100寺巡礼 第12回(鎌倉) 2015.3.15

100寺巡礼も12回目で1年を迎えました。今回は鎌倉五山巡りということで、円覚寺、浄智寺、建長寺、寿福寺、浄妙寺の臨済宗の寺5寺と鶴岡八幡宮、杉本寺を廻ってきました。

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昨年4月からの100寺巡礼も今回で12回目となり1年が経ちました。昨年から通算64寺を参拝した事になりますが、よくもまぁお寺ばかり出かけたものです。これだけ仏の前で手を合わせ、賽銭も一生懸命?入れてくれば自分は絶対に成仏出来るのだろうと思います。でも相も変わらずストレスは溜まる一方で気は短くなるし、物欲もまだまだ旺盛だし、どうやら人間の出來の方はあまり変わってもいないようです。ガックリ!
考えてみれば、釈迦でさえ6年もの時を費やし、苦行の末ようやく悟りの境地に達したというのですから、バスでのお気軽巡礼で、終わって帰りのバスでは酒飲んでいるようではそうそう簡単に悟りは拓けないようです。 しかし、生身の人間としたら煩悩だらけの人生で、そんな中で苦しみながらの余生の方が楽しそうにも思えてしまいます。

円覚寺

今回は鎌倉五山という事で全て臨済宗の寺で円覚寺は第二位の寺となってます。
自分の家の宗派が臨済宗だからと云うわけでもないのですが、禅宗の寺のあの凛とした雰囲気はいいもので、全てがピシッとしている境内に入ると身が引き締まる思いがします。こうした雰囲気は臨済宗の宗旨によるものなのでしょうが、それが鎌倉武士にも受けたのでしょう。
昭和の時代、円覚寺の管長をされた故朝比奈宗源翁は清水の出身。自分の住む広瀬にも深い縁があり、宗源翁の書はかなりの数が地区内に現存しています。宗源翁はTVドラマの水戸黄門のタイトルの題字を書いた事でも知られる名僧でもあります。と云うより、水戸黄門で有名になってしまったか?
弁天堂まで上がって西の山際に見えた東慶寺があの縁切寺だと帰ってきてから知りました。東慶寺の二十世住職となった天秀尼は豊臣秀頼と側室との間に出来た子(奈阿姫)で、大阪城落城後に徳川秀忠の娘で、秀頼の妻であった千姫の助命嘆願により命を救われ東慶寺に入ったといいます。

浄智寺

淨智寺は鎌倉五山の第四位となっている臨済宗円覚寺派の寺です。
鎌倉幕府五代執権・北条時頼の三男・宗政が29歳の若さで弘安四年(1281)に没し、八代執権・北条時宗が弟の菩提を弔う為に、その夫人と子・師時を開基として建てた寺です。最盛期には七堂伽藍を備え、塔頭も11寺院に達したほどの寺でした。
延文元年(1356)の火災で当初の伽藍は焼失しましたが、それでもまだかなり大きな寺でした。しかし1400年代半ばころから鎌倉という都市そのものの衰退と足並みを揃えて徐々に荒廃していきました。その後、関東大震災で殆ど倒壊し現在の伽藍は概ね昭和になってから復興されたものです。発掘調査では谷戸のずっと奧、天柱峠のすぐ下あたりまで人の手の加わった跡があり、おそらくは現在の円覚寺の規模に近いものがあったと思われます。
山門までの参道は鎌倉石を敷き詰めて舗装されており、その先にある山門は上層が鐘楼を兼ねている珍しい形式のもので、花頭窓をあしらった中国風の意匠が特徴。この門をくぐったところに、本尊の三世仏を安置する曇華殿(仏殿)があります。   

建長寺

建長寺は鎌倉五山の第一位の寺。
ここ建長寺は鎌倉幕府5代執権北条時頼によって創建された禅宗寺院で建長5年(1253年)に落慶供養が営まれています。
当時の日本は承久の乱(1221年)を経て北条氏の権力基盤が安定し、京都の中央政府の支配力は相対的に弱まり、鎌倉が事実上日本の首府となっていた時代でした。建長寺が建つ山ノ内は、幕府のある鎌倉の中心部からは山一つ隔てた所に位置し、鎌倉の北の出入口の護りに当たる要衝の地であり、北条氏の本拠地でもありました。
建長寺の境内が広がる谷(鎌倉では「やつ」と読む)は、元は「地獄ヶ谷」と呼ばれる処刑場で、地蔵菩薩を本尊とする伽羅陀山心平寺という寺が建っていたところです。建長寺の本尊が禅宗寺院の本尊として一般的な釈迦如来ではなく地蔵菩薩であるのはこうした因縁によるものです。
総門を抜けると目の前にそそり立つ三門(三解脱門の略)は見事な作りで、楼上には五百羅漢などを安置し、この下をくぐると身が清められるといいます。この三門建立には古狸が貢献したという面白い言い伝えもあり、別名「狸の三門」ともいわれています。
本尊を安置する仏殿や方丈入り口の唐門は東京芝の増上寺より二代将軍、秀忠の婦人、お江の方(崇源院)の霊屋を持ってきたものです。
奥にある半僧坊は明治になり静岡県の奥山方広寺より勧請したものといいます。昨年暮れに方広寺に参拝した際、住職から説明のあった、内田裕也もどきのあの半僧坊のようです。
半僧坊への登り道は鎌倉外周も廻る鎌倉アルプスとも言われる「天園ハイキングコース」の登り口にもなっているようで、こちらも一度歩いてみたいものです。

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壽福寺

寿福寺は源頼朝が没した翌年の1200年(正治2年)妻の北条政子が葉上房栄西(明庵栄西)を開山に招いて創建した鎌倉五山の第三位の寺です。
もともと現在の寿福寺のある付近は亀ヶ谷と呼ばれる源氏家父祖伝来の地であり、頼朝の父・源義朝の旧邸もこの地にありました。治承4年(1180年)初めて鎌倉入りした頼朝は、ここに館(幕府)を構えようとしましたが、すでに岡崎義実が堂宇を建て義朝の菩提を弔っていたことや、土地が狭かったため、当初の計画を変更したといういきさつがあります。創建当時は七堂伽藍を擁し、14の塔頭を有する大寺院で、禅刹として体裁を整えたのは1278年(弘安元年)頃と推定されています。1247年(宝治3年)に火災にあい、1258年(正嘉2年)の火災では一宇を残さぬまで焼失しています。これらの復興は、伝実朝墓五輪塔などの存在から、おそらく南北朝時代の頃と思われます。
寿福寺は一般に公開されてはいない為、上がって見る事は出来ませんが、境内裏手の墓地には、陸奥宗光、高浜虚子、大佛次郎などの墓があり、さらにその奥のやぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)には、北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔があります。

浄妙寺

鎌倉五山の第五位の寺院として、かつては広大な寺地を有し、23箇院の塔頭を有していました。現在でも付近一帯の地名を「浄明寺」といい(地名は「妙」の代わりに「明」字を用いる)、住宅団地名にも使用されるなど、その名残を残しています。
寺には婦人病に霊験のある神とされる淡島明神立像を安置することから、婦人病の祈願所とされています。また、境内墓地には足利尊氏の父親で浄妙寺の中興開基となっている足利貞氏の墓とされる宝篋印塔があります。

杉本寺

浄妙寺で時間が余ったので隣りにあるこの杉本寺に行ってみました。杉本寺は臨済宗ではなく天台宗の寺です。
この杉本寺は坂東33カ所観音霊場と鎌倉33カ所霊場の1番札所になっていて、鎌倉では最古といわれる寺です。
金沢街道から石段を上った先に山門(仁王門)が建ち、さらに上ったところに本堂(観音堂)が建っています。寺の公式サイトでの記述によればこの山門を守る仁王像や本堂内お前立ちの十一面観音、地蔵菩薩は運慶作となっていますがこれは違うようです。また本尊の秘仏三体もそれぞれ恵心、慈覚、行基とそうそうたる面々が出て来ますが、これもあまり当てになりそうもありません。
山門から本堂へ上る正面の鎌倉石の石段はすり減っていて通行禁止となっており、参拝者は左側の新しい階段を使用します。本堂の裏山は杉本城跡であり、本堂右手前には杉本城の戦いで戦死した斯波家長と一族の供養塔とされる石塔群がある。本堂や山門に貼られた千社札がもの凄い量だ。

鶴岡八幡宮

鎌倉を代表するところと言ったらやはりこの鶴岡八幡宮になるでしょう。
別称として鎌倉八幡宮とも呼ばれる武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉初代将軍、源頼朝ゆかりの神社として全国の八幡社の中では知名度が高く、近年では三大八幡宮の一社に入ることもあります。境内は国の史跡に指定されています。
鎌倉のメーンストリート・若宮大路の中で、車道より一段高い約500メートルの歩道を「段葛」と呼んでいる。 源頼朝が1182年に妻政子の安産を願い、自ら指揮して造ったと伝わります。1967年に国史跡に指定されましたが、歩道を支える石積みが緩んで石が落ちるおそれがあるため、現在改修工事を進めています。また、248本ある並木の桜も植え替えられるようです。

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