100寺巡礼 第6回目  東京・神奈川

100寺巡礼第6回目は9月21日、初めての東方面、東京・神奈川の5寺巡りとなりました。 夏の暑さは遠のき過ごしやすい時期にもなり、それに加え昼は築地の寿司屋で食事となり、これまでとは違う豪華な古寺巡礼でした。

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4月から8月まで5回分のビデオを作ったけれど、そろそろ同じようなものではマンネリ化してきそうだ。
と言うことで、今回は少し遊び心も入れ雰囲気を変えてみた。
今までの方がいいという人もいるかと思うけど、まぁ、たまにはこんなのもいいでしょう。

総持寺

今回の最初のお寺は神奈川県、鶴見にある総持寺。少し早く着きすぎたようだった。
明治時代に焼失してしまったのを機に石川県からこちらに移ってきた曹洞宗の大本山となっているお寺。曹洞宗の本山といえばまず福井県の永平寺が思い浮かぶが、総持寺は永平寺と双璧を成す曹洞宗の本山となっている。寺域は15万坪という広大な境内を有する。
東海道ウォークで鶴見の駅前を通ったとき、駅の裏手に石原裕次郎の墓のある総持寺があるのは地図をみて知ったが、その時は街道ウォーク初日と言うこともあり、とてもこの寺に寄っていく余裕などなかった。
裕次郎の墓には未だに墓参りに訪れるファンが多いらしい。ここには専門の墓の管理人がついて維持管理されているようだった。

平間寺 川崎大師

本尊は厄除け弘法大師で川崎大師は平間寺という真言宗の寺だ。
毎年正月の三ケ日の人出は明治神宮、新勝寺に次いで3位の人出となっており、3日間で300万人程の人が訪れるというから、その混雑ぶりはもの凄い事になるのだろう。
参拝するまでには何時間もかかるというからそこまで待つ参拝者のその根性も凄い。
今回訪れる総持寺や池上の本門寺、そしてこの川崎大師は建物はさほど古いものではないのだが、何しろ大きい。これまで見てきた関西方面のお寺とはその趣はかなり違う。
これは個人的な思いだろうが、やはり寺は木造でその柱や壁、瓦に歴史を感じるものがいい。信者ならば自分の寺の本山へいくのもまた違う意味で良いものだろうが、信仰心とは離れた自分のような寺参りとなると大きいばかりではあまり興味も湧かない。
門前の仲見世通りの名物は葛餅、せき止め飴 。葛餅は分かるとしても咳止め飴とは? あの包丁でトントコと飴を切っている音からトントコ飴とも言われているようだ。
何故ここでこの飴が名物になったのかは調べてみても分からなかった。

高輪 泉岳寺

忠臣蔵で知られる浅野内匠頭と赤穂浪士が葬られている寺として知られている泉岳寺は総持寺と同じ曹洞宗の寺である。
境内に、赤穂浪士ゆかりの品を所蔵している「赤穂義士記念館」(泉岳寺では浪士ではなく義士と言う)がある。義士の討ち入り後、当時の住職が義士の所持品を売り払って収益を得たことに世間の批判が集まり、あわててこれらの品を買い戻しに走った逸話も残っているようだ。
赤穂浪士は一般に「四十七士」と呼ばれるが、泉岳寺の赤穂義士墓地には討入り以前に自害した萱野重実(三平)の供養墓を含め48基の墓塔がある。48基のうち、この萱野三平と、遺骸を遺族が引き取ったため泉岳寺には埋葬されていない間光風(新六)、そして討入りに参加した浪士の中で唯一人切腹をまぬがれた寺坂信行(吉右衛門)の墓塔は、遺骸の埋葬を伴わない供養塔である。なお寺坂以外の浪士の戒名はすべて最初の文字が「刃」となっている。
境内にある討ち取った吉良上野介の首を洗ったという「首洗井戸」を囲う柵に「川上音二郎 建立」と刻まれていた。はて、何処かで聞いた事のある名だと思い調べてみたら、この音二郎さんは明治時代あのオッペケペー節

右最上段へ 

で名を馳せた人物だった。
忠臣蔵の真実については諸説あるが、実際にはどのようなものだったのだろうか。どう贔屓目にみてもやはり浅野内匠頭ができの悪いお殿さんだったとしか思えない。
後の世で作られた部分がかなりあるとしても、自害した浪士達にしてみれば300年以上経った平成の世の中でも未だに赤穂浪士として語り継がれていると思えば自分たちの死が本望であったと思える事だろう。

池上 本門寺

本門寺は法華宗を興した 日蓮聖人の入滅の寺として知られる。日蓮は身延山に久遠寺を開山したが、こちらにいた期間は意外に短く8年ほどしか居なかった。この当時の身延はかなり寒かったようだ。体を壊した日蓮は身延山を降りてこちらの池上に来たが、この1ヶ月後には他界している。
日蓮上人の遺体が荼毘にふされた所には江戸時代になり多宝塔が建立されている。
本殿の左右に祀られている仁王像のモデルはアントニオ猪木(20歳頃)とのこと。以前は仁王門に祀られていたが、修理後本殿に移されたという。
墓地には力道山の墓などもある。

深大寺

今日最後の寺は調布市にある深大寺。
20歳になる前に一度来ているはずなのだが記憶にない。40年以上も過去の事だから無理もない。
開創は733年というから、関東では浅草の浅草寺に次ぐ古刹となっている。また古事により縁結びの御利益がある寺としても知られている。
参道を歩いていて驚くのが若い人たちがやたらと多い事。東京の若い連中はそんなに信仰心があるのか?
どうやらこれはパワースポットブームによる賑わいのようた。深大寺はパワースポットになっていて、このパワースポットにも時期があるらしい。ここ深大寺は5月から10月のパワースポットなのだという。縁結びとパワースポットが結びついてこの賑わいを生んでいるようだ。
深大寺(じんだいじ)の由来は、三蔵法師(西遊記)を助けたとされる水神・深沙(じんじゃ)大王からきている。この1文字目と3文字目をとって深大寺となったと伝えられている。
この地域は昔から土地が痩せていて米作りには適していなかったようだ。そこで痩せた土地でも出来る蕎麦が作られるようになり、それが現在の深大寺そばになったのだという。


何故こんな所に鬼太郎なのかと思ったら、水木しげる氏は40年ほど、この深大寺のある調布市に住んでいたのだそうだ。なかなか商魂逞しい。

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