100寺巡礼 第15回(比叡山・大津) 2015.6.21 

天気予報では最悪の天気になりそうでしたが、現地に着いてみれば雨も上がっていました。自分にとっては半世紀ぶりの延暦寺で、記憶に残っているものは殆どありませんでした。一方、三井寺は数回目となり、昨年の秋も来たばかり。春のサクラ、秋の紅葉、いつ来ても見るものがある三井寺です。


横川

横川


横川


横川中堂


虛子の塔

横川中堂


横川中堂


四季講堂


西塔・常行堂


西塔・釈迦堂


東塔・大講堂

東塔・鐘楼


東塔・根本中堂


根本中堂


根本中堂


三井寺・金堂


一切経堂


べんべんくん


観音堂


観月舞台

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延暦寺は高校の時の修学旅行以来です。一昨年、車中泊で西国33カ所霊場を廻った時に、比叡山には登ってきたものの、東塔の駐車場手前でUターンし、比叡山山頂までのドライブに切り替え。結局延暦寺は見る事無しに山を下りてしまいました。
半世紀ぶりの延暦寺でしたが、堂宇は山全体に広がっているので、何とも全体像は掴みにくいところです。延暦寺で修行して新しい宗派の開祖となった僧は多く(と、いうより平安、鎌倉以降の新興宗派の殆ど)この点が高野山と違うところ。 東塔の大講堂には各宗派祖師の木像が奉安されていました。 見方によっては当時の延暦寺の教え(天台宗)では民衆は救えないと思った修行僧が多かったと言う事なのでしょう。 皆、比叡山で苦しい修行の末、結局山を下り、新しい宗派の開祖になっています。
一方、高野山で修行して新しい宗派の開祖になったという話は聞いた事がありません。空海のカリスマ性がそれを引き留めたのでしょうか。

延暦寺・横川


           横川中堂
横川は本堂にあたる横川中堂を中心とする区域で、西塔から北へ4キロメートルほどのところにあり、第3世天台座主慈覚大師円仁によって開かれました。本堂は、遣唐使船をモデルとした舞台造りの横川中堂です。
本尊の聖観音菩薩立像は度重なる火災にもかかわらず難を免れてきた平安藤原時代の木像仏です。現在の建物は昭和46年に再興されたもの。


        四季講堂(元三大師堂)
春夏秋冬と四季に経典の講義が行われていた事が名前の由来。ここを住房とした慈恵大師良源は比叡山にある堂塔伽藍の整備や学問の興隆をはかり、またおみくじの創始者として知られる。良源はいろいろな名で呼ばれ、慈恵、良源、角大師、また、正月の3日に亡くなった事から元三大師の名も持つ。名が多いと言う事はそれだけに、それに纏わる伝説も数多く残している。
角大師は2本の角を持ち、骨と皮とに痩せさらばえた鬼の像を表した絵であるが、これは伝説によると、良源が鬼の姿に化して疫病神を追い払った時の像であるという。
角大師の像は、魔除けの護符として、比叡山の麓の坂本や京都の民家に貼られた。

延暦寺・西塔


           にない堂
左に常行堂、右に法華堂。この同じ形をした二つの建物が渡り廊下で繋がっている。弁慶がここに肩を入れて持ち上げたという伝説を残している。


            釈迦堂

西塔の中心で、正式には転法輪堂という。現在の建物は信長の比叡山焼き討ち後、秀吉が園城寺(三井寺)の弥勒堂を移して手を加えたもので、山上では最も古い建物となっている。本尊は伝教大師自作の釈迦牟尼如来立像で、堂の名前もこれに由来する。
比叡山といえば信長の焼き討ちの話が必ずといっていいほど付きものの話題になっているが、近年の研究では今まで言われてきた事とはかなり違ってきているようだ。
信長は延暦寺の僧の堕落と、これに加えて延暦寺の僧兵が信長と敵対する浅井、朝倉に味方した事に激怒した事がこれまでの焼き討ちの理由とされてきた。しかし、堂宇を焼き尽くしたのならば地中からは焼けた木材も大量に見つかるはずなのに僅かしか発見されていない。また、数千人を殺したと言われてきたが、人骨も全く見つかっていない。そもそもこの信長の比叡山焼き討ちの悲惨さを書いたのはほぼ全員その場に居なかった人達だというのもますます怪しい。
信長の焼き討ちの時の延暦寺のトップは天皇の弟に当たる人物だ。ならば焼き討ちなどすれば下手をすると朝敵にもなってしまうのに、何の咎めも無かった。となると、この信長による比叡山の焼き討ちということ自体が本当にあった事なのかも疑わしくなってくる。いずれにしても、既に500年以上も昔の出来事で、真実は解るはずも無い。歴史は時の権力者によって作られていくものなのだ。

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延暦寺・東塔


            大講堂

東塔は延暦寺三塔の中心で延暦寺発祥の地でもある。
東塔の中にある大講堂は経典の講義などが行われる学問修行の道場。現在の建物は昭和31年の消失後に坂本にあった讃仏堂を移築したもの。堂内には比叡山で修行した各宗派祖師の木像が奉安されている。
これだけのそうそうたる名僧が生まれながら、ここに留まらずに新しい宗派を興したという事は、今の時代の国会議員にも似ている。自分の考えと違うと思うと、離党して新党結成。誰がどうしたところで、何も変わらないのも今も昔も同じ事だ。


           根本中堂

根本中堂は比叡山第一の仏堂で、宗祖伝教大師が建立したのが始まり。本尊は大師自らが刻んだといわれる秘仏薬師如来がまつられ、宝前には開創以来の“不滅の法灯”が1200年の時を越えて輝き続けている。
住職に聞いたところでは、この灯明の油(菜種油)は青森県の農家で作って貰っているそうで、一回給油すれば3,4日燃え続けるらしい。勿論、その間に何回も見回るとの但し書きがついていた。信長の焼き討ちの際にはどうなったのか疑問に思うが、これは山形県の山寺で知られる立石寺の方に分火(疎開)してあったので、これから再点火したのだという。しかし、前述の信長の焼き討ちの真相?を聞いてしまうと、信長の時代に延暦寺でこの法灯がそれほど大事にされたとも思えず、やはり何処かで消えているんだろうなぁ、と思わずにはいられない。それに、それほど大事な物ならば、燃料となる菜種くらいは寺で栽培して油を作ったらどうなのだろう。

三井寺


            仁王門

三井寺の開祖である智証大師円珍和尚は讃岐の生まれで母は弘法大師の姪にあたる。
三井寺の正式な寺名は園城寺であり、山号は長等山。
壬申の乱に敗れた大友皇子の皇子の大友与多王が父の霊を弔うために 「田園城邑(じょうゆう)」を寄進して寺を創建し、 天武天皇から「園城」という勅額を賜わったことが園城寺の始まりとされている。三井寺と呼ばれるようになったのは、天智・天武・持統天皇の誕生の際に 御産湯に用いられたという霊泉があり「御井の寺」と呼ばれていたものを後に 智証大師円珍が当時の厳義・三部潅頂の法儀に用いたことに由来ししている。この井戸は現在でも金堂の裏にある閼伽井屋のなかで水を湧きだしている。


           金堂(国宝)

金堂の前にある「堂前灯籠」の説明によれば、この灯籠の台座下には大化の改新で、蘇我一族を滅ぼした中大兄皇子(天智天皇)が、その罪障消滅のために切った左の薬指が埋められていると伝えられている。しかし、この寺は天智天皇の死後に建てられている事を考えると単なる伝説なのかもしれない。

    弁慶の引摺り鐘     霊水の湧く閼伽井屋

境内にある梵鐘は広重の描いた近江八景の一つである「三井の晩鐘」で知られる。八景の中でも景色ではなく、見る事の出来ない音を主題として描いた物はここだけだ。この鐘は今でも毎日夕刻に撞かれ、大津の町にその音を響かせている。
また広重の描いた近江八景の残りの七景は全て三井寺の観月舞台から見る事が出来るという。

      
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