朝倉氏遺跡 | 永平寺 | 那谷寺 | 吉崎御坊跡 | 東尋坊 |
途中の道の駅で昼を済ませ、11:30、最初の目的地「一乗谷 朝倉氏遺跡」に到着。ここは戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡で、一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる復元遺跡です。応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花しました。このため北ノ京とも呼ばれていました。戦国4代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超え、越前の中心地として栄えていました。 1573年8月16日、時の城主、朝倉義景は信長との戦いに敗れ、敗退。翌日信長の軍勢に火を放たれ、一乗谷は灰燼に帰してしまいました。この後、越前八郡を与えられた柴田勝家は本拠を水運・陸運に便利な北ノ庄に移したために、辺境となった一乗谷は田畑の下に埋もれていきました。全てが田の下に埋もれてしまった一乗谷でしたが、1967年(昭和42年)に発掘が開始され注目されるようになり、現在は国の特別名勝の指定を受けています。また近くにある一乗滝は佐々木小次郎が修行の末「燕返し」を編み出した滝と伝えられています。 それぞれに 栄枯盛衰 蝉しぐれ 一秀 |
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この庭園は江戸時代には「御泉水屋敷」と呼ばれ、福井藩主松平家の別邸でした。 昭和20年の福井空襲により惜しくも養浩館は焼失し、その後は長く本格的な修復は行われませんでしたが、昭和57年、国の名勝に指定されたのを機に、復原工事が進められ、平成5年に完成し、以後一般に公開されています。 今夜泊まる永平寺に入るには早すぎるので、福井市内にある養浩館庭園に行ってみました。本格的な数寄屋造りの御茶屋から見る林泉庭園は見ているだけで暑さを忘れさせてくれます。 今朝早く出かけて来て、一乗谷では暑い中を山まで登ってきた為に疲れてしまったのか、気持ちよくなり眠くなってしまう人も居たようです。 大の字に 至福の時や夏座敷 一秀 |
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永平寺は、今から約760年前の寛元2年(1244年)、道元禅師によって開創された出家参禅の道場で山内には七堂伽藍を中心とした大小70余棟の殿堂楼閣が建ち並んでいます。
今もつねに2百余名の修行僧が、日夜修行に励んでいます。境内は約10万坪の広さをもち、樹齢700年といわれる鬱蒼とした老杉に囲まれた静寂なたたずまいは、出家道場として誠にふさわしい霊域となっています。 <永平寺町観光ガイドより> 永平寺は過去、1度か2度来ているはずなのですが、殆ど記憶にありません。曹洞宗の総本山であり、1985年から1993年までの8年間、77世貫首に就かれていた「丹羽廉芳禅師」は一乗寺の住職でもあった事から永平寺は庵原には縁の深いお寺となっています。今夜はここの宿坊泊となるので、修行僧と同じようなお勤めもさせられるとの事。到着早々、そうした説明を受け、まずは風呂です。曹洞宗の戒律なのか、風呂でも食事でも私語は一切ダメ。話の出来ない食事というものは想像する以上につまらないもので、まさに修行そのものです。座禅の体験やその後は講話などを聞き、夜9時には消灯となりました。翌朝は3時半起きの予定でしたが、日曜のためなのか?(曜日の考え方は西洋なのだから仏教に関係あるのかどうか?)1時間遅れの4時半起床となり少し助かりました。 朝は修行僧の修行の見学と山内の見学でした。この説明をしてくれたガイド役の修行僧の説明ぶりには感心します。何しろ最初から最後まで一度も突っかかった所が無かったのですから、毎日相当の勉強をしているのでしょう。 ここでの修行はかなり厳しく、途中で逃げ出す修行僧もいるようで、これも無理も無いと思えるような修行ぶりでした。 宿坊に かなかなの声 朝まだき 一秀 |
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寺伝によれば、養老元年(717年)泰澄法師が、越前国江沼郡に千手観音を安置したのが始まりとされる。その後寛和2年(986年)花山法皇が行幸の折り岩窟で輝く観音三十三身の姿を感じ、求る観音霊場三十三カ所はすべてこの山に凝縮されるとし、西国三十三観音の一番「那智」と三十三番「谷汲」の山号から一字ずつを取り「自主山厳屋寺」から「那谷寺」へと改名。 <ウィキペディアより> 2年ほど前、毎日のウォーキングの距離を地図上で進めて「奥の細道」(総距離約1800キロ)を歩いた事があります。芭蕉が辿った細道を調べながら地図上で進むなか、芭蕉がこの那谷寺に立ち寄っていることを知りました。その後、五木寛之著「百寺巡礼」でも紹介されていて、一度訪れてみたいと思っていた寺でした。 石山の 石より白し 秋の風 芭蕉 友のあり 緑滴る 那谷寺に 一秀 境内にはモミジが多く紅葉は見事なものになるのでしょう。秋にもう一度訪れてみたいものです。 空から見る那谷寺のページがありました。なかなかいいです。 空から見る那谷寺 |
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文明3年(1471年)比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れた本願寺第8世法主蓮如が、本願寺系浄土真宗の北陸における布教拠点として越前吉崎にある北潟湖畔の吉崎山の頂に建立したのが吉崎御坊で、北陸はもとより奥羽からも多くの門徒が集まり、宗教都市として賑わいました。 しかし、一時期は繁栄を誇った吉崎でも再び迫害を受けるようになり、また戦乱による焼失などで蓮如は吉崎を退去します。 この間僅か4年。この短期間の間に農民から武士に至る大勢の民衆の支持を受け、一大宗教都市を築き上げた力は蓮如(または浄土真宗)の人を引きつける不思議な魅力だったのでしょう。 吉崎を去った蓮如が晩年自分の隠居所として大阪で築いたのが後の石山本願寺となり、信長との石山合戦の舞台となりました。 そんな蓮如の思いも今の吉崎には何も残ってはおらず、御坊があった吉崎山の頂に御坊跡の碑と高村光雲作の「蓮如上人銅像」が立っているだけでした。御坊跡への登り口の左右に東西本願寺の別院が江戸中期に建てられています。 講談師 如き住職願慶寺 蓮如の思い今何処へぞ 一秀 |
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東尋坊という名は如何にも僧侶のようです。何かそのようないわれがあるのかと思い調べてみたらどうやら「東尋坊殺人事件」が名の由来となっているようでした。この「東尋坊」という名前は、平泉寺にいたお坊さんの名前からとったと言われていて、東尋坊というお坊さんは、大変力持ちで乱暴者だったようです。寿永元年(1182)4月5日に、平泉寺のお坊さんたちが、海辺に遊びに来て酒盛りをしました。
そしてみんなから目くばせをうけた真柄覚念が、酒に酔った東尋坊を岸壁から突き落としました。すると、晴れ渡っていた空がにわかに曇りだし、稲妻が光り、たくさんの人が亡くなりました。これ以後、毎年4月5日の祭礼の時には、東尋坊の怨霊が現れ、海が荒れるようになりました。この突き落とされた岸壁をいつからか「東尋坊」と呼ぶようになったのだと伝えられているようです。。
自分にとっては何十年ぶりかの東尋坊です。海に出るまでの土産物屋は以前にもこんなに沢山並んでいたのでしょうか?僅かながらに記憶の奧に残っている東尋坊の景色はもっと凄みのあるものだったような気もしますが、景色がそんなに変わるはずもありません。 東尋坊は国の天然記念物及び名勝に指定されています。 断崖や 幾多の思い 夏の潮 一秀 |
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