100寺巡礼 第2回

100寺巡礼の第2回目は京都になった。前回と同じく出発は早く朝6時。何回かの休憩を取りながら京都東ICまで行き、西大津バイパスで再び琵琶湖に出て北に向かう。そこから鯖街道に出て今日最初の目的地である大原には北側から入る。大原は昨年も通ってはいるが三千院は十数年ぶり。
前回と同じように行ってきた後でパンフレットに書かれている事を転記してもつまらないと思に、ここに関わるべつの話題にした。しかし、資料がなかなか無ーーーい!

大原と言えば

最初に思い浮かぶのは永六輔作詞、いずみたく作曲でデュークエイセスが歌った「女ひとり」。音で聴く事はあっても歌詞を見た事は無かった。左はその歌詞である。
この歌の歌詞を改めてよく見てみると1番から3番まで京都の地名と和装名の組み合わせになっている。1番は大原の三千院。結城紬と塩瀬の素描の帯(糊を入れた染料を筆につけて日本画のように柄を描いた布地で作られた帯)。2番は栂尾の高山寺。衣装は大島紬につづれの帯(横糸に数色の色糸を使い、模様部分だけをつづら折りのように織った布地で作られた帯)。3番は嵐山の大覚寺。塩沢かすりに名古屋帯。1番2番はかなりの高級品だが、3番はややカジュアルさが出てくる。歌は昭和41年にリリースされたものだが、この歌がヒットした当時、京都を着物姿で訪れる若い女性が増えたという。


1 京都 大原 三千院
  恋に疲れた女がひとり
  結城(ゆうき)に塩瀬(しおぜ)の
  素描(すがき)の帯が
  池の水面(みなも)にゆれていた
  京都 大原 三千院
  恋に疲れた女がひとり

2 京都 栂尾(とがのお)高山寺
  恋に疲れた女がひとり
  大島つむぎにつづれの帯が
  影を落とした石だたみ
  京都 栂尾 高山寺
  恋に疲れた女がひとり

3 京都 嵐山(らんざん)大覚寺
  恋に疲れた女がひとり
  塩沢がすりに名古屋帯
  耳をすませば滝の音
  京都 嵐山 大覚寺
  恋に疲れた女がひとり

ろれつがまわらない

三千院への参道の脇を流れる小さな沢があった。呂(ろ)川と律(りつ)川であるがこの呂と律は声明の音調を表す言葉で、呂は西洋音楽で言う短音階、律は長音階になる。この違いがうまく表現できないでいるお坊さんの声明の事を本来「呂律が回っていない」といっていた。これが現在の「ろれつがまわらない」の語源となる。

女ひとり



2014年5月17日 

声明とは寺院で行われる法要儀式の中で、仏教の経典などに節をつけて唄う仏教音楽。
大原で伝承されている天台声明は、魚山(ぎょざん)声明とも呼ばれ、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)が中国からもたらした。魚山声明は、中国・声明の聖地「魚山」の名にちなんだものという。円仁が声明を学んだ中国(唐)の太原(タイユワン)と大原の地形が似ていたことから、大原が声明の根本道場となったという。近年、海外においても古典宗教音楽としてしばしば紹介され、公演も行われているようだ。
そういえば静岡新聞で連載されている「親鸞」にも声明という言葉は度々出ていた。

声明道場 来迎院

声明

お経とはまた少し感じが違うようです。


十数年前ここに来た時には不慮の火災により全焼してしまった直後で本堂は跡形もなかった。それでも紅葉だけは見事で境内全体が赤く燃えていた。燃えるのも紅葉ならいいが火ではかなわない。
現在の本堂は5年の歳月をかけ平成17年に落慶している。
寂光院は平清盛の息女、建礼門院の隠棲場所で、壇ノ浦で三種の神器と共に沈んだ我が子、安徳天皇の菩提を弔い終生ここで過ごしたという。隣には建礼門院徳子大原西陵があり、宮内庁により管理されている。
5月の新緑も綺麗だがやはり大原は紅葉の秋だろう。もっともその混雑は凄いものだろうとは思うが......


TV番組でやっていた「猫のしっぽカエルの手」のベニシアさんのお宅はこのあたりの筈。昨年の一人ノンビリ旅でこの近くの宿に泊まった時宿の女将さんに聞いてみたところ、自転車で回ってようやく探し当てたと言っていたが、教えては貰えなかった。個人の家なのだから無理もないか。


この寺は始めて来た。
青紅葉の庭園で名が知られているらしいのだが聞いた事も無かった。確かに新緑の今、緑の紅葉が綺麗だ。回遊式の庭園も大きくはなく、静かな中で拝観できた。こうした庭は慌ただしい中で鑑賞するようなものでは無いだろうが、やはり静岡から来て1日5寺をクリヤーするとなればどうしても慌ただしくなってしまう。
今回の来迎院といいこの蓮華寺といい、かなりマニアックな部類だろう。今度は紅葉のとき来てみたいと思うが秋の混雑は凄いだろう。混雑の紅葉の京都より,静かな青紅葉の今の方が贅沢な時間なのかも知れない。


銀閣寺はあまりにもメジャーで、かえって訪れる事も少なくなる。自分にとっては十数年ぶりの銀閣寺だ。
金閣に対しての銀閣なのだから創建当時は銀箔で覆われていたのかと思いたくなるが、そのような痕跡は全く無いそうだ。時代背景を考えてみても応仁の乱の直後で幕府の財政もかなり困窮していたと考えられる。とてもではないが銀箔で覆う財政的余裕は無かったのだろう。どうやらこの銀閣寺という名も江戸時代になってから金閣に対する名として付けられたようだ。
一般的に銀閣寺と呼ばれるが正式名称は慈照寺観音殿という。御朱印も真ん中に大きく「観音殿」だ。
修学旅行の学生さんでもの凄い人出だ。


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