100寺巡礼の第1回目は飛騨の4寺だった。高山市の千光寺とその北にある古川の本光寺、真宗寺、円光寺の4カ所なのだが、お寺の説明をしたところで行って見てきた後の話ではつまらないので別の話題にしよう。
帰ってきてパンフレットを見ていて気が付いたのだが,千光寺の所在地は高山市丹生川町となっていた。
丹生川!!!
丹生や丹生川といった地名や河川はその昔、丹を産出していた所に多い。
ギョッ、ギョッ、ギョッ!!
実はこの2年ほど丹(に)について調べていた。それもかなり夢中になって。

まず丹とはなんぞや?
丹は古代の日本で呼ばれていた名で古代中国では辰砂(シンシャ)と言われた。これは硫化水銀を含んだ鉱石で、当時の中国(紀元前より)では辰砂を制する者は巨万の富を得る事が出来ると言われた。古代の日本(邪馬台国)の事が書かれている「魏志倭人伝」にも「倭国には丹有り」と記述されている。
この丹には不老長寿の効果がある仙薬と信じられていたのだ。
殺菌作用があるということで砕いて細かい粉にしたものは薬としても使われていたという。昔から丹のつく薬は多い。細かく粉にした丹を水に溶けば朱色の塗料にもなり、神社の朱はこの丹の色であったし、朱肉も元々はこれから作られたようだ。
代では魔除けの効果があると信じられ、古墳で見つかる石棺の中は真っ赤に塗られている事が多い。静岡市の埋蔵文化財センターには三池平古墳の石棺の中に入れられていた、まだ粉になる前の丹の実物が展示されているので興味があれば見てみるといいだろう。
丹は水銀朱とも呼ばれ、これを600度ほどに加熱すると化学反応を起こし水銀が気化する。この気体を冷やせば液化し水銀を分離できるわけだ。水銀は不思議な金属で他の金属を溶かし込む性質がある。金を溶かし込んでアマルガム状になった水銀を金属に塗り、これを600度ほどに熱すれば水銀は気化して金だけが残り、結果的に金メッキが出来たことになる。奈良の大仏はこうした方法で銅の本体に金メッキされていた。当然ながら気化した水銀による水銀中毒は酷いものだったろう。口から胃に入った水銀はすぐに体外に排出されてしまうのでさほど大きな害は無かったようだが、気体として肺に入った水銀は排出されようがなく、酷い中毒を引き起こしたはずだ。
本における丹の鉱床は九州中央部〜四国北部〜紀ノ川〜伊勢〜三河湾〜豊橋付近〜水窪〜青崩峠〜分杭峠〜高遠 と続く中央構造線上に数多く分布している。中央構造線は断層帯なのだから大昔に地下からマグマとなって地表近くまで吹き出してきた遺産なのだろう。丹を産出した所には丹を生むということで丹生といった地名が残り、その近くを流れる川には丹生川と名付けられた川が多い。
全国至る所に丹生や丹生川は存在し、そこには丹生神社や丹生都姫神社が祀られていることが多い。その中でも多いのは和歌山県の紀ノ川沿いだ。
ここでようやく最初の千光寺と丹生の繋がりの話になる。
ここまでの話しをふまえて考えれば丹生川町にあり、尚かつ真言宗のお寺であるのなら千光寺の近くには丹の鉱床が存在していた(いる)可能性は大きい。
千光寺は真言宗の寺で真言宗の開祖は言わずとも知れた空海だ。真言宗の本山である高野山の西方の山に天野という集落があり、ここには全国に散らばる丹生神社の総本社となる丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)がある。現在この丹生都比売神社は高野山に関わる世界遺産になっている。
空海が高野山を開くにあたり丹生都比売神社ではその神領であった高野山を与えている。
近代の研究によれば高野山や吉野の土壌水銀濃度は他の地域に比べてかなり高いという研究結果も出ている。
空海の話に戻ろう。
空海は四国八十八カ所霊場を開いた事でも知られる。この88カ所の霊場は中央構造線上に多く分布していて、その近くには数多くの丹の鉱床が見つかっている。
空海は丹と何らかの関係がある事には間違いなさそうだ。空海の像を見ると錫杖を持っているが、正確にはあれは錫杖ではなく山師が持つ杖なのだという。そう考えると全国にある、空海が見つけたという霊水や温泉の伝説はもしかしたら丹の鉱床を探していた時にたまたま掘り当ててしまったものなのかも知れない。
空海は超一級の宗教家だった事は間違いないだろう。と同時に丹を追い求めた山師だった可能性も大きいのだ。ただ、それはただ単に富を追い求めたものとは違っていたとは思う。
高野山の東には桜で知られる吉野山がある。吉野と言えば役行者(役小角)だがこの奇人もまた仙人のように全国を歩き(飛び?)回っている。修験道と丹もやはり何かで結びついていたと考えてもおかしくない。吉野の周辺には丹に関わる地名や川が多いのだ。

これからは話ついでの余談。
奈良の大仏を作った時に起きたであろう水銀中毒。そしてこの病気の平癒を願って作られた仏像へ施す金メッキによりますます広がる水銀汚染。そう考えると奈良二月堂のお水取りも汚染された水の清浄を願う儀式として行われたと考えることも出来る。
水取りは修二会の儀式の一つとして3月12日に二月堂の前の若狭井で行われるが、この10日前の3月2日には若狭の小浜を流れる遠敷川の鵜ノ瀬でお水送りの儀式が行われる。このとき遠敷川に流した水が地下水となり10日掛かって二月堂の若狭井に届くというのだ。
何とも不思議な話ではある。
若狭では昔から健康を願い赤い土を舐める風習があるという。また、大仏建立時の東大寺別当であった良弁(ろうべん)は鵜ノ瀬ちかくの生まれだったという。大仏の完成とほぼ同時行われるようになった二月堂のお水取りを始めた実忠もやはり若狭から良弁が呼び寄せたのだという。因みに実忠は色男のインド人だったと伝えられている。
遠敷川は「おにゅうがわ」と読む。これは「お丹生」が訛ったものと考えられない事もない。
小浜の鵜ノ瀬から真南に下るとそこに若狭井があるのは偶然だろうか?

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2014.4.19

100寺巡礼 第1回

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