100寺巡礼 第8回目  奈良・京都 1日目

4月に始まった100寺巡礼もはや8回目。今回は再びの一泊となり1日目は奈良、2日目は京都となりました。紅葉の時期と云う事もあり、京都は観光客で賑わっていました。

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今回は一泊という事もあり撮影した写真の枚数は400枚を越えていた。これに加えコンパクトデジカメで撮った動画も70カットを越えており、この中から使うものとそうでないものの仕分けに一苦労。そのままでは1時間オーバーの長時間ビデオになってしまい、これではいささか長すぎて飽きてしまう。何とか短くはしたものの、それでも45分の長編ビデオになってしまった。我慢して最後まで見てチョーダイ。

浄瑠璃寺

浄瑠璃寺は高校の修学旅行で始めて訪れました。その後もう一度行きたいと思いながらなかなか行けず、再訪が叶ったのはそれから30年ほど経った2000年頃だった。それからは何故か奈良に行く機会が多く、何度となく訪れている。
ここは薬師如来の納められている三重塔側が現世を表し、池の対岸にある阿弥陀堂は彼岸を表しているのだという。そして三重塔から見た境内は平安時代の人々が思い描いた極楽浄土そのものの光景なのだそうだ。
阿弥陀堂の中の9体並んだ阿弥陀仏を見ていると何か気持ちも穏やかになるように感じるが、このこじんまりとした雰囲気がそう思わせるのか?
飢饉や病気に苦しみながら生きていた平安時代の人々もこの堂内で同じように感じていたのだろう。ここは春来てもよし、秋来てもよし、何度来てもその度に「いいなぁ〜」と思う事の出来る、今でも自分にとっては一番の寺となっている。

当尾の里 ウォーキング

当尾は古くから奈良仏教の影響を強く受け、当時は多くの寺院が建立されていたというが後の兵火などで建物は焼け、今は浄瑠璃寺、岩船寺、そして石仏だけが残った。
前から歩いてみたいと思っていた所だったので今回はこの浄瑠璃寺から岩船寺までのウォーキングを楽しみにしていた。
因みに当尾は”とうお”ではなく”とうの”と読む。
浄瑠璃寺から岩船寺に向かって歩くと登りとなるがこちらからの方が石仏は見落としにくい。歩いている道の脇では野菜や漬け物をはじめ、いろいろな地場産品が無人で販売されているので、石仏巡りとは違う楽しみもある。
自分たちが今回歩いたのは浄瑠璃寺から岩船までの約2Km程度の最短コースだけだったがここを外れたところにもいろいろな石仏があるようだ。
写真は右上から順に
「あたご灯籠」「三体地蔵」「わらいぼとけ」「阿弥陀・地蔵磨崖仏」「弥勒磨崖仏」
やはりここは広い所でも無いので1日掛けてゆっくり歩いてみたい。ノンビリと時間を掛けて歩くのが正解だろう。自分たちが歩いたこの日は土曜日という事もあり、大勢の石仏ファン?が歩いていた。

岩船寺

浄瑠璃寺から石仏を見ながら2Kmも歩けば岩船寺の前に到着する。岩船寺は花の寺としても知られるが秋のこの時期は花は無い。紅葉も一部色付いてはいるが本格的な紅葉はこれからのようだった。
岩船寺は聖武天皇の勅願により行基が建立したのが始まりという。最盛期には39の坊舎を持つ大寺院となったというが1221年、承久の変により大半を焼失した。その後再建されたが再度の兵火により次第に衰え、現在では本堂と三重塔を残すのみとなった。
本尊の阿弥陀如来坐像は行基作と伝えられるケヤキの一本造りという。そのケヤキの太さは半端ではなく凄いものだったろう。この周りを固める四天王像も不指定文化財とはいえ、なかなか見応えのある仏像だ。

右最上段へ 

般若寺

般若寺は飛鳥時代に建立され、天平の時代には平城京の鬼門を鎮護する寺となっていた。
それ以後は般若経の学問寺として栄えた、とこのように伝えられているが確かな資料はない。明治の廃仏毀釈では甚大な被害を受け、近代になってからは寺は荒れ果て無住となり一時期本山の西大寺が管理していた時代もあったようだ。
現在ではコスモス寺として知られるが、このコスモスは先代の住職が50年ほど前、種を蒔いたのが始まりというからまださほど古い話でも無いようだ。このコスモスと十三重の石塔が般若寺のシンボル的存在になっているが、忘れてならないのは国宝指定を受けている楼門。鎌倉時代の建立という。
般若寺のホームページでは寺の詳細など詳しく書かれており、また住職のブログでもかなりリアルタイムな情報を流している。しかし、そんな事より境内の咲き終えたコスモスの手入れなど、こちらの方が最優先ではないかのかと思ってしまうような境内の状況だった。

不退寺

不退寺は仁明天皇の勅願を受け、平城天皇萱御所跡に在原業平が開基したと伝わる。その由緒から「業平寺」とも呼ばれる。
正式名称は「金龍山 不退転法輪寺」
寺伝によれば本尊の木造聖観世音菩薩立像は業平の作と伝えられるが、様式的には平安時代中期の作とみられる。現在は独尊像として安置されているが、元来は三尊像の脇侍として造立されたものと推定され、文化庁保管の木造聖観音菩薩立像(セゾン現代美術館旧蔵、重要文化財)は、作風からみて、本像と本来一対をなしていたものと考えられている。
境内にある石棺は5世紀頃のもので、ウワナベ古墳付近にて発掘されたもの。現在は庫裏北側に置かれている。

秋篠寺

秋篠寺の創建についてははっきりした事がわかっていない。この分からないという事が神秘的で秋篠寺にふさわしいという人も居るようだ。
皇室の礼宮さまは,平成2年のご結婚式後、陛下から歴史ある皇室ゆかりの地名に因んだ「秋篠宮」の宮号を賜りましたが、その当時、妃殿下である「紀子さま」の横顔が、 「伎芸天像」に似ておられるという評判が起こり、多くの人が伎芸天を拝観すべく秋篠寺に観光バスなどで訪れ賑わいを見せたというが、今は静かな境内に戻っている。秋篠寺といえば伎芸天だが、この伎芸天は国内ではここ「秋篠寺」にある一体しか存在していない。
参道脇のビロードのような苔も見事だ。

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