10月はお休みという事になっていた「あんどん倶楽部」の行事でしたが、大津の石山寺で秘仏となっている本尊・如意輪観音菩薩像が33年に一度の御開帳中と言う事なので希望者だけで行ってみました。33年に一度という事になると次回まではとても自分の身も持ちそうもありません。
この御開帳は33年に一度と、もう一つ、天皇即位の翌年に行われていますが、今回は正規の33年周期のご開帳のようでした。この御開帳は11月4日までと聞いたので紅葉は諦めて出かけましたが、帰ってきてから12月4日まで公開されている事を知ってガッカリ。しかし、紅葉真っ只中の石山寺だったなら、今回のように静かに落ち着いてこの如意輪観音を拝む事は出来なかったのでしょう。そう思い、自分を慰めています。
近江八景「石山の秋月」で知られる石山寺で秘仏の如意輪観音菩薩像が3月18日から12月4日まで33年に一度の御開扉。

石山寺

朝6時に清水を出て10時前には石山寺に到着です。石山寺は西国三十三所観音霊場の第13番札所。奈良時代後期に、聖武天皇の発願により、初代東大寺別当でもあった良弁によって開かれました
運慶・湛慶による仁王像に睨まれながら山門から境内に入ると参道の左右には桜とモミジが植えられ、さぞ紅葉の時は綺麗なものだろうと思いますが、この時期では残念ながらまだ青モミジです。
個人的にはこの石山寺は3回目となり、前回は一昨年に同窓会で紅葉時に来ましたが紅葉と珪灰石のコントラストが強烈でした。
石山寺は紫式部が源氏物語の構想を練った寺としても知られ、紅葉も早すぎるこの時期でも、如意輪観音の御開帳目当ての参詣客なのでしょうか、結構の人出になっていました。
石段を登って広い境内に出ると、右にあるのが観音堂。この中には西国33ヶ所霊場の各寺の観音像が安置されており、あまり大きな像ではありませんが、3年ほど前で西国巡礼満願した自分には興味を持ってみる事が出来ました。本堂(国宝)は、正堂、合の間、礼堂からなる複合建築になっていて、構造的には正堂と、礼堂という2つの寄棟造建物の間を、「合の間」でつないだ形になり、平面は凸字形になっています。礼堂は傾斜地に長い柱を多数立てて床を支える懸造となっていますが、観音様をまつる寺にはこのように懸造で舞台を備えた寺が多いようです。
さて、堂内に入り初対面となる如意輪観音菩薩さんです。しかし、この観音さん、なんとも如意輪観音っぽくありません。一般的に知られる如意輪観音は三面六臂で頬杖をついた少し色気のある姿ですが、この観音さんは一面二臂の普通の姿で、おまけに立てば丈六という立派な体躯に圧倒されます。

紅葉の石山寺(2014年)
観音さんは岩の上に祀られるといい、結果的に建物自体は懸造の構造となり、舞台が出来るという事のようですが、この観音さんも直接岩の上に坐しているようでした。合の間の東端は「紫式部源氏の間」と呼ばれ執筆中の紫式部の像が安置されています。紫式部で知られる石山寺ですが、実際に紫式部がこの寺で源氏物語の構想を練ったのはほんの僅かな期間しか無かったようです。本堂を出て石段を登って行くと上の段には国宝に指定されている多宝塔があり、この内部には快慶作の大日如来像が安置されています。
この塔は建久5年(1194年)に源頼朝が寄進したと伝えられる日本最古の多宝塔となっています。 この時期に来ると宝物館である「豊浄殿」ではいつも紫式部展が開かれています。紅葉時期に合わせたものなのか、それとも紫式部の史料館なのか?

大日如来
豊浄殿を見て北?に進むとまだ新しい建物に辿り着きます。これは石山を発祥の地とする東レ株式会社によって寄進された堂宇で、鎌倉時代に存在したという「光堂」を復興した建物です。
ここからは入り口に向かい山道を降ります。途中に「紫式部」の石像がありますが、この顔が何とも不細工なのです。男じゃ無いのか?なんて話をしていたら隣にいた親父さんが「おかま」説もあるとか。それなら不細工な顔も納得出来るし、源氏物語の作者にしても男なら書けるかも?。あの内容の話をあの当時に書けるのは、もしかしたら男だったのかもしれません。
石山寺山門 運慶・湛慶による仁王像
観音堂内の三十三観音 毘沙門天
石山寺の特徴となっている珪灰石 本堂
紫式部 本堂
珪灰石の巨岩 多宝塔(国宝)
光堂 紫式部石像


東海道旧道の逢坂山関所跡に創業明治5年、八百坪の優雅な庭園。

逢坂山 かねよ

昼食は東海道を歩いたときに寄った大谷駅近くにある「逢坂山 かねよ」。この店は明治5年(1872)創業の老舗「かねよ」。店名にもある逢坂山はこの店の北側の山で、古代ここには都を固める関所の一つとして逢坂関が置かれていました。当時、三関と呼ばれた関は不破関(関ヶ原)と鈴鹿関、そして愛発関(越前)でしたが、その後、9世紀初頭に逢坂関が愛発関にとって代わり三関の一つとなってます
この店で評判なのは味では無く、ウナギとともに入っている錦糸たまごのボリュームでしょう。店の話では卵3個を使っていると事でした。あまり旨いと言うほどのものではありませんが、私、そう言いながら今回が3回目。でもやはりウナギは静岡ですよ。まぁ、この名前も「きんし丼」でウナギのうの字も入ってはいないのですが.....
このボリュームは話ネタにはなります。 
きんし丼 かねよ

木曾義仲と松尾芭蕉が並んで琵琶湖畔に眠る寺。俳人の聖地ともいえる静かな空間。

義仲寺

腹も膨れたところで、再度逢坂を下って大津市内へ戻り京阪膳所駅近くにある「義仲寺」へ向かいます。 ここは旧東海道にあるお寺なので、東海道ウォークの最終日には一度寄っていて、今回は2度目の参詣です。木曽義仲の胴塚(頭と胴が無いと胴塚とか首塚になり墓とは言わないのだそうです)がある事でも名を知られるお寺ですが、それに加えて松尾芭蕉の墓がある事の方が大勢の人が知る事のようです。芭蕉は義仲の生き方に憧れていたようで、生前より義仲の墓の横に葬ってほしいと弟子たちに伝えてあったといい、事実無くなった翌日にはこの地に埋葬されています。
   木曾殿と背中合わせの寒さかな   又玄
義仲寺は小さなお寺ですが、その狭い境内には、芭蕉の辞世の句である
    旅に病て夢は枯野をかけめぐる   芭蕉
など数多くの句碑が立ち、偉大な俳跡として多くの人が訪れます。このほか、本堂の朝日堂・翁堂(・無名庵・文庫などが立ち、境内全域が国の史跡に指定されています。
翁堂の格天井の15枚の絵は円山応挙によるもの。元々石峰寺観音堂の天井画であったものが、幕末に破却され、花卉図は寺外に流出しました。翁堂天井裏にある墨書によって、安政6年(1859年)6月、大津栄屋町の魚屋通六によって寄進されたことが分かっています。現在見る事の出来る天井絵はデジタル技術により忠実に再現されたものです。
ここでは参詣者は自分たちだけだったので住職?に展示物から庭の句碑等まで細かな説明をして頂き、皆さん、かなり義仲通、芭蕉通になったようです。もう少し経つとここも紅葉が色づき、色づきとともに観光客も増え、こんなにゆっくりと説明を聞く事も出来なかったのかもしれません。

芭蕉 辞世の句碑
芭蕉はこの大津の地がよほど気に入っていたのか、生涯に何回も訪れ、また滞在しています。住職の説明によればこの前にある旧東海道のむこう側は1960年代までは琵琶湖まで砂浜だったと言います。そんな光景を頭に思い描くと、芭蕉が最後はこの地で、と願った気持ちも何となく分かるような気もします。
そう言えば、明治の廃仏毀釈運動の中で日本の美術品の保護に大きな働きをしたフェノロサやビゲローも最後はこの地でと、今は静かに大津の地に眠っています。フェノロサなど、ロンドンで客死しても、大津に葬られたのですからよほど琵琶湖の見える大津が気にいっていたのでしょう。
義仲寺山門 巴塚
木曾義仲の墓 翁堂
芭蕉の墓 芭蕉の句碑
翁堂 翁堂天井絵(円山応挙)

西本宮と東本宮を中心とする400,000m²の境内は国の史跡に指定される

日吉大社

大津市街に戻り、土産の「力餅」を仕入れて坂本の日吉大社に向かいます。今日はあと日吉大社と明智光秀の墓のある西教寺に行く予定ですが、どうやらこのペースでは西教寺まで行きつけそうもありません。
日吉大社は全国3800余の日吉・日枝・山王神社の総本宮で、境内には40の社があり、これらを総称して日吉大社と読んでいます。
日吉大社のシンボルともいえる山王鳥居をくぐって境内に入ります。この鳥居は上に合掌を表す三角の部分があり、神仏習合の信仰を今に伝えるものです。西本宮の楼門の軒下4隅には屋根を必死に支えている猿がいます。日吉大社の神の使いは猿なのだそうで、猿年の今年の正月にはさぞかし大勢の人で賑わった事でしょう。西本宮本殿は1586年の造営で、日吉造(ひえづくり)と呼ばれる独特の形で造られていて、国宝となっています。 西本宮の隣には宇佐宮、その先に白山宮と立派な社が続きます。白山宮を過ぎると林の中に入り、少し離れている東本宮に向かいます。東本宮エリアには樹下宮、東本宮などそうそうたる建物が並び、東本宮は西本宮とともに国宝に指定されています。
今回は行けませんでしたが、30分ほど山を登っていく奥宮まで行くと琵琶湖も望める絶景が広がっているのだそうです。
平安京遷都の際には、この地が都の表鬼門にあたることから、都の魔除・災難除を祈る社として、また伝教大師が比叡山に延暦寺を開かれてよりは天台宗の護法神として多くの方から崇敬を受けて来ました。
山王鳥居 西本宮への参道
西本宮本殿 宇佐宮
樹下宮 拝殿 東本宮本殿

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