100寺巡礼 第4回目  奈良2日目

7月20日 >> 天理 〜 金峯山寺 〜 壷坂寺 〜 天香具山 〜 橘寺 〜 岡寺 〜 飛鳥寺 〜天理 〜 名阪国道 〜 東名阪 〜 伊勢湾岸道 〜 豊田JCT 〜 東名高速 〜 清水 IC

100寺巡礼4回目の奈良、2日目。朝から雲一つ見えない。今日も昨日に負けず暑い一日になりそうだ。朝5時から天理教の神殿でのお勤めを済まし、7時には宿舎を出る。今日最初の目的地は吉野の金峯山寺。春なら桜で綺麗だろうが、この時期の吉野は暑いだけ。あの迫力ある、蔵王堂の蔵王権現立像もこの時期ではご開帳されていない。
でも、これは観光ではなく巡礼なのだ!

金峯山寺  蔵王堂

春なら桜で綺麗であろう吉野も7月では新緑も過ぎ、暑いだけ。6月の上旬までは蔵王堂のあの迫力ある蔵王権現立像も見ることが出来るが、この時期ではご開帳されていない。そこは自分自身に観光ではないのだ!と言い聞かせ暑い吉野を蔵王堂に向かって歩き出す。この時間はまだ早い時間なので気温が上がっているわけではないが、坂道を登ればやはり暑い!
仁王門まで行くと、何てこった!! あの大きな仁王門も工事中でシートで覆われていた。昨日の室生寺といい、この金峯山寺といい、運がない。というよりこういったお寺にとってはオフシーズンとも言えるこの時期を狙って、工事や仏像の出張も行われているのだろう。
20分ほど歩いて蔵王堂に到着。金峯山寺は役行者と呼ばれている役小角が開いた修験道の寺。何処の寺も明治時代の神仏分離令による廃仏毀釈の流れの中で寺の存続には大変な苦労をしてきているが、この金峯山寺も明治7年には一時期廃寺まで追い込まれた。しかしその後、余りに過激化した宗教政策の見直しにより明治19年に再興している。
なぜ吉野に桜なのか?
これは修行中蔵王権現を感得した役小角が桜の木にその姿を刻んだ事から、桜が保護、献木されて現在の桜の吉野山になったという。

壷坂寺 (南法華寺)

壺阪寺は正式寺名には南法華寺だ。沢一とお里の話で知られる壷坂霊験記の舞台となった寺である。もう少し年配の人には壷坂霊験記というより演歌の壷坂情話の方が話が通じるようだった。
ここは石の寺とも呼ばれるだけに、境内には沢山の石仏がある。仏像のテーマパークみたいという人も居る。壷坂霊験記でも沢一の為にお里が願掛けに通ったように、ここは昔から目に御利益のある寺として知られている。境内の売店でも目に効果のある目薬が売られているほどだ。やたらと派手な寺ではあるが、それなりに魅力ある寺ではある。20mにもなる観音さんや、釈迦の涅槃増も大きいだけに見応えがある。前回来たのは秋の紅葉シーズンで境内のモミジは綺麗に色づいて建物の朱色と相まってその派手な彩りは尚一層凄かった!

天香具山

持統天皇の「春過ぎて夏きにけらし白妙の衣干すてふ天香具山」の歌で知られる天香具山。この歌の意味は学生の頃教わったような「洗濯して干した白い着物が香具山にたなびいている」などという簡単なものではないようだ。だいたい、神聖な天香具山に洗濯物など干したらバチがあたる。
持統天皇は天武天皇の皇后になるが、天武天皇の死後、自分の子である草壁皇子を天皇にさせる為に邪魔者になると考えられた大津皇子に謀反の疑いを掛けて自害させ邪魔者を消した。しかし草壁皇子は即位する前に若死にしてしまう。そこで孫の軽皇子(後の文武天皇)を天皇にしようとするが、まだ軽皇子は7歳と若すぎる。そこで譲位出来るまでの間は自分が天皇になり、その後軽皇子が15歳になった時に譲位した。これにより、天智、天武、持統、文武と4代に行ってきた天皇をトップにした律令国家としての日本が完成。天智天皇(持統天皇の父親)の時代は朝鮮出兵などの戦後処理であまりいい時代では亡かった。これに変わった天武天皇(持統天皇の夫)の時代は律令国家としての日本の国造りで少し冬は抜け出し春になりかけた状態だった。そして持統天皇になり、自分の孫である軽皇子に譲位できた事で、直系が譲位していく天皇制が確立。全てが万々歳で明るい夏の時代が到来だ! と、まぁ、こんな意味のようだ。
高天原の天孫降臨でも、葦原中国(あしはらのなかつくに)と言われた日本の国に統治を任され降臨したのも天照大神の孫であるニニギノミコトだった。日本書紀の天孫降臨の部分はこの持統天皇の孫への譲位を表しているのではないか?との説もある。確かに天子ではなく天孫なのだ。なぜ孫なのか?

右最上段へ

橘寺

橘寺は聖徳太子生誕の寺と言われている。
この聖徳太子という人物も調査、研究が進み、最近では厩戸皇子という人物はいたが、聖徳太子は何かの理由で作られてしまった人物像というのが常識になってきているらしい。試験問題でも答えが「聖徳太子」となるような問題は今の状態では出題出来ないという。そもそもこの聖徳太子という名も生前時に呼ばれていた名ではなく諡号(「おくりな」ともいう)といって死後につけられる名前だ。天皇の名も同じで、天皇は生きている時は名前を呼ばれることはなく、「おおきみ」とか「おかみ」と呼ばれていたらしい。この聖徳という諡号は凄いものらしい。それこそ天皇や神でもつけないようなもの凄い2文字らしいのだ。それほどまでに偉人にしなければならなかった利用は何なのだろう。
聖徳太子はとかく謎だらけの人物のようで、札の肖像画などにも使われたあの姿にしても、あの衣装は大化改新以後の着物という。聖徳太子は622年に亡くなっているが、
大化改新は645年だ。髭にしても跡で書き加えられているという。太子信仰は日本の広い範囲に広がって伝えられているが、寺に安置されている太子像は子供の姿のものが多い。これもまた謎だ。とにかく、聖徳太子は謎だらけの人物でこれは調べてみるとかなり面白い。自分たちが歴史で学んだ聖徳太子は何者かによって作り上げられた厩戸皇子の虚構の姿のようだ。

岡寺 (龍蓋寺)

天武天皇の皇子で27歳で早世した草壁皇子の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされる日本で最初の厄除け霊場。
本尊は如意輪観音座像は塑像(土で造られた仏様)で、弘法大師の作と伝えられ、塑像としてはわが国最大の仏像となっている。
最初の予定では橘寺から岡寺までは歩いての移動予定だったがボランティアガイドの高野さんの「大変だからバスで移動した方がいい」との一声でバスでの移動になった。これは歩かなくて正解だったようだったが、この高野さんの説明を炎天で事細やかに聞かされるのには皆さんいささかバテ気味。それにしても高野さん、元気だ!!
境内の周りの斜面には沢山のモミジが植えられているのでこれから先、何年かして大きなモミジに育ったらさぞかし見事なモミジの紅葉が見れることだろう。
さて、ここからは最初の予定通り酒船石を経由して飛鳥寺まで歩きだ!!

暑いよーーー!!

飛鳥寺

さて、今回最後の巡礼地である飛鳥寺だ。
ここまで来る途中で「酒船石」を見てきた。あれは一体何なのだろうか?その下にある小判形石造物と亀形石造物との関連も取りざたされるがはっきりした事は分かっていない。ただ、この酒船石には楔で石を割った痕跡が有り、どうやらこれは高取城築城の際に石垣の石として使う為に割られたらしい
。かなりの汗を掻いて飛鳥寺に到着。
この寺は蘇我氏によって創られた日本で初めての本格仏教寺院。創建時はかなり大きな寺であったようだ。この頃の伽藍配置は真ん中に仏舎利を納めた五重塔があり、その周りを金堂や講堂が囲む様式。これが我が国における最も古い伽藍の配置となる。この次のタイプは法隆寺に見られるような、金堂と塔が横に並んでいる配置、その後は東大寺や薬師寺に見られる本堂の両脇に塔が立つ配置。これが何を意味しているのかと言えば、飛鳥寺の頃は仏舎利(釈迦の遺骨)を納めた塔が信仰の対象としては一番重要な物だったが時代が進むにつれ塔は飾り物になっていき、代わりに本堂内の仏像(偶像)が信仰の対象になっていったと言うことになる。
さて、この飛鳥寺は1196年の落雷による焼失以来江戸中期までは再建されずに本尊の飛鳥大仏は野ざらしになっていたという。この日本最古の仏像と言われる飛鳥大仏は雨や風に打たれ体中傷だらけになりながら、苦もあり楽もあった明日香の歴史を見つめ続けてきた訳だ。

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