100寺巡礼 第9回目 (県内西部) 2014.12.21

今年最後の100寺巡礼は愛知県東部と静岡県西部の5寺を廻ってきました。12月ともなると気温も低く、こんな時期に寺参りしているのは自分たちだけだったようです。ただ、油山寺だけは参拝者も多く、目で苦労している人は多いようです。

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今回の100寺巡礼は愛知県の東部から静岡県西部の寺を5寺廻って今年の最終となりました。これで52寺クリヤーです。残り48寺ですからかなりの余裕をもって満願となりそうです。来年暮れまでに100寺を廻る予定との事でしたから1回で4寺廻れば残り12ヶ月で100寺となります。
来年の夏は少し涼しいところでも廻りたいところですが、予定の中には涼しそうな所は無いですね。
健康には十分気をつけみんなで100寺満願を目指しましょう!

鳳来寺

以前は静岡から行くには鳳来寺はかなり遠い寺だった。しかし新東名高速が出来た今ではバスでさえ2時間もあれば鳳来寺駐車場に到着してしまう。便利になったものだ。
寺伝によれば702年に利修仙人が開山したと伝えられる。利修は霊木の杉から本尊の薬師如来、日光月光菩薩、十二神将、四天王を彫刻したと伝わる。江戸時代に入ると幕府の庇護を受け、850石に増領される。さらに家光の治世で大いに栄える。これは徳川家康の生母・於大の方が当山に参籠し、家康を授けられたという伝説を知った家光が大号令を発したためである。それにより僧坊の伽藍が改築されただけでなく、家康を祀る東照宮が新たに造営され、慶安4年(1651年)に完成している。しかし江戸から明治に移ると寺社分離令により東照宮と鳳来寺は切り離され、東照宮が命脈を保つ一方で鳳来寺は衰退していった。
困窮の窮みにあった鳳来寺であったが20世紀に入り高野山の所属となり、寺院規模の縮小で存続が図られた。他にも賢成住職の奔走による旧寺領の復権活動が実り、有償ながら国有林の譲渡が実現された。窮乏に喘いでいながらも譲渡資金は何とか捻出され、余剰金を残すことができた。この時、傷みの激しい堂宇の改築費用に充てることも考えられたが、賢成住職は地域住民に還元することを決断。鳳来寺鉄道、田口鉄道の敷設資金、鳳来寺女子学園の設立資金に使われた。
ブッポーソー(仏法僧)と啼く愛知県の県鳥となっているコノハズクの寺としても知られる。

方広寺

1371年、無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)は、この地を治めていた豪族奥山六郎次郎朝藤(おくやまろくろうじろうともふじ)の招きにより、奥山家の治めていた所領のうちから60町歩の土地と建物を寄進され、ここに方広寺を開いた。無文元選禅師を御開山とし、奥山六郎次郎朝藤が開基としている。元選禅師は、この地が、かつて訪れたことがある中国の天台山方広寺の風景に似ていることから、この寺を方広寺と名付た。幾度となく火災にあって伽藍は消失したが、明治14年(1881)の大火の後、復興を遂げ、現在、大本堂、半僧坊真殿、開山堂、三重の塔など多数の建物を擁している。
境内各所には五百羅漢の石像が安置されており、これは拙巌(せつがん)和尚が、大蔵経(だいぞうきょう)を読んでいるとき、五百人の羅漢さまが仏法を護り、伝えるという記述を読み、御開山無文元選禅師が、かつて中国の天台山方広寺を訪れたとき、石橋(しゃっきょう)にお茶を献じられたとき羅漢さまが姿を現されたという故事にちなみ、当山に五百羅漢の石像を安置することを発願し、多数の方に寄進を願い、明和(めいわ)7年(1770)500体の羅漢が安置された。(方広寺ホームページより)
本堂内には保存状態の良い木喰上人の微笑仏3体も安置されている

山梨県下部の「木喰の里 微笑館」で流されているビデオが作者自身によりYOUTUBEで公開されていたのでここにリンクさせておきます。


右最上段へ 

油山寺

油山寺の寺号は昔ここで油が湧出していたことに由来するという。さほど遠くも無い相良にも油田があったことを思えばあながちいい加減な話でも無さそうである。
油山寺は眼病の霊場として知られるが、これは749(天平勝宝元)年、眼病を患った孝謙天皇が眼病平癒を祈願して、この寺にある「るりの滝」で洗顔したところ全快し、勅願寺に指定されたことによる。
国の重要文化財、静岡県の有形文化財に指定された古建築が非常に多く、江戸時代にタイムスリップしたかのようだ。
ちなみに、油山寺は法多山尊永寺 (真言宗)、萬松山可睡斎 (曹洞宗)と共に遠州三山の1つになっている。


              るりの滝

応声教院

この寺は、855年(斉衡2年)勅願により円仁が創建したと伝えられ、元は天台宗の天岳院という寺だったという。1175年(承安5年)浄土宗の僧法然がこの寺に入り浄土宗に改められたが、法然は師である皇円の菩提をこの寺で弔ったと伝えられる。
山門は切妻造、本瓦葺き、正面3間、側面1間の門。この山門は江戸時代初期の建立で、寛永3年(1628)2代将軍・徳川秀忠が亡くなった母の供養にするため静岡市の名刹「宝台院」に築造された大門だった。大正4年(1915)に応声教院がゆずり受け、大正7年(1918)この応声教院に移築された。安土桃山時代の上品な味わいがあり、東海第一の山門と呼ばれている。1954年に国の重要文化財に指定されている。

智満寺

島田の奥にある智満寺までは狭く曲がりくねった道が続く。バスが入っていけるのかと心配だったが流石にプロのドライバー。途中何回か対向車に苦労しながらも智満寺駐車場に到着出来た。時間もあまりないので短時間での拝観となってしまった。と言うのも今日は清水に帰ってからこの会の忘年会が予定されているのだ。駐車場から本堂まではかなり急な石段を登らされる。国の重要文化財に指定されている本堂は平成23年に屋根の葺き替え工事を終えたばかりでまだ新しい。智満寺の本尊となっている千手観音菩薩は60年に一度ご開帳される秘仏で次のご開帳は2054年とのこと。30年先まで生き延びれば見ることが出来るかも?でも90過ぎてあの石段を登るのはチトきつそうだ。千葉山の山中には十本杉と呼ばれる杉の巨木があり、これは国の天然記念物に指定されていたが指定後に2本が枯死し現在は8本となっている。

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