100寺巡礼 第18回(湖東) 2015.9.20

暑い夏も過ぎ、ようやく汗もかかずに済むと思ったら、今回廻った寺全てが石段を登って行かなければ辿り着けない寺でした。結局今回も暑い思いをしての100寺巡礼となりました。

紅葉時の写真



西明寺山門


西明寺参道


参道の紅葉


西明寺参道


西明寺境内


金剛輪寺 明寿院


明寿院 庭園


満天星の紅葉


金剛輪寺


百済寺


百済寺


永源寺


太鼓橋


永源寺山門


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西明寺


湖東の3つの寺を廻ったのは2002年の事だったからそれからは13年の時が流れている。13年と云えば一昔前の事になるのだが、他の景色は変わってもお寺の景色は変わらないのが良い。2002年は十数年に一度の最高の色付きと云われた紅葉の当たり年で何処に行っても見事な紅葉見物が出来た。
団体のバスが来る前にその先を回ろうと早めに行ったのが正解で、境内の混雑もまだ我慢出来る範囲。確かに見事な紅葉だった。
と、2回目となる今回の西明寺なのだが、流石にこの時期は空いている。紅葉の時の混雑が嘘のように静かで、やはりモミジが色付いていなくても静かに回れる方がいい。
湖東三山は天台宗という事もあり、信長の焼き討ちに遭っている。(ただ、この信長の焼き討ちは最近になって史実なのかどうか疑わしくなってきている。)
そのような戦乱の中でも本堂と三重塔、二天門は兵火を免れ、本堂と三重塔は現在では国宝となっている。

我が国の国宝第1号に指定された本堂は鎌倉時代の初期飛騨の匠が建立した純和様建築で釘を使用していない。また、屋根は桧皮葺きで、蟇股(かえるまた)、格子模様等鎌倉の様式が保存されている。
三重塔は鎌倉時代後期飛騨の匠が建立した純和様建築で本堂と同じく釘を使用していない。 屋根は桧皮葺きであり、総桧の建物である。 初層内部の壁画は巨勢派の画家が画いたもので堂内一面に、法華経の図解、大日如来の脇侍仏三十二菩薩、宝相華等が、純度の高い岩絵の具で極彩色に画かれていて鎌倉時代の壁画としては国内唯一のものであるといわれている。(塔の高さ23.7m)
             <西明寺HomePageより>  

金剛輪寺



            本堂(大悲閣)
湖東の3つの寺は距離的にも近くに纏まっているので、西明寺をバスで出ればじきに金剛輪寺の駐車場に到着した。下の駐車場からではかなり登り応えのある坂道なので、上の駐車場までバスで上がった。
元寇の役の戦勝記念として、時の近江守護職・佐々木頼綱によって建立された本堂は、鎌倉時代の代表的な和様建造物として国宝に指定されている。

     三重塔
また、三重塔(鎌倉時代)および二天門(室町時代)も国指定重要文化財にしていされている。
三重塔は本堂より古く、織田信長の焼き討ちはまぬがれたものの、近世以降は荒廃し、塔の初層と二重目の軸部(柱、梁などの根幹材)と組物がかろうじて残り、三重目はなくなっていた。現状の塔は1975年から1978年にかけて修理復元されたもので、欠失箇所は同じ滋賀県内の西明寺三重塔などを参考に復元したものという。
二天門も寺伝によれば、元来は楼門(2階建て門)だったが、2階部分が失われたものという。組物の形式などからみて、伝承どおり楼門の上層部分が失われたものか、または楼門として建立する予定だったものが未完成に終わったものとみられる。屋根は入母屋造、檜皮葺とするが、屋根材は江戸時代のもので、当初からこの形式であったかどうかは不明である。
桃山時代から江戸時代の中期にかけて造られた3つの庭からなる本坊明壽院の庭園は近江路随一ともいわれ、これも国の名勝に指定されている。
秋になると広い境内のどこもが真っ赤に染まるほどの見事な紅葉となる。

百済寺


湖東三山の一番南に位置するのが百済寺(ひゃくさいじ)。何故「百済」なのか気になるところだが、どうやらこれは寺の創建に百済人が大きく関わった事によるもののようだ。 百済寺は近江の最古級寺院で、今から1400年の昔、推古14年(606年)に、聖徳太子が百済人のために押立山(771.8m)の中腹に百済国の「龍雲寺」を模して創建された。 龍雲寺と百済寺のご本尊は、同一の巨木から彫られた「同木二体」の十一面観世音菩薩と伝わる。 開闢法要には、高句麗僧恵慈をはじめ百済僧道欽が仕え、暦を伝えた観勒も永く住したと言われている。 その後、鎌倉時代には、「天台別院」と称され中枢部の300坊に加えて総計1000坊、1300余人を擁する大寺院となったが、室町・戦国時代には度重なる兵火、とくに天正元年4月11日に信長の焼討を受け、消失した。
現在の堂宇は江戸初期になって、井伊家、春日局、甲良豊後守等の寄進を得て再建されたものであるが、往時の姿は、今も残る「石垣参道」、棚田のような「一千坊跡群」、「千年菩提樹」などから偲ぶことが出来る。
          百済寺 本堂
百済寺山門(赤門)から石垣参道に沿って400mほど登ったところに本坊喜見院(きけんいん)があり、その表門内側の書院に面して壮大な池泉回遊・鑑賞式庭園がある。 庭園頂部の遠望台前面には、比叡山や湖西の山々が、背面には鈴鹿山脈を借景に取り込み旧庭園の石と山内の谷川から運んだ巨石を組み合わせて築庭されています。 池畔の平らな石を「拝み石」、渓流の源に配された石を「不動石」と呼び、自然の谷川の水が石の間を渓流となって流れ、池に落ちるように造られている。 この百済寺は、北緯35度線上にあり西に向かって、880kmの彼方には「百済国」があった。 多くの渡来人は百済寺の地から「望郷・遠望の想い」で母国を偲んだと伝えられている。

永源寺



            永源寺 本堂
永源寺は愛知川の右岸に臨済宗永源寺派の大本山。南北朝時代、近江の領主であった佐々木氏頼が、寂室元光禅師(じゃくしつげんこうぜんじ)を開山に迎え、伽藍を建立したのが始まりと伝えられる。
石段の参道を登ると、右手に愛知川があり、左手の石崖には十六羅漢の石仏などが奉安されている。参道一帯にはモミジ・カエデが多く、秋の紅葉期にはさぞかし多くの観光客で賑わう事だろう
永源寺を愛知川にそってさらに遡ると君ヶ畑という集落に出る。ここは轆轤を使ってくり物細工をする木地師発祥の地として知られている。
今から1,100年以上の昔(9世紀後半)、惟喬親王がこの地に隠棲した折、轆轤で木地を加工する技術を編み出したのが始まりとされている。
惟喬親王は文徳天皇の第一皇子だったにもかかわらず、皇位を継ぐことができず、この山奥に隠れ住んだと伝えられる。
木地師は、使う木材がなくなると、良材のある土地へ移動していった。そして、全国に散らばった木地師の人別帳として氏子駈帳が作られた。この氏子駈帳は、単なる統計目的ではなく、お墨付きを与える見返りとして奉加金などを集金するために利用された。高松御所と筒井公文所は、全国の木地師を巡り歩く人を数年毎に派遣したという。氏子駈帳は、江戸時代初期(17世紀半ば)から明治時代初期(19世紀末)までの約200年間に亘って更新されたというから木地師同士の繋がりはかなり大きかったと想像出来る。今でも木地師に縁のある人の多くはこの地を本籍池としている者が多いという。             


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