100寺巡礼 第16回(京都) 2015.7.19 

またまた暑い中での京都です。昨年も7月は灼熱地獄の奈良でしたが、夏の京都や奈良は本当の苦行になります。


三十三間堂

京都国立博物館


智積院


智積院


智積院

智積院庭園


桔梗


泉涌寺 月輪稜


戒光寺


泉涌寺 総門


即成院 那須与一の墓

即成院


即成院 山門の鳳凰


泉涌寺 総門


東福寺 通天橋


東福寺


東福寺 本堂


東福寺 本堂


南庭


西庭


北庭


通天橋


開山堂


東福寺

三十三間堂


三十三間堂の正式な寺名は「蓮華王院」といい、その本堂が「三十三間堂」と呼ばれている。これは南北に長い内陣の柱間の数が33ある事によるもので建物の長さが33間と云うわけではない。実際には南北の長さは約120mもあり、これでは66間になってしまう。 三十三間堂は通し矢でも知られている。てっきり、昔は堂内で行われていたものだと思っていたのだが、どうやらこれは間違いのようで、外の軒の下で行っていたのだという。堂内のあの天井の高さではどんな強弓をもってしても、120mも矢を通せる訳が無いと、不思議に思っていたのだが、ようやくその疑問が解決した。記録に残る通し矢の最高記録は24時間で射数13,053本のうち通った矢は8,133本となっている。この記録を破る為には24時間ぶっ通しで6秒に1射ペースで矢を射続けなければならない事になる。通し矢の記録の前に、このペースを維持するだけでも現代人には出来そうもない数字だ。
当時の武者の体力、精神力共に、今の時代とは比べものにならない程のスーパーマンだった事の証でもある。
堂内には中尊の十一面千手観音を中心にして左右に500体づつの十一面千手観音が並び、これら1001体が本尊となっている。中央に安置される丈六の観音像は湛慶作であり、その前に並ぶ二十八部衆像、風神と雷神像は建物と共に国宝に指定されている。堂内に入ると1000体余りの仏像の並ぶ様はまさに圧巻。
三十三間堂は創建当初は外壁は朱塗りで内部は極彩色に彩られていたという。
正確には三十三間堂の観音像は千一体ではなく、千手観音坐像の裏側に、ひっそりと千二体目の観音様が安置されている。ほかの観音像と違い、この一体は室町時代に作られており、かつては各地に出張してご寄進を募るために用いられていた、言わば遊行仏ともいえる観音像だった。

智積院


智積院は真言宗智山派の総本山でその末寺は全国に三千余寺を擁している。
(以下Wikipediaより抜粋)
智積院の歴史は複雑で、紀州にあった大伝法院と、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松のために建てた祥雲寺という2つの寺が関係している。 智積院は、もともと紀州根来山(ねごろさん、現在の和歌山県岩出市)大伝法院(根来寺)の塔頭であった。大伝法院は僧覚鑁が高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として建立されたもので、根来山内の学問所であった。その後、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)の根来攻めで、全山炎上した。当時の根来山には2,000もの堂舎があったという。当時、智積院の住職であった玄宥は、根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれて寺を出、高野山に逃れた。
玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は東山の豊国神社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。さらに、三代目住職日誉の代、元和元年(1615年)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、山号を現在も根来に名を残す山「五百佛山」、復興後の智積院の寺号を「根来寺」とした。 祥雲寺は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、天正19年、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を飾っていたものであった。 この客殿は天和2年(1682年)の火災で全焼しているが、障壁画は大部分が助け出され、現存している。現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、火災から救出されて残った画面を継ぎ合わせたためと推定されている。 近代に入って1947年にも火災があり、当時国宝に指定されていた宸殿の障壁画のうち16面が焼失した。この時焼けた講堂は1995年に再建された。講堂再建に先だって、1992年に発掘調査が実施されたが、その結果、祥雲寺客殿の遺構が検出され、日本でも最大規模の壮大な客殿建築であったことがあらためて裏付けられた。

泉涌寺


泉涌寺は鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれている。
境内に霊泉が湧いた事が寺名の由来となっており、この泉は今でも湧き続けている。 境内の裏手には歴代天皇の陵「月輪稜」があり、中には入れないが門は見事。第121代、孝明天皇の陵墓「後月輪東山陵」と、皇后 英照皇太后の「後月輪東北陵」は少し離れた場所にある。その死については多くの謎に包まれている孝明天皇とその皇后の稜がその他の天皇陵とは少し離れて別に造られている事に何か理由があるのだろうか?
孝明天皇は毒を盛られて亡くなり、後の明治天皇となるべく子もやはり殺され、長州で匿っていた南朝末裔の大室寅之祐を天皇にすり替えてしまったといった説が昔からある。小さな頃の本物の明治天皇の写真が残っているのだが、この天皇と、自分たちが今までに見てきたあの恰幅のよい明治天皇はまるで別人に見えるし、一方、この大室寅之祐と自分たちの知る明治天皇はよく似ている。もしかしたら長州の狙いは倒幕と、この大室寅之祐を天皇に仕立て上げる事だったのかも?なんて考えてしまう。調べれば調べるほど興味の湧く孝明天皇の死と明治天皇すり替え説だ。

          仏殿と舎利殿

           月輪稜

戒光寺


戒光寺は泉涌寺の塔頭で、本尊となっている丈六釈迦如来像は鎌倉時代の仏師、運慶、湛慶親子の合作でこれは重文指定されている。
少し離れた所にある戒光寺墓地には御陵衛士伊東甲子太郎以下4名の墓がある。 御陵衛士は戒光寺湛然長老の肝煎りによって組織され、新撰組参謀伊東甲子太郎以下15名が脱退参加したが、同年11月新撰組の威信のために襲われ伊東以下4名が暗殺され、壬生寺に葬られたが、明治元年に戒光寺に改葬された。
<御陵衛士の墓>
新撰組の中にあって、近藤勇・土方歳三派と伊東甲子太郎・山南敬助派に別れ、のちに幕府が新撰組を幕臣に取り立てようとしたが、伊東甲子太郎達は勤皇派であった為、別の組織を作ろうとした。 慶応2年12月25日孝明天皇が崩御し、伊東は朝廷より尊皇大儀のために孝明天皇の御陵を警備するという名目で禁裏御陵衛士を拝命し、高台寺の塔頭月真院に最後の屯所を置いたため、後世、「高台寺党」とも呼ばれた。 しかし慶応3年11月18日伊東は酩酊して帰営中、待ち伏せの新撰組隊士数名に襲われ七条油小路にて横死しました。享年32歳でした。 その後、伊東の死を聞いた御陵衛士は騒然となり、七条小路に彼の遺体を引き取りに行くが、待ち伏せの新撰組数十名に包囲され、藤堂平助・服部三郎兵衛・毛内監物の3名が討死した。
伊東甲子太郎という人物は先日TVの歴史番組で知ったばかりだった。坂本龍馬が近江屋で殺される前日、龍馬に会い、新撰組が狙っている事を伝えた人物がこの伊東甲子太郎だった。墓参りもしてみたかったのだが、事前の申し込みが必要との事だった。

即成院


本堂内の木造阿弥陀如来及び二十五菩薩像は国の重文指定をうけており、26体の仏像が雛壇状に並んでいる。阿弥陀如来の左右には亡者を乗せるための蓮台を捧げ持つ観音菩薩像と合掌する勢至菩薩像が位置し、その他の23体の菩薩像の多くは楽器を演奏する姿で表される。
明治初年の廃仏毀釈の影響で即成院は明治5年にいったん廃寺となり、仏像は泉涌寺に引き取られたが、明治20年に泉涌寺大門付近に仮堂が建設されてようやく復興し、明治32年には泉涌寺塔頭の法安寺と合併、明治35年には、大門前から総門近くの現在地に移された。
また、即成院は那須与一ゆかりの寺とされており、『続群書類従』所収の「即成院縁起」では、与一が光明院(即成院の別名)に参詣し、武運を祈願したことになっている。また、即成院の本堂裏には与一の墓とされる石塔がある。那須与一は半ば伝説上の人物であるが、「即成院縁起」には、宣陽門院が所領の下野国那須庄を即成院に寄進したことが記され、ここから同院と与一の結びつきが生じたと推定される。少なくとも、鎌倉時代において那須庄が宣陽門院領であったことは史実であるが、那須与一が実在したかどうかは不明である。 山門の上にある鳳凰は宇治の平等院の鳳凰と向かい合っているという。

             本堂

           那須与一の墓

東福寺


摂政九条道家が,奈良における最大の寺院である東大寺に比べ,また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で,「東」と「福」の字を取り,京都最大の大伽藍を造営したのが東福寺である。 開山は円爾弁円(えんにべんえん)といい、一般的には聖一国師で呼ばれる事の方が多い。この聖一国師の生まれは静岡市の栃沢で、我が静岡にも深い縁をもっている。
彼は34歳の時に宋に留学し、帰朝にあたっては多くの文献を伝え,文教の興隆に多大の貢献をしました。また水力をもって製粉する器械の構造図を伝えて製麺を興し,今日,わが国最大のお茶の生産地となった静岡茶の原種を伝えたことも見逃せない功業である。

東福寺には、鎌倉・室町期の絵画、開山聖一国師が宋より持ち帰った貴重な書蹟類、鎌倉期以来の文書などが多数所蔵されています。また境内の建造物も室町期以来のものが多数現存するなど、文化財の宝庫となっていいる。
開山聖一国師は、宋からの帰朝の際に、一千点を超える典籍を持ち帰ったという。東福寺には今なお、宋代の書蹟をはじめとする貴重な書物が多数所蔵され、その多くは国宝・重要文化財に指定されている。


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