100寺巡礼 第14回(奈良・和歌山) 2015.5.16〜17

100寺巡礼、第14回は一泊で奈良と和歌山県に出かけました。この時期、高野山では開創1200年祭にあたり特別公開されている仏像もあり楽しみにして出かけました。

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昨年の秋以来の奈良です。今回は一泊で、1日目は法隆寺を始めとする斑鳩周辺の寺を周り、2日目は高野山と葛城の當麻寺を廻りました。
法隆寺では5月18日まで夢殿の救世観音像が御開帳されており、また高野山では開創1200年祭の真っ最中で普段は見る事の出来ない貴重な仏像も特別公開中で拝観出来ると喜んでいたものの、人の数が半端でない。あの順番待ちの行列の中に入っていたら時間がいくらあっても足りません。そんな訳で高野山の特別拝観は諦めました。今回で3回目となる高野山でしたが、こんなに人がいる高野山は初めてです。何もない時ならば何処へ行ってもガラーーンとした静かな高野山なのですが.......
それにしても今回は疲れました。信貴山への登山、法隆寺を歩き回り、高野山を歩き回り、はたまた夜はアルコールで疲れ......
仕事もシーズンに入り、ビデオの制作もなかなか捗らずにやる事ばかり増えてきました。それでも帰ってきてからこのホームページを作る為にいろいろ調べたり、写真の整理をしたりと、忙しいながらもそれはそれでけっこう楽しいものです。

法隆寺

法隆寺は調べてみると謎だらけの寺で、かなり興味をそそられる。法隆寺の七不思議はともかくとして、梅原猛が法隆寺について著した「隠された十字架」はかなり信憑性もあり興味をもって読める。法隆寺は聖徳太子が創建した寺とされているが、梅原猛によればこの法隆寺は仏教鎮護のためだけでなく、聖徳太子の怨霊を鎮魂する目的で建てられた寺なのだという。 何故聖徳太子が祟らなければならないのかは古代史の本を読んでみると面白い。
中門の真ん中で通せんぼをしている柱は怨霊を封じ込める為だといい、東院伽藍にある夢殿は聖徳太子を供養する為の殿堂であり、その中央の厨子には救世観音像が祀られているのだが、この聖徳太子等身と伝えられる救世観音の光背は頭に釘で留められている。これも太子の怨霊封じ込めの為なのだという。
明治時代、500mもの布に巻かれて埃の中に埋もれていた救世観音像を開帳したのはフェノロサと岡倉天心だったが、その布を外す時には法隆寺の僧侶は逃げ惑ったという。法隆寺にもそのような言い伝えが残っていたという証でもある。 これまでに見てきた仏像は縋る人を包み込むような包容感を感じさせるものだった。仏像はそうでなければならないないだろう。 しかし、この救世観音像は拝み、すがりたくなるような雰囲気は持っていない。それどころか怖く不気味でさえある。この観音像は常人ならば縋り、拝みたくなるような仏像では無いはずだ。確かにこれは聖徳太子そのものなのかもしれない。法隆寺の代表的な仏像にはもう一体百済観音像があるが、こちらもまた、異常なまでの細身で包容力は感じられない。 やはり細すぎで不気味なのだ。
そうした先入観で見るからなのか、法隆寺にはその境内に入ると明るさは感じられず、何か人を不安にさせるような独特の暗い雰囲気がある。
それがまた人々を引きつける魅力になっている事も確かにあるのだろう。
法隆寺は確かに不思議な寺だ。

中宮寺

中宮寺の現在の本堂は1968年に吉田五十八の設計により建てられたもの。この吉田五十八は太田胃散の創業者の子として生まれ、大阪万博の時の松下館の設計をしており、また身近なところでは清水区の向山町にある忠霊塔の設計などもしている。
設計者の経歴は面白いのだが、中宮寺の建物は鉄筋コンクリート作りで味も素っ気もない。隣は法隆寺の東院なのだからもう少し何とかならなかったものかと思う。
建物はそうであっても、中に安置されている木造菩薩半跏像は素晴らしい。長い間のローソクの煙りの油分などで黒光りして金属製に見えるが、これは楠で作られているそうだ。中宮寺では如意輪観音といっているが、製作当初は弥勒菩薩として作られてものだろう。この仏像は美人だ。仏は男も女もないというが、どう見てもこれは女性に見える。国内のみならず仏教世界では一番の癒やし系仏像なのだという。
確かに癒やされる。

吉田寺

「きちでんじ」と読む。
吉田寺の開創は天智天皇の勅願によるというからかなり古い歴史のある寺だ。「ぽっくり往生の寺」として知られている。
自分の中学の時(2年、3年)の恩師がここから歩いても4,5分で行ける所に住んでいるので、どうせ近くまで行くのだからと少し時季が遅くなってしまったが新茶の土産を持参した。数年前に斑鳩の地に越してきたが、それから奈良で先生に会うのはこれが3回目になる。前回は友人一同、酔っぱらっての訪問だった。この先生、こちらに越してから月1ペースで「いかるが便り」と名付けた便りを送ってくれていたのでこれを仲間にも見せたいと、思い、このホームページで見る事が出来るようにした。
先生の事はこれくらいにして吉田寺だが、何とも書く事がないのだ。強いて言えば昨年9月から、この境内を見るだけでも300円の拝観料が必要になっている事がチョット驚き。
そうかといって堂内に入ってもあまり興味を惹くものでもなかった。重文指定を受けている本尊の阿弥陀如来坐像は奈良県では一番の大きさを誇っている。             

達磨寺

この寺の創建は、推古天皇21年(613年)の冬、聖徳太子が片岡山で飢えていた異人に衣食を施したという片岡山飢人伝説による。そしてこの時に聖徳太子が自ら刻んだ達磨像を祀ったのが達磨寺の始まりと伝えられている。達磨寺の境内には3基の古墳が存在し、現在の本堂はその3号墳の上に建てられている。      
寺よりもここに墓のある松永弾正久秀の方が面白い。
松永弾正は裏切り、暗殺など悪逆の限りを尽くした事で名を知られているが、一方では連歌や茶道に長けた教養人であり、領国に善政を敷いた名君として現在でも知られているという、一言では語れない戦国武将だ。最後は茶釜に詰めた火薬で爆死したとされ、これは日本初の爆死となっている。その他にも話題には事欠かない。
日本で初めてクリスマスを理由に休戦を命じた。
自ら子作りハウツー本を書いた。
この他にも面白い話がいくつもある。極めつけは芸人の「爆笑問題」の太田光のカミさんの太田光代。この光代さんの本名は松永光代でなんと、松永弾正の子孫ということだ。
寺の説明を補足。
この達磨寺には檀家は無いとの事。どうして寺を維持管理しているのだろうか?
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朝護孫子寺

今から1400余年前、聖徳太子は、物部守屋を討つために河内へ向かう途中この地で戦勝の祈願をしたところ、毘沙門天が現れ必勝の秘法を授かった。その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻であった。太子はその御加護で勝利し、自ら毘沙門天を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けた。以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されている。
朝護孫子寺とは何とも変わった寺名だが、これは次のような所以による。
醍醐天皇の病気平癒のために祈祷したところ、天皇の病気はたちまち癒えた。これにより天皇、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜ることになった。
と、こんな事から朝護孫子寺の名が付いた。
本堂の舞台からは天気が良ければ大和平野を一望出来る筈だが、この日は薄曇りで視界は悪く、残念!
時間があるので信貴山の山頂まで登ってみた。山頂には空鉢護法堂や八体の星祭り本尊が祀られ、松永弾正が城主であった信貴山城の碑もある。

石上神宮

翌朝、早起きして石上神宮に行ってみた。ここは昨年、山辺の道ウォークで痛い足を引きずりながら寄っている。奈良まで続く山辺の道のスタート地点には大神神社があり、その中間地点にはこの石上神宮がある。どちらも日本では最古クラスの神社だ。大神神社の神の使いが蛇となっているのに対し、石上神宮の神の使いは鶏。そのために境内には沢山の鶏がいてコケコッコー、と朝から賑やかだ。近くに一般住宅が無いからいいが、そうでなかったらあの鳴き声は顰蹙ものだ。体力があるのか、木の上で啼いている鶏もいた。
ここの拝殿と摂社 出雲建雄神社拝殿は国宝指定されている。

高野山 金剛峯寺


           壇上伽藍の金堂と大塔

高野山は今年が開創1200年に当たり、5月21日まで特別開帳なども行われているために人の数が半端でない。おかげでせっかくの特別公開も行列待ちになり、とてもその中に入り待っている時間も無く、諦めるしかなかった。上の写真は数年前の春行った時の一枚だが、金剛峯寺の境内も何も無い時ならばこんなもの。
行事を終えた後で発表された50日間の期間中の参拝者数は30万人程とか。これは昭和40年の開創1150年の時の47万人、また昭和59年の弘法大師入定1150年忌のときの100万人と較べるとその数はかなり減ってきている。しかし1年を通しての参拝者数は年々増えてきており、中でも外国人の参拝者数はここ10年で5倍になっている。
海外で発行されている旅行誌の中に記載されている「2015年に行くべき所」ではベスト20に日本でただ一カ所高野山が入った。今や、京都の賑やかさは敬遠され、静かな日本を満喫出来る高野山が人気を呼んでいるらしい。高野山に上がるケーブルカーではフランス語と英語のアナウンスがされているとの事だった。
やはり高野山は日本でただ一つの宗教都市というだけに、他にはないまさに霊地という特別な雰囲気をもっている。

當麻寺

二上山の麓に建つ當麻寺は以前から興味を持っていた寺だったので、楽しみにしていた。
本尊は中将姫が織ったと伝えられる當麻曼荼羅。元々の根本曼荼羅は損傷が激しくこれからも公開される事は無いだろう。これは国宝に指定されている。中将姫伝説の中では蓮の茎の細い繊維で織られている事になっているが、実際には絹糸で織られている。
中将姫の本当の名は分かっていないようだが、父親は藤原不比等の孫に当たる藤原豊成。この時代は何処へ行っても出て来るのは藤原氏だ。
中将姫は不比等の曽孫になるわけだが、そうした歴史上の事実より、中将姫をモデルにした折口信夫(しのぶ)の「死者の書」絡みの話の方が興味がある。実は何年か前に人形師の「川本喜八郎」が企画し、監督も勤めて作った人形劇映画「死者の書」を知った。
Yahooの映画説明によれば
天武天皇の死後、24歳の若さで死刑に処せられた大津皇子の霊を、信心深い藤原南家の郎女が鎮めるという霊魂不滅の精神をうたう物語で、声の出演は、郎女役に宮沢りえほか、江守徹や黒柳徹子に岸田今日子といったベテラン勢が務める。人形が演じる人間の心理深さ、優雅な動きに魅了されるとともに、無念のうちにこの世を去った死者を弔う日本人の美徳がひしひしと伝わってくる静かな感動作。
と紹介されている。 
かなりマニアックな映画ではあるが、下の動画で全編を見る事が出来るので興味のある方はどうぞ。動画画面、右下の四角ををクリックすればフルスクリーンで見る事が出来ます。

              
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