あんどん倶楽部
西国巡礼第1回

あんどん俱楽部で西国33カ所観音霊場を廻る「西国巡礼」がスタートしました。初回は4寺を回って残り29寺。

青岸渡寺 西国巡礼のスタートとなる那智の青岸渡寺。熊野那智大社と隣り合っていて、神仏習合の名残を残しています。

果無集落 翌朝、早起きして熊野古道、小辺路が通過している果無集落まで上がってみました。熊野古道から仰ぐ御来光です。

1番  青岸渡寺

西国巡礼のスタートはまずは青岸渡寺から始まります。静岡からは400Kmを越える距離で、行き着くだけでも結構大変な事。境内の中には熊野那智大社もあり、かつての神仏習合の名残があります。

6番  壺阪寺

100寺を歩こう会でも初年度に訪れた壺阪寺です。於里・定一の話で知られる壺坂霊験記の舞台となった寺で霊験記にあやかり、目の薬やお札も売られていました。

7番  岡寺

ここも4年前に100寺を歩こう会で訪れています。あの時は7月の超暑い時期でしたが、今回は適温とも言える5月ということで、快適な巡礼旅となりました。

8番  長谷寺

予定には入っていなかった長谷寺でしたが、帰り道の途中でもあり、また時間的にも余裕があったので寄ってきました。しかし、二日間登ったり下ったりの連続だったので登廊の階段が堪えました。

1日目

獅子岩

清水を5:30am に出発し5時間掛け、ようやく熊野灘に出ました。ここにあったのが熊野灘に向かって咆吼する「獅子岩」と名付けられた奇岩でした。こちらから見れば壮観な獅子に見えますが、反対から見るとサルそっくりでした。

花の窟神社

花の窟は、神々の母である伊弉冊尊(イザナミノミコト)が火神・軻遇突智尊(カグツチノミコト)を産んだ時、女陰に火傷を負い、亡くなった後に葬られた御陵です。

祭神はイザナミノミコト

祭神の伊弉冉尊。亡くなったイザナミを黄泉国から連れ戻そうとした夫のイザナギでしたが、余りにも変わり果て悍ましい姿になったイザナミから逃れて現世に戻り、川で禊ぎした時に両目から八百万の神々が誕生したと伝わります。

熊野速玉大社

新宮市に入り、那智に行く前に熊野三山の一つである熊野速玉大社に参拝しました。熊野の神々は、神代の頃、まず初めに神倉山のゴトビキ岩に降臨され、その後、景行天皇58年、現在の社地に真新しい宮を造営してこちらに遷り、「新宮」と名付けたと伝えられています。

拝殿

快晴の青空、新緑の緑、社殿の朱、これらが強烈なコントラストを醸し出しています。熊野速玉大社の主祭神は熊野速玉大神となっており、この速玉大神は伊邪那岐神(イザナギノミコト)とされています。イザナギは花の窟神社に祀られているイザナミの兄であり夫と言いますから、もうメチャクチャです。

熊野行幸された皇族

過去に熊野に行幸された天皇・皇族のリストのようです。菅原道真を重用した宇多天皇、西国巡礼を復興させた花山法皇、日本史上最大の祟り神と言われる崇徳上皇など、歴史上に良きにつけ悪しきにつけ名を知られている天皇が名を連ねていました。

拝殿

拝殿の奥には、下四社、中四社、上三殿、速玉宮、結宮のなどの社殿が鎮座していますが、拝殿より奥には入る事は出来ないようです。奈良朝末期には、山伏や熊野比丘尼によって熊野権現信仰は飛躍的な拡がりを見せ、全国に数千に及ぶ社が祀られるようになりました。

弁慶

弁慶の木像がありました。なぜ熊野に弁慶が?と不思議でしたが、弁慶の出自には2説あり、一つは島根の松江、そしてもう一つは和歌山県田辺市が候補になっているようです。また、地元の伝承では弁慶は速玉大社に仕えた鈴木一族との説もあり、やはり何処でも謎の多い弁慶です。

補陀洛山寺

補陀洛山寺はインドから熊野に流れ着いた裸形上人によって開山したと伝えられ、観音浄土である補陀洛山へと小船で那智の浜から旅立った宗教儀礼「補陀洛渡海」で知られる寺。不陀洛はサンスクリット語で観音浄土の意味を持つポータラカを音訳したもの。

渡海船

渡海船のレプリカ。北風の吹き出す旧暦の11月になると船に曳航されて沖に出、綱切島近くで曳航綱を切られて風に流され南に漂流していったといいます。船の沈む所を見た人も居ないし、渡海していった人達の行く末を記した記録も無いようです。

振分石

熊野古道の大辺路、中辺路、伊勢路の分岐点に立つ道標。字は風化してしまっていて読めませんでした。江戸時代に、庶民が伊勢神宮への参拝をすませ、速玉大社に詣でた後、那智大社・熊野大社をめざす道標になりました。

大門坂

大門坂を少しだけ登ってみました。大門坂は、熊野詣で栄えた当時の面影を特に美しく残しており、聖地「那智山」へと全長約600メートル、高低差約100メートルの石畳が続きます。 かつて坂の到着地点に大きな門があったことから、「大門坂」と呼ばれています。

南方熊楠

和歌山の生んだ天才生物学者「南方熊楠」が3年間滞在したという大阪屋旅館跡。熊楠は生物学だけでなく、英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、スペイン語に長けていた他、漢文の読解力もかなり高かったといい、まさに当時としては何でもありのスーパーマンだったようです。

夫婦杉

石畳の路になると左右に大きな杉の木が見えてきます。これは樹齢800年という夫婦杉。大門坂全体の杉並木が和歌山県の指定天然記念物になっています。800年前といえば鎌倉初期。800年の歴史を見続けてきた巨木には圧倒されます。人の一生なんて僅かなものなのだと、改めて実感します。

一番札所 青岸渡寺

西国観音札所1番の青岸渡寺にようやく到着です。残念な事に青岸渡寺と隣の熊野那智大社は改修工事中でどちらも建物全体が大きなテントの中でした。しかし、土曜日と言う事もあり境内は大勢の観光客(巡礼者では無さそう)で溢れていました。個人的には6回目?度の青岸渡寺になります。

世界遺産の碑

紀伊山地の熊野三山、高野山、吉野、大峯は2004年7月、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、日本で12番目の世界遺産に登録されました。「世界遺産の賞味期限=3年」説というものがあるようですが、熊野古道はこれを覆し、海外においても知名度は上がり続けているといいます。

御詠歌

西国の霊場にはそれぞれの寺に、花山法皇が訪れた時に詠んだ和歌が「御詠歌」として残っています。青岸渡寺には次のような御詠歌が残されています。
 補陀洛や 岸打つ波は 三熊野の
   那智のお山に ひびく滝津瀬

那智の滝

三重塔と那智の滝は誰がどう撮ってもそこそこのショットが撮れますが、誰が撮ってもこのアングル。三重塔の朱色とバックの山肌の緑、そこに那智の滝の白い一筋がアクセントになっています。

那智の滝

那智の山中には修験道の行などが行われる沢山の滝があり、これらの総称が那智四十八滝と呼ばれえいます。この中の一の滝を一般的に那智の滝と呼んでいます。那智の滝は落ち口の幅13m、高さは133mでこの落差は一段の高さとしては日本一の高さを誇っています。

熊野本宮大社

那智勝浦から再び新宮に戻り熊野川を遡って熊野本宮大社に来ました。熊野本宮大社はかつては、熊野川・音無川・岩田川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲にありましたが、明治22年の洪水で多くが流出し、流出を免れた上四社3棟を明治24年(1891)に現在地に移築・遷座しました。158段の石段を登りますが、一日中登ったり下ったりの連続で些かバテ気味です。

御社殿

神門をくぐると檜皮葺の立派な社殿が姿をあらわします。 向かって左手の社殿が夫須美大神(ふすみのおおかみ)・速玉大神(はやたまのおおかみ)の両神。中央は主神の家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)。そして右手は天照大神(あまてらすおおみかみ)が祀られています。

拝殿

大斎原にあった頃の大社は、およそ1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台など、現在の数倍の規模だったそうです。拝殿の奥には八咫烏のエンブレムの付いた、サッカー日本チームのユニフォームが奉納されていました。サッカーと八咫烏の関係は最近生まれた訳ではなく、1931年(昭和6年)にはサッカー協会のマークとして三本足の鳥を図案化しています。

八咫烏

八咫烏は、日本神話において、日向からやってきて、熊野に上陸した神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されています。八咫烏が三本足であることが何を意味するかについては、諸説あり、熊野本宮大社では三本の足はそれぞれ天(天神地祇)・地(自然環境)・人を表し、神と自然と人が、同じ太陽から生まれた兄弟であることを示すとしています。咫(あた)は長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約18cm)のことであり、八咫は144cmとなりますが、ここでいう八咫は単に「大きい」という意味でしょう。

十津川温泉

熊野本宮大社から熊野川を溯り、今日の宿のある十津川温泉にきました。今夜の宿は十津川温泉の「やまとや」さんという民宿。10年ほど前、十津川の湯泉地温泉に泊まった事がありました。ここは掛け流しで、もの凄く暑い湯という記憶がありましたが、今回のこの宿は掛け流しと言いましたが、熱ーーい!!といった事はなかったです。

2日目

熊野川

翌朝は朝4:00起き。この日の4時過ぎに国際宇宙ステーションが見えるようなので早起きしての宇宙ステーション観測になりました。空も明るくなりかけていたので、この明るさで見えるのか?と思いましたが、天気も快晴で上空を移動する明るい点を見ることが出來ました。

果無集落

宿の近くの山の上を熊野古道、高野山から熊野本宮大社までの小辺路ルートが通っているらしく、その集落も時々TVなどにも出て知られているところと言うので朝飯前に上がってみました。流石に朝はまだ寒いデス。家が何軒がありましたが、住んでいるの様子は無さそうでした。

果無集落 日の出

集落には田植えの済んだ田んぼが二枚ほどあり、これが結構絵になります。しかし、寒い!集落から少し古道を下ってみました。かなりの急坂で、これを逆方向から登ってくるのはかなり大変そうです。やはり熊野古道をあるき通すのは半端では無さそうでした。宿に戻って朝飯を済まし熊野川をさらに遡ります。

六番札所 南法華寺

紀ノ川(吉野川)を越えて尚北に進み、今日一番の訪問地、西国霊場六番札所の「南法華寺」に到着です。山号が壺阪山のため「壺阪寺」の通称で知られる真言宗系の単立寺院です。於里、定市の壺坂霊験記でも知られ、これを歌った「壺坂情話」などでも歌われています。この於里、定市の逸話から壺阪寺は目の御利益があるとされ、目薬なども売られていました。

壺阪寺

壺阪寺は100寺を歩こう会の4回目で7月のクソ暑い時に参詣しています。あれから4年。時の経つのは早いものです。2度目と言う事なので山の上にある巨大な観音像と涅槃像はパスしました。
  岩をたて 水をたたえて 壺阪の
    庭にいさごも 浄土なるらん

十一面千手観音

本尊は十一面千手観音。信心深い方が寄進したものなのでしょう。立派な十一面千手観音の石像が参道に安置されていました。境内全域に石造物が多く、その殆どはインドからの物のようです。

灌頂堂と三重塔

以前一人で西国を回った時には御朱印を貰う為に並ぶなんて事は無かったのですが、納経所はどこも混雑していて御朱印を貰う為には行列に並ばなければならず、結構時間がかかってしまいます。西国巡礼する人が増えたのでしょうか。

高取城趾

今日の予定は壺阪寺と岡寺だけなので時間はたっぷり有ります。という訳で壺坂寺の近くにある日本三大山城の一つ「高取城趾」へ上がってみました。ただ、車を降りればそこにあると言う訳ではなく、暫くの山登りになりましたが、苦労した甲斐があって、石垣が見えて来ると、おおーー!、と感激!。山城の割にかなり大きな城だったようです。

本丸天守台

目の前にやたらと高い石垣が見えてきました。これは本丸の天守台。かなりの高さがあります。それにしても石垣があちこちに残っています。それに築城当時には既にあったと思われる見事な杉の巨木も見事です。人間は巨木に何か感じるものがあるらしく、巨木ファンは多いのだとか?

石舞台

高取城趾から昼飯の摂れる石舞台に来ました。しかし日曜日と言う事で観光客も多く、昼飯に時間帯では空いている店もなかなか見つかりません。ようやく見つけた1軒で昼食となりましたが、周りが混んでいるのに空いているというにはそれなりの理由があるようでした。

石舞台2

石舞台古墳は「蘇我馬子」の墓と言われています。元々は土で覆われた方墳のような物だったようですが、土は完全に取り払われ て玄室が露出してしまっています。周りを覆っていた土砂は自然に流出したものではなく、明らかに人為的に取り払われたように見えます。

石舞台3

墳墓そのものの大きさは一辺約50m程の規模で、その周りを東西、南北約80M程の堤をめぐらした壮大な墓だったようです。石室は約30個の石が積まれ、その総重量は2300トンといいます。これらの石は傍らを流れる冬野川の上流約3Km、多武峰の麓から運ばれて来ました。

石棺レプリカ

石棺は既に壊されてしまっていたようですが、その欠片を元に復元したコンクリート製の石棺との事です。こんなに綺麗に加工されたものだったのでしょうか。

七番札所 岡寺

石舞台からは割と近くにある西国霊場七番札所、岡寺に来ました。元々は天武・持統天皇の子、草壁皇子が住んでいた岡宮を皇子の死後、義淵僧正が譲り受け開創したのが岡寺の始まりとなっています。駐車場からの坂道が超急坂で大変でした。

岡寺

開祖 義淵僧正が民を苦しめていた悪龍を池に誘い込み大きな石で蓋をし封じ込め、厄難を取り除いた伝説、また春日仏師 稽首勲が岡寺で尊像を造り一心に拝んだところ厄難から逃れられたという伝えなどから岡寺は日本で初めての厄除け霊場と言われます。

龍蓋池

この龍蓋池に義淵が悪龍を閉じ込めて蓋をし、村人の厄難を取り除いたと伝わります。池の中心に岩が立っています。これが閉じ込めた蓋なのでしょうか。些か小さすぎて心許ない感じです。
  けさ見れば つゆ岡寺の 庭の苔
    さながら瑠璃の 光なりけり

八番札所 長谷寺

予定には無かった長谷寺でしたが、時間に少し余裕があったので、帰り道でもあり寄っていく事になりました。長谷寺は西国観音霊場第八番札所になります。ここまで来ると足もだいぶ疲れてきています。

登廊

寺伝によれば、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、西国巡礼の開祖でもある僧の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したといいます。

本堂舞台

本堂(礼堂)前は清水寺などにも見られる懸造(舞台造)になっていて、この本堂は国宝となっています。本堂は、本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、礼堂(らいどう)から成る巨大な建築物です。
  いくたびも 参る心は はつせ寺
     山もちかいも 深き谷川

本堂

礼堂内部。磨かれた床に新緑の緑が映っていかにも薫風といった言葉が似合いそうな雰囲気を醸し出しています。ここへ立つと誰でもが写真を撮りたくなる撮影スポットとなっていて、自分もこれまでに何枚撮った事か!

番外寺 法起院

「養老2年(718)徳道上人が62歳のとき、閻魔大王に会い、巡礼によって人々を救うように託宣を受けるとともに起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻され、この宝印に従って霊場を定めた」と記述されています。法起院はこの德道上人の菩提寺で西国霊場に三つある番外の札所となっている寺の一つです。

長谷寺の開山、徳道上人が病にて仮死状態になった際、冥土で閻魔大王から、33個の法印と、観音信仰を広める役目を与えられて現世に戻ったのは養老2年(718)の事。2018年はそれから丁度1300年の節目の年でもあります。そうした事から、今は御朱印も特別な印を押して頂けます。また各寺でも特別の御開帳等が行われているところもあるようです。今回4寺クリヤー。さて、満願は何時になるのでしょう。



御朱印