昨年の秋以来の奈良です。今回は一泊で、1日目は法隆寺を始めとする斑鳩周辺の寺を周り、2日目は高野山と葛城の當麻寺を廻りました。
法隆寺では5月18日まで夢殿の救世観音像が御開帳されており、また高野山では開創1200年祭の真っ最中で普段は見る事の出来ない貴重な仏像も特別公開中で拝観出来ると喜んでいたものの、人の数が半端でない。あの順番待ちの行列の中に入っていたら時間がいくらあっても足りません。そんな訳で高野山の特別拝観は諦めました。今回で3回目となる高野山でしたが、こんなに人がいる高野山は初めてです。何もない時ならば何処へ行ってもガラーーンとした静かな高野山なのですが.......
それにしても今回は疲れました。信貴山への登山、法隆寺を歩き回り、高野山を歩き回り、はたまた夜はアルコールで疲れ......
仕事もシーズンに入り、ビデオの制作もなかなか捗らずにやる事ばかり増えてきました。それでも帰ってきてからこのホームページを作る為にいろいろ調べたり、写真の整理をしたりと、忙しいながらもそれはそれでけっこう楽しいものです。
法隆寺
法隆寺は調べてみると謎だらけの寺で、かなり興味をそそられる。法隆寺の七不思議はともかくとして、梅原猛が法隆寺について著した「隠された十字架」はかなり信憑性もあり興味をもって読める。法隆寺は聖徳太子が創建した寺とされているが、梅原猛によればこの法隆寺は仏教鎮護のためだけでなく、聖徳太子の怨霊を鎮魂する目的で建てられた寺なのだという。
何故聖徳太子が祟らなければならないのかは古代史の本を読んでみると面白い。
中門の真ん中で通せんぼをしている柱は怨霊を封じ込める為だといい、東院伽藍にある夢殿は聖徳太子を供養する為の殿堂であり、その中央の厨子には救世観音像が祀られているのだが、この聖徳太子等身と伝えられる救世観音の光背は頭に釘で留められている。これも太子の怨霊封じ込めの為なのだという。
明治時代、500mもの布に巻かれて埃の中に埋もれていた救世観音像を開帳したのはフェノロサと岡倉天心だったが、その布を外す時には法隆寺の僧侶は逃げ惑ったという。法隆寺にもそのような言い伝えが残っていたという証でもある。
これまでに見てきた仏像は縋る人を包み込むような包容感を感じさせるものだった。仏像はそうでなければならないないだろう。 しかし、この救世観音像は拝み、すがりたくなるような雰囲気は持っていない。それどころか怖く不気味でさえある。この観音像は常人ならば縋り、拝みたくなるような仏像では無いはずだ。確かにこれは聖徳太子そのものなのかもしれない。法隆寺の代表的な仏像にはもう一体百済観音像があるが、こちらもまた、異常なまでの細身で包容力は感じられない。
やはり細すぎで不気味なのだ。
そうした先入観で見るからなのか、法隆寺にはその境内に入ると明るさは感じられず、何か人を不安にさせるような独特の暗い雰囲気がある。
それがまた人々を引きつける魅力になっている事も確かにあるのだろう。
法隆寺は確かに不思議な寺だ。
中宮寺
中宮寺の現在の本堂は1968年に吉田五十八の設計により建てられたもの。この吉田五十八は太田胃散の創業者の子として生まれ、大阪万博の時の松下館の設計をしており、また身近なところでは清水区の向山町にある忠霊塔の設計などもしている。
設計者の経歴は面白いのだが、中宮寺の建物は鉄筋コンクリート作りで味も素っ気もない。隣は法隆寺の東院なのだからもう少し何とかならなかったものかと思う。
建物はそうであっても、中に安置されている木造菩薩半跏像は素晴らしい。長い間のローソクの煙りの油分などで黒光りして金属製に見えるが、これは楠で作られているそうだ。中宮寺では如意輪観音といっているが、製作当初は弥勒菩薩として作られてものだろう。この仏像は美人だ。仏は男も女もないというが、どう見てもこれは女性に見える。国内のみならず仏教世界では一番の癒やし系仏像なのだという。
確かに癒やされる。
吉田寺
「きちでんじ」と読む。
吉田寺の開創は天智天皇の勅願によるというからかなり古い歴史のある寺だ。「ぽっくり往生の寺」として知られている。
自分の中学の時(2年、3年)の恩師がここから歩いても4,5分で行ける所に住んでいるので、どうせ近くまで行くのだからと少し時季が遅くなってしまったが新茶の土産を持参した。数年前に斑鳩の地に越してきたが、それから奈良で先生に会うのはこれが3回目になる。前回は友人一同、酔っぱらっての訪問だった。この先生、こちらに越してから月1ペースで「いかるが便り」と名付けた便りを送ってくれていたのでこれを仲間にも見せたいと、思い、このホームページで見る事が出来るようにした。
先生の事はこれくらいにして吉田寺だが、何とも書く事がないのだ。強いて言えば昨年9月から、この境内を見るだけでも300円の拝観料が必要になっている事がチョット驚き。
そうかといって堂内に入ってもあまり興味を惹くものでもなかった。重文指定を受けている本尊の阿弥陀如来坐像は奈良県では一番の大きさを誇っている。
達磨寺
この寺の創建は、推古天皇21年(613年)の冬、聖徳太子が片岡山で飢えていた異人に衣食を施したという片岡山飢人伝説による。そしてこの時に聖徳太子が自ら刻んだ達磨像を祀ったのが達磨寺の始まりと伝えられている。達磨寺の境内には3基の古墳が存在し、現在の本堂はその3号墳の上に建てられている。
寺よりもここに墓のある松永弾正久秀の方が面白い。
松永弾正は裏切り、暗殺など悪逆の限りを尽くした事で名を知られているが、一方では連歌や茶道に長けた教養人であり、領国に善政を敷いた名君として現在でも知られているという、一言では語れない戦国武将だ。最後は茶釜に詰めた火薬で爆死したとされ、これは日本初の爆死となっている。その他にも話題には事欠かない。
日本で初めてクリスマスを理由に休戦を命じた。
自ら子作りハウツー本を書いた。
この他にも面白い話がいくつもある。極めつけは芸人の「爆笑問題」の太田光のカミさんの太田光代。この光代さんの本名は松永光代でなんと、松永弾正の子孫ということだ。
寺の説明を補足。
この達磨寺には檀家は無いとの事。どうして寺を維持管理しているのだろうか?
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