岩村では観光ガイドをお願いしてありましたが、早く着きすぎてしまったので、時間調整の為に、岩村の近くにある飯高観音に寄ってみました。この飯高観音、正式な寺名は飯高山萬勝寺といい、創建時期は不明ですが、平安時代から災難除け・厄除けの観音さまとして信仰を集めているようです。石造りの二体の不動明王に睨まれながら山門をくぐって、まず感じるのはその境内が広々としていること。境内全体が山を削って作られた平地にあり、観音堂は立派な石積みの上に建てられています。飯高観音の本尊は慈覚大師の作といわれる千手観音菩薩で、これは17年に一度御開帳ですが、前回は平成22年に済んだばかり。次の御開帳は平成39年と言うことになります。まだまだ先の事ですね。 この飯高観音は日本三大観音の一つと言われているようです。 でも、待てよ。三大観音って「浅草観音」「大須観音」「津観音」じゃなかったっけ?。まぁ、こうしたものはやはり地元贔屓が大きいようで、このあたりでは「飯高観音」「大須観音」「津観音」が三大観音となるようです。これって、皆東海地方のこの近辺で纏まってしまっているじゃないですか。日本三大という割りには何ともローカルなのですね。 |
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岩村城跡は今回行く事になって始めて知りました。何年か前、岩村町の近くにある大正村として知られる明智町には来ていましたが、その時は全く知らずに通り過ぎてしまいました。 来てみてビックリ! 流石に日本三大山城の一つと言うだけの事はあり本丸の標高は717mにもなり、その周りに築かれた石垣が見事です。 岩村城は江戸幕府諸藩の城の中でも最も高い所に築かれていた城でした。 芒野に 石垣のみの 城址かな 一秀 菱櫓とその先に六段壁 石垣に 往時追懐 秋の雲 一秀 城の周りに築かれている石垣も31ケ所あり、その総延長は1700mにもなるといいますからこの城を陥落させるのは簡単な事ではなかった事が想像できます。 岩村城の主は一時期信長の叔母である「おつやの方」が城主を務めた事から「女城主の城」としても広く知られ、武田と織田の攻防の歴史の中で人生を翻弄され続けた悲話が残されています。 石垣に 悲しき性や 秋の蝶 一秀 城跡や悲哀こもごも鱗雲 移築され現存する遺構 岩村町の八幡神社の本殿は、岩村城の八幡曲輪から移築された 土岐門が城下の徳祥寺の山門として移築され現存する。 不明門(伝)が城下の妙法寺の山門として移築され現存する。 岩村城の廊下の部材が、城下の地酒“女城主”蔵元の岩村醸造の廊下にも利用されて残っている 岩村城のどの場所の建造物かは不明であるが、勝川家の土蔵の一部も岩村城の遺構である。 藩校の知新館の正門と釈奠の間(岐阜県指定文化財)が現存し、城の麓の藩主邸跡に移築されている。 城下町 当時の城下町は現在の場所とは違う所でしたが、その後現在の場所に町が開けていったようです。 岩村町の岩村本通りは、平成10年4月に商家の町並みとして、岐阜県で3番目、全国では48番目に国(文化庁)の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。保存地区内には、木村邸・土佐屋・勝川家・柴田家・上町まちなか交流館といった旧家が一般公開されています。 岩村町のお土産にカステラがあります。岩村町内で作られているカステラは、寛政年間に岩村藩の御殿医が藩命により医学を学ぶため長崎滞在中にオランダ人からその製法を教わり、岩村に帰国後その技術を町民に伝授したものと伝えられ、これは200年経ったいまでもその作り方は変わらず、一つ一つ手焼きで焼き上げられています。これはお勧めの一品でした。 もう一つの土産は日本酒「女城主」。ガイドの伊藤さんが言うには、やはり現在でも岩村では女が実権を握っているらしく、各種の集会に出かけていくのは女とか?男は静かに留守番なのだとか? 城址経路ビデオ ← クリック |
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観光ガイドの伊藤さん | 赤松林のあたりは茶室のあった所 | |
藩校「知新館」 | 登城路口 | |
下田歌子 勉学所 | 初門のあたり | |
土岐門 | 霧ヶ井 | |
六段壁 | 二の丸に続く石段 | |
六段壁 | 岩村の城下町 | |
復元された「氷餅蔵」 | 本丸西面の石垣 | |
埋門 | 本丸跡 |