました。しかし、新しい神社が出来そこに権現社も移されると中山にあった上権現、下権現とも部落民の信仰とは無縁になり、荒れていきその地も他地区の農家に譲られました。現在、上権現はその地主さんが椿を植え、椿権現として祀っています。
下権現の方は埋もれてしまっていましたが、平成の初め頃、石で出来た祠の屋根の部分が見つかり、偶然にも同じ年豪雨で現れた川底から礎石と思われる真中に穴のあいた大きな平らな石が見つかりました。これも権現社の神意と思われて北野天満宮に保存されています。
拝殿の中には明治時代、井上馨によって書かれた「天満宮」の額も飾られています。

寺(妙唱庵)

広瀬のお寺はどのようなものだったのでしょう。こちらは明治21年以降は無住になっています。それ以前にも檀家があった訳でもありませんが、歴史は古く開創は江戸の四代将軍の頃と推測されます。
入り口にはTV番組「水戸黄門」のあの題字を書かれた朝比奈宋源、書による立派な額が掛かっています。庵内には骨董的価値のある仏像も多数あり、その保存が心配されます。また、境内にある大黒石像も歴史家の佐野明生氏によればかなりの価値のある石像であるようで、佐野氏も盗難を心配されていました。しかし、そうかと言って石像を庵内にしまっておくわけに もいきません。
境内裏手にある無縁仏は妙唱庵開創の頃からの代々住職の墓と思われています。住職が居たといっても、檀家があったわけではなく住職の隠居所、あるいは修行所といった性格のものであったようです。この無縁仏の上段には七面堂があり、現在の堂は昭和30年に建てられたものですが、その創立年代はよく解っていません。七面堂は日蓮宗身延山久遠寺の守護神である七面観世音菩薩を祀ってあります。

現在、自然への畏敬を感じることはあまり無くなって来ています。しかしその昔は、洪水、落雷、強風等々、全ての自然現象が神掛かって見えた事でしょう。それだけの大事をひき起こす神の力、自然の力に恐れおののきその怒りを鎮めるために祀り、また、天候に恵まれ豊作になればそれもまた神の力と自然に対する感謝の気持ちを祭りと言うかたちで表した事と思います。  
最近新興宗教がまた流行りだしてきていると言われますが、昔のような自然神崇拝が本来人間が持つ本能的な信仰なのでしょう。

妙唱庵

妙唱庵の開創年代は不祥ですが、言い伝えによれば興津の耀海寺より庵寺をつくり僧を入れたと言われています。境内裏にはここに住んだ住職のものと思われる墓石があります。これと耀海寺の墓石と照らし合わせて推測すると初代の日住大徳、その子供である日住法師連名の墓石が宝歴4年(1754)に作られたと考えられます。そう考えると妙唱庵の開創はその前、延宝年代(1750頃)、徳川の四代将軍の終わり頃と思われます。中央の写真の妙唱庵の額面は鎌倉円覚寺宋源書とあります。

無縁仏

妙唱庵境内にある多分昔の住職の墓と思われる墓石。10基ほどあり、一番古いものは宝歴4年(1754)となっています。一番新しい年代のもので明治21年(1888)でそれ以後無住の寺となったようです。

北野神社

創立年代ははっきりしませんが稲荷社が正式に京都伏見稲荷より許可され神社を祀ったのが天保15(1844)となっていますからそれ以前に天満宮は出来ていたものと思われます。広瀬天満宮(北野神社)の摂社は稲荷社、山ノ神社、金山社の三社あり、境内社は権現社と地の神の二社があります。拝殿正面には大正4年明治の元勲井上馨書の天満宮の額が奉納されています。石段は76段あり、途中には阿吽対の狛犬と石の鳥居があります。

大黒さん

権現さん

広瀬には江戸時代末期まで上権現と下権現の2社がありました。その後、現在の北野神社に神地を定め社殿が建立されるとそこに権現社は移され下権現はいつの間にか消失し、上権現の地は他部落の人が買い開墾してみかん園となりましたが、今ではみかんの代わりに椿を植えて椿権現として祀っています。平成のはじめの頃、下権現のあった所で石の大きな祠の屋根の部分が見つかり、同じ年今度は川の中から下権現社色の礎石と思われる真中に穴のあいた大きな平らな石が見つかり、現在これらは北野神社に保存されています。

   

菅原道真公

神殿中央に安置されている御本尊の菅原道真公です。この坐像は傷みもひどかった為に、平成10年に修復され現在では完全な姿になっています。道真公の像は恐い顔をしているそうですが当神社の像は優しい顔をしています。修復にあたった人形師の方が女性だったせいもあるのでしょうか。

馬頭観音

馬頭観音は正式には馬頭観世音菩薩と云い、そのむかし馬の霊を供養するために建てたものです。今でこそ車を使いますが、当時は馬力に頼るしかなく馬は貴重な財産でもありました。廣瀬の南のはずれに馬捨て場と呼ばれていた所があり、ここは馬の墓場でした。その入り口の所に右端の写真の馬頭観音があります。その左は廣瀬東側の山の頂上付近にある馬頭観音です。安政4年とありますから、江戸末期に祀られた馬頭観音のようです。昔は、そこを馬が通っていたと云う事なのでしょう。ここは急な崖の場所ですから、そこに落ちて死んだ馬の霊を供養しているのでしょうか。左端の写真は廣瀬に入ってくる旧道の途中にある馬頭観音で、ここは周りもきれいにされており、水、花の供物も上げてありました。

七面堂

妙唱庵の上の段にあり現在の堂は昭和30年に建てられています。本尊は七面観世音菩薩(七面大明神)で身延山久遠寺を護る守護神とされています。七面堂の創立年代は不明ですが、何度か場所を変えているようです。古くは字宇多理の高台に七面さんの段と言われた旧地があります。最初はその場所に建てられたのかもしれません。

殉国の碑

大東亜戦争により戦病死された個人的な墓碑はありますが、殉国の碑として神社わきに戦後建立されました。横の碑文には戦病死された6名のご芳名が刻まれています。