東寺 観智院 錦市場 六角堂 広隆寺

東寺

今年初めての「あんどん倶楽部」の活動は京都になりました。と言うのもこの時期東寺では修復されて間もない「観智院」の特別公開をおこなっており、東寺の五重塔も第一層が公開され、心柱を大日如来と見立てた立体曼荼羅が拝めるのです。
先月の中山道ゴールで散々歩いたばかりの京都でしたが「いま再びの京都」です。真言宗の総本山は高野山の金剛峯寺と思われがちですが金剛峯寺は高野山真言宗の総本山であって、真言宗全体の総本山はこの東寺です。この寺は平安京の鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えてきました。東寺で一番名を知られているのは五重塔と講堂内に安置された立体曼荼羅。五重塔は高さ54.8mで、これは木造建築としては我が国一番の高さを誇り、東寺自体が京都駅に近い事もあり、この五重塔は京都のシンボルともなってます。
 仰ぎ見し 国宝の塔 薄暑かな  一秀
この五重塔と同じくらい有名なのが、講堂内に安置された仏像群で、須弥壇中央には大日如来を中心とする五体の如来像、向かって右には金剛波羅密多菩薩を中心とする五体の菩薩像、向かって左には不動明王を中心とした五体の明王像が安置されています。また、須弥壇の東西端にはそれぞれ梵天・帝釈天像、須弥壇の四隅には四天王像が安置され、以上全部で21体の彫像が、羯磨曼荼羅(立体曼荼羅)を構成しています。
堂内に入ると想像していた以上に大きな仏像が所狭しと並んでおり、特別な雰囲気を持つ空間になっています。
東寺には価値のある文化財が多く、建物では金堂、五重塔、蓮花門、観智院客殿が国宝となっており、また絵画、仏像、書物、工芸品など数多くの国宝を所蔵しています。
高校の旅行で来て以来、もう一度見てみたいと思っていた東寺拝観がようやく叶いました。
五重塔と不二桜 五重塔
五重塔 金堂
講堂 立体曼荼羅

観智院

北大門を出て櫛笥小路を進んだ右側にあるのが東寺塔頭の「観智院」。 観智院は東寺のみならず真言宗全体の勧学院と位置づけられており、これまでにも多くの学僧を輩出しています。
経蔵である金剛蔵には膨大な文書・典籍・聖教類が所蔵されていましたが、現在は東寺宝物館に移されています。
普段は非公開ですが、この時期は特別公開されており、本尊の「五大虚空蔵菩薩坐像」も公開されていました。客殿は 慶長10年(1605年)の築で桃山時代の典型的な書院造りの建造物として国宝に指定されています。
床の間の「鷲の図」と襖絵の「竹林の図」は宮本武蔵によるものですが、この襖絵はかなり消えかかってきていて全体にどのような絵だったのか良く分かりませんでした。
客殿南の庭園は「五大の庭」と呼ばれています。
国宝指定を受けている観智院ですが、修復工事を完了してからまだ間もないために、綺麗で、その為に古さ(歴史)を感じられないのが残念なところ。しかし、国宝になっていると言う事はそれなりに価値のあるものなのでしょう。
 悔ゆことの なき今日ひと日 沙羅の花   一秀
観智院 中庭
極楽橋 山門

<

四条から錦市場

車で高台寺駐車場まで移動し、そこから六角堂まで歩く事になりました。距離はたいしたことありませんが、この日の京都の気温は31℃を超える暑い日で暑さでめげそう。
まずは八坂神社に続く下川原通りを進み、途中で東大路通りを横断しT字路にぶつかったら、そこに「崇徳天皇廟」がありました。崇徳天皇は父である鳥羽法皇との確執から、最後には保元の乱まで進み、結局これに破れ讃岐の国に流刑となりましたが、流刑地で舌先をかみちぎり、その血で「天下滅亡」という呪いの言葉を書き残しています。この言葉が凄いです。「われは日本の大魔王となりて天皇を呪い続ける」と呪詛をかけ、数日の後、憤死してしまいます。この為に日本最大の怨霊とされています。そのような歴史を持った廟ですが、その前で一生懸命英語で外人さんに何か説明しているおまわりさん?がいました。京都のおまわりさんって英語が出来ないとダメ? そこから花見通を抜けて四条通りに出ました。そろそろ昼飯時。四条大橋に近い「お好み焼き」の店でビール付きの食事をとり、一路六角堂を目指します。鴨川に出る手前に歌舞伎の「京都四条南座」がありましたが、現在は耐震工事の準備中で閉館しているようです。
  四条にて 京の山並み 夏霞    一秀
そして四条大橋の袂には歌舞伎の祖と伝えられる「出雲阿国」像が立っていました。出雲阿国はそれまでの「ややこ踊り」を基にして「かぶき踊り」を創始したことで知られており、このかぶき踊りが様々な変遷を得て、現在の歌舞伎が出来上がったとされています。
鴨川沿いには川床を広げた料理屋さんが並び、そこで食事している人たちは涼しそうです。でもそれを見て歩いている自分たちは暑い暑い!
錦市場の通りに入るともの凄い人の数です。道も狭く、交差する通りも無く、おまけに天井はアーケードで塞がれているので、店の出す熱も逃げるところが無いためにアーケード街全体がやたらと暑いのです。
2016年が生誕300年と言う事で昨年からブームになっている「伊藤若冲」はこの錦市場の青物問屋で生まれたといいます。生家の説明くらいあるだろうと探して行ったら通りの出口の角に案内がありました。またアーケード街の中にも所々ニワトリの絵があり、市場通りでも若冲を盛り上げているようでした。それにしてもいろいろな食材があるものです。しかし、理屈から言っても京都に旨い物があるわけ無いです。魚類はせいぜい若狭からの塩鯖だろうし、野菜にしてもいくら京野菜といっても所詮野菜です。個人的には京都で旨いと思って買ってくる物は「ちりめん山椒」と「しば漬け」だけ。京料理は目で楽しむものなのでしょう。でもやはり食べ物は口で、舌で楽しむものです。まぁ、静岡県人ほど日常的に旨い物を食べている所は無いのでは? 贅沢な県民です。
錦市場を抜けたところで再度ビールを飲みながらの休憩となりました。
崇徳天皇廟 花見通り
南座 出雲阿国
鴨川の川床 錦市場
伊藤若冲の生家 錦市場の西口

六角堂

錦市場と六角堂は差ほど離れているわけでも無く、少し歩けば西国巡礼第18番札所の六角堂に到着します。正確には頂法寺といい、聖徳太子が開いた寺として知られています。
淡路島に漂着した如意輪観音像を念持仏としていた聖徳太子は、用明天皇2年(587)、四天王寺建立の材木を探し、京都を訪れました。太子が池で身を清めようと念持仏を木に掛けたところ動かなくなり、この地で人々を救いたいと太子に告げたため、六角形の御堂を建てて安置したと伝わります。六角堂の北側には聖徳太子が身を清めたと伝えられる池の跡があります。池のほとりには小野妹子を始祖とする僧侶の住坊があり、これが「池坊」と呼ばれるようになりました。代々六角堂の住職を務める池坊は、仏前に花を供える中でさまざまな工夫を加え、室町時代の「いけばな」成立に至ります。
平安時代末期、比叡山で修行していた親鸞(当時は範宴)は当時の堕落しきった比叡山に失望し、六角堂で説法をしている法然の元に毎晩通ったと言います。比叡山の横川から六角堂まではかなりの距離があり、これを毎晩100日間続けたというのですかその覚悟も大したものです。
結局、その後親鸞は比叡山を下り、法然の弟子になり、後の浄土真宗の祖となっています。
丁度この時、池坊専好を扱った映画「花戦さ」が封切られた事もあり、境内にはこの宣伝用の看板が置かれていました。
池坊が秀吉と生け花の勝負をするというこの映画、面白そうです。
本堂前にある六角柳と呼ばれる柳の木の下には「へそ石」です。境内にある直径50センチほどの平らな六角形の石で、この石は昔から京の都のど真ん中、へそにあたると言い伝えられてきました。
言い忘れましたが、この六角堂は建物が六角形をしている事から名付けられたお寺で、地元での庶民の寺としても信仰を集めているようです。西国33霊場の中でもこれほど庶民的な雰囲気を持ったお寺はこの六角堂だけだったような気がします。
六角堂山門 六角柳
本堂 太子堂
池坊ビル 花戦さ 看板

広隆寺

錦市場を出たところで、運転手+1人がバスをとりに戻ってくれて、六角堂の近くまで来てくれました。感謝!感謝!です。
ここから今日最後の寺、太秦の広隆寺に向かいます。ところが行ってみてビックリ。何とも参詣する人がいないのです。以前なら国宝第1号の弥勒菩薩像がある寺と言う事で、修学旅行では必ずと言って良いほどコースには入っていたはずなのですが、学生さんなんて誰もいません。宝物館の中で数人の参詣客にあったきりでした。京都の観光ルートも変わってきているようです。
しかし、宝物館に入ってみると、そこに安置されている仏像は見応えがあるものばかりで、こんなにあったか? と思うほどいい仏像に巡り会えました。
さて、清水へ帰らねば!
清水は遠い......
広隆寺本堂 本堂
睡蓮 霊宝殿

戻る