柳生街道

 

今から約300年前、柳生新陰流が興されて以来「柳生の剣」を求める武士が行き交ったと言われる柳生街道を一泊二日でノンビリと歩いてみました。

1日目のスタートはJR関西線の笠置駅からです。ここから柳生へ入るには川沿いのルートと笠置山に上がり、そこから下っていく二つのルートが考えられますが、笠置寺を見てみたかったので笠置山経由で柳生へ入りました。

2日目は忍辱山から奈良までになります。柳生街道は石仏、磨崖仏が多い事でも知られていますが、特にこの日の街道沿線には石仏が多く、中でも地獄谷石窟仏が一番人気のようでした。


 


1日目 笠置駅〜忍辱山

笠置駅

笠置寺

柳生

夜支布山口神社

圓成寺


2日目 忍辱山〜奈良駅

忍辱山

五尺地蔵

地獄谷石窟仏

頭塔

奈良公園浮見堂



2018.4.4


関駅

車で関駅まで行き、関西線で笠置駅まで行くのが一番効率が良さそうです。関駅は東海道ウォーク以来で、既に9年も前のでき事。この駅は今年(2018)の3月からは完全無人駅になってしまったらしく、やはり観光客は減ってしまっているのでしょうか。早く到着したお陰で予定の便より一つ前の列車に乗る事が出来ました。

笠置駅

途中の踏切遮断機の故障で15分ほど遅れて笠置駅に到着。笠置駅の周辺は桜の名所としても知られていて、丁度この時期は桜が満開でした。昨年の京都の桜には裏切られましたが、今年は満開の桜の下で気持ちよくスタート出来ました。

元弘の変ジオラマ

笠置駅の前には大きな桜の木があり、その下に何やら訳の分からない像があります。何か分かりませんでしたが、帰ってきてから調べてみたら、笠置山は後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕を目指した元弘の乱の舞台になった場所らしく、その様子を表した像のようでした。

笠置山への登り口

ここからが笠置山への登りです。まだ朝早いので人は誰もいません。山頂付近にある笠置寺までは距離的には大した事はありませんが、地図を見る限り、等高線がかなり密になっていて、いかにも急そうな山道に思えます。

半端でない急登

やはり地図の等高線通りの急登でした。それも半端でない傾斜で、朝一からこの山道は堪えます。グングンと標高を上げていきます。と、いっても笠置寺までの標高差は250m程。でも標高差よりその傾斜です。

町石

途中には町(丁)石が1町(約110m)毎に置かれています。でもゴールが何町目になるのか分からないのであまり参考にはなりません。7町石は見た記憶がありますが、最終は何町だったのか?

笠置寺

笠置山には巨岩が多く、既に2000年前から信仰の対象となっていました。しかしこの地に実際に建物が建てられ人が住みついたのは1300年前頃のようです。その頃、東大寺の実忠和尚、その師良弁僧正によって巨岩に仏像が彫刻されその仏を中心として笠置山全体が一大修験行場として栄えていきました。

笠置寺弥勒磨崖仏

平安、鎌倉と全盛を極めてきた笠置山でしたが、元弘元年、鎌倉幕府討幕運動に失敗した後醍醐天皇を笠置山に迎えた事により攻防1ヶ月、ついに笠置山は全山焼失し、以後室町時代に少々の復興をみたものの、江戸時代中期より荒廃、明治初期にはついに無住の寺となってしまった歴史もあります。

胎内くぐり

笠置山修行場の入り口にあり、行場入りする前に滝で身を清めるのが普通ですが、ここには滝がないため、この岩をくぐりぬけることにより身を清めたといいます。 安政地震で天井岩が落下、以後切石の天井となりました。

修験者の 息吹ぞ今に磨崖仏  一秀

笠置の名の由縁

この時期山吹も満開でした。笠置の名は、飛鳥時代にまでさかのぼります。大海人皇子がこの地で狩りを楽しんでいたときに鹿があらわれました。この鹿を追いかけた皇子が馬ごと岸壁から落ちそうになり「助けてもらえれば岸壁に弥勒仏の像を彫る」と祈願したのだそうです。皇子は無事に助かり、祈願した場所を忘れないために笠を置いて帰りました。翌日、弥勒仏を彫るために再び山を訪れた皇子の前に白鷺があらわれ、皇子を道案内したと伝えられています。こうした事から、皇子が笠を置いた石を笠置石、山を鹿鷺山と呼ぶようになったといいます。

ミツバツツジ

笠置寺から柳生に向かいます。柳生まではほぼ下り阪。街道の脇には山吹、桜、ミツバツツジ等が綺麗に咲き、柳生へ入る手前には「阿対の石仏」などもあり、歩いていても見るものが多く疲れを感じている暇もありません。天気も街道ウォークには最高の陽気になりました。今日の気温は24℃まで上がる予報でしたが、まだ午前という事で、今のところは暑からず寒からずのウォーキング日和になっています。

柳生

ようやく柳生に入りました。柳生の里は十数年前に一度歩いて廻った事があり、これが2回目になります。ウィークデーという事もあり観光客は殆どいません。誰も居ない静かな里に桜の花だけは賑やかに満開状態でした。

街道に ひねもす愛でし桜かな 一秀

十兵衛杉

右手の山の中腹に白骨化した大きな木が立っているのが見えます。この木は柳生のシンボルとして スポットにもなっている「十兵衛杉」と呼ばれている樹で、柳生十兵衛が諸国漫遊に旅立つ前、先祖 の墓地に植えたものだとされています。 それが史実とすると樹齢は350年ほどになりますが、残念な事に昭和48年に二度の落雷を受けて、その後に枯れ てしまいました。それから40年、死してなお立ち尽くすその存在感に圧倒されます。

十兵衛食堂

これから先に行ってしまうと食事を摂れるところは無さそうです。 少し早いですがここで昼食としました。店の名前も十兵衛です。やはり柳生一族の一番人気は十兵衛なのでしょうか。個人的には柳生宗矩の方が好きです。どうも十兵衛は漫画っぽく描かれる事が多く、史実とはかけ離れすぎて全てがフィクションのように感じてしまいます。

家老屋敷跡

柳生藩の家老、小山田主鈴の屋敷跡で、母屋はほぼ創建当時の姿を留めている、奈良県下では唯一の武家屋敷の遺構となっています。小山田といえば、武田勝頼を裏切った大月にある岩殿城主であった小山田信茂が思い起こされますが、主鈴は信茂の子孫になります。昭和31年にこの屋敷は土地の人の手に渡りましたが、昭和39年に作家、山岡荘八の所有となり、その後昭和55年、山岡氏の遺族より奈良市に寄贈されました。

芳徳寺参道

せっかく柳生まで来たのだからと、柳生家の菩提寺「芳徳寺」まで上がってみました。昼のビールが体に堪えます。芳徳寺は宗矩が父石舟齋の供養のために創建した寺で、開山は宗矩と親交のあった沢庵和尚です。沢庵といえば漬け物の「たくあん」の生みの親と謂われている名僧で東京品川の東海寺で晩年をすごしています。宮本武蔵にも登場しますが、これは吉川英治の創作との事。

柳生家墓所

芳徳寺の墓所には柳生一族の墓が並んでいます。ただ、いつも聞いている名と、墓の説明にある名が違っているので、一体どれが誰の墓なのか?柳生石舟齋(宗巌(むねよし))、柳生十兵衛(三巌(みつよし))。また宗矩の末子、列堂和尚義仙がこの寺の第一世となっています。柳生列堂は気性も激しかったようで、ドラマ等でも悪役として描かれる事が多く、子連れ狼の主人公「拝一刀」の宿敵として登場していました。

一刀石

一刀石までの道はそのまま向こうに抜けられないので戻って来なければなりませんが、これから先この里に来る事も無いだろうと思い、行ってみました。石舟齋が修行中に天狗と試合をし、一刀のもとに天狗を切ったのだそうです。しかし、翌朝行ってみると、真っ二つに切れた石になっていたとか。ここからは元来た道を戻ります。

ガス攻めに 柳生の剣士たじたじと 一秀

疱瘡地蔵

一刀石から坂道を下りきり、国道を横断し反対側の山に登り始めるとすぐの所に、疱瘡予防の信仰をあつめた「疱瘡地蔵」がありました。この石の右下にはこの土地の農民が徳政を勝ち得た(負債を棒引きにして貰った)記念に彫られた碑文が残っています。

阪原

阪原(かえりばさ)峠を越えて阪原に出ました。目の前には長閑な田園風景が広がっています。春の暖かな陽気の中で眠くなってきそうです。

たんぽぽや 踏むまじとして歩を乱し 一秀

おふじ井戸

近くに住むお藤が洗濯をしていると、柳生の城主であった、但馬守宗矩がこの井戸の付近を通りかかりました。宗矩はふと、お藤に「桶の中の波はいくつあるか」という問いを投げかけました。するとお藤「お殿さんがここまで来られた馬の歩数はいくつ?」と訊ね返しました。その器量の良さと才気を見初めた宗矩はお藤を妻と迎えたといいます。

南明寺

鎌倉時代に建立されたお寺で現在は本堂だけが残っています。住職不在だそうで、本堂拝観はできませんが、どっしりとした力強い感じのする本堂が良い感じです。この他にも十三重石塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)など見事なものがあるようです。本堂には藤原様式の薬師如来坐像、釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像が安置され、これらは重要文化財に指定されています。
光陰は 矢の如くして蝌蚪の群れ 一秀

夜支布山口神社

「やぎう山口神社」と読みます。大柳生の氏神で平安時代の延喜式にも登場する、歴史は古い神社です。境内にある摂社立盤神社の本殿は、春日大社の第四殿を、延享四年(1747年)に、ここに移したもので、これは重要文化財に指定されています。この神社には、一年交代で集落の長老の家に神様の分霊をむかえる「回り神明」と言う、珍しい行事が伝えられており、700年の伝統をもつ大柳生の太鼓踊りが奉納されます。

圓成寺

1日目のゴールとしていた忍辱山(にんにくせん)に予定より早く到着。奈良行きのバスの時間にはまだ少し時間があったので円成寺には今日のうちに参詣しておくことにしました。ここは昨年、東博の運慶展で見た運慶のデビュー作で国宝でもある「大日如来坐像」を所蔵しているお寺です。本来あるべき所に収まった国宝の仏像を楽しみにしていたのですが、須弥壇には収まっておらず、展示館のような所に展示されていました。やはり仏としての仏像であって欲しいです。

2018.4.5


JR奈良駅

バスで忍辱山へ向かいますが、7:24奈良駅発の便を逃すと次は11:40になるまでバスはありません。駅前のコンビニで朝飯を仕入れてバスに乗り込み昨日のゴール地点である忍辱山に向かいます。30分程バスに揺られていれば忍辱山到着です。写真は現在の奈良駅の横に残されている旧奈良駅舎。

忍辱山

今日は昨日と違い寒いくらいです。でも歩いていれば適温。圓成寺の門の中で風を避けながらコンビニで買ってきた朝食を済ませ、奈良駅を目指して出発です。今日の距離は13Km程度。殆どが下り坂の筈です。

老い初めか 二方帽子忘れけり 一秀

円成寺

街道はすぐに脇の山道に入ります。少し行くと古い石塔や石仏が苔むして立っていました。どうやらここは圓成寺の古い墓地のようです。風化の度合いからみても時代はかなり遡りそうな古い石仏でした。

五尺地蔵

山道下って行き、ようやく少し開けた所に出ました。行く先の茶畑の中腹に何やらあるようです。登っていって見るとお地蔵さんでした。どうやら五尺地蔵と呼ばれている石仏のようです。五尺という名を負っていますが、実際にはもう少し大きいようです。お地蔵さんの場所は綺麗に手入れされていましたが、周りの茶園は最近になり栽培放棄されたようです。

峠の茶屋

五尺地蔵から少し進むと随分と立派な公衆トイレがありました。こうした物が整備されていないと誰でも安心して街道歩きなんて出来ません。トイレの先には柳生街道では有名な「峠の茶屋」がありました。まだ朝早い時間なので腹に何か入れる余裕はありません。ここの親父さんと暫く話をしていろいろと面白い事も聞けました。

ミツバツツジ

茶屋の先で街道は二手に分岐します。一つは安全な道、もう一つは急な道を行く地獄谷石窟仏のコース。ガイドブックなどでは雨が降った後はこっちは通るな、と案内されています。でも雨は降っていないし、迷わずに急坂コースを選びました。こちらのコースを選択して大正解でした。途中には満開のミツバツツジの群生があり、これは本当に綺麗でした。
行く古道 ミツバツツジの尾根伝い 一秀

ミスコース?

そろそろ地獄谷石窟仏があっても良いはずなのに行けども行けどもありません。GPSで確認してもコースからは外れているような表示をしています。でも途中に分岐はありませんでしたから間違えている事はないは筈。出会う人もい居ないので聞くことも出来ません。

地獄谷石窟仏

まだかまだかと思いながら進んでいくとようやく地獄谷石窟物に到着しました。やはりミスコースはしていなかったようです。別名「聖人窟」とも呼ばれ、これらは、大仏殿建立に際し、石材採りの石工が彫刻した説や山伏が岩窟に寝起きして彫刻したとする説などがあります。大正13年に国の史跡に指定されています。
何時誰が何を願ひて刻みしか
    石仏ここに何を語らむ 一秀

石窟仏

正面中央の中尊は盧舎那仏で奈良時代後期の作品と思われます。全体に彩色の後が残っており、金箔の痕も確認されています。向かって左には薬師如来、右に十一面観音がありますが、この十一面観音は室町時代に追加された物のようです。また、右の壁には如意輪観音、左の壁には阿弥陀如来と千手観音が彫られています。出来たばかりの金箔が施された石窟仏は当時の民衆にはどのように見えたのでしょう。

山桜

石窟仏から少し行くと奈良奥山ドライブウェーに出ますが、これを突っ切り反対側の山道に入ります。少し行くと池がありました。一見人工の溜池のようですが、どうなのでしょう。池の畔に咲く山桜が綺麗でした。

首切地蔵

池を過ぎると右に見えるお地蔵さんは、荒木又右衛門が試し切りをして首が切れたという伝説の残る「首切地蔵」。林の中で陽もあまり当たらないためか、苔むして良い雰囲気を醸し出しているお地蔵さんです。

街道合流

首切地蔵の所で先ほど分岐した街道と合流しました。春日山石窟仏を見ながら春日山を一周する散策路もあるようで、これも面白そうです。また、何か機会ががあったら歩いてみたいと思います。

剣豪の 殺気を覚ゆ杉木立 一秀

朝日観音

時々現れる石畳の歩きにくい坂道を下っていくと右上の崖に仏像が彫られていました。これは朝日が当たる事から名付けられた「朝日観音」。東方向を向いているので朝日が当たり、鬱蒼とした森林の中で神々しく見えたのでしょう。この辺り一帯は春日山原始林の一角となっています。
街道は昼なほ暗く石畳
    語らふ水と鳥の囀り 一秀

三体地蔵

朝日観音の先には夕日観音がある筈です。説明看板が無ければ見つかりそうもありません。右手を注意して歩いて行くと「夕日観音」の看板がありました。右手上を見ると岩に彫られた三体の仏像が見つかりました。しかし、mどうみても観音像ではありません。どうやらこちらは「三体地蔵」と呼ばれるお地蔵さんのようです。夕日観音はもっと上の方にようやく見つかりましたが旨く写真に収まりませんでした。

寝仏

よーーく見てみないとどうなっているのかよく分かりません。観音さんが横になっているようです。寝仏となっていますが、観音像の横に彫られた文字まで寝ていますから、これは元々は立っていた物が倒れてそのまま放置されたものなのでしょう。それにしてもそれを「寝仏」とは何とも上手いネーミングをしたものです。

江戸時代の石灯籠

この石灯籠は江戸時代のもののようですが、林の中で日光に当たらなかったからなのか、風化が進んでいません。ここでほぼ下りきり、これから先は平坦な舗装路になります。柳生街道は山道が多いのでトレッキングシューズの方が良いようでしたが、今回全員がこれまで履き慣れてきたウォーキングシューズ。それでも足を痛めやすい石畳も何とか無事に越えて来る事が出来ました。ここまで来れば一安心です。

親ろく地蔵

能登川に架かる橋のたもとに小さなお堂がありました。この橋の架け替えの時に川底に埋まっていた石仏を集めて安置しているようです。説明によると名前の由来は「山麓から出土した親しい六体地蔵=親ろく地蔵」と名付けたとありました。どこかこの上流が崩落した際、一緒に流されてしまった石仏があったのでしょう。

柳生街道ゴール

柳生街道のゴールは山辺の道のゴールというものははっきりしませんが、山辺の道のゴールとした新薬師寺の当たりをゴールとすれば良さそうです。という事でこの辺りをゴールとし、柳生街道を完歩! 今回はこの先に寄ってみたい所があったので、春日神社の方には向かわず、このまま真っ直ぐに進みます。歴史を感じる土塀が凄いです。

頭塔

今回寄ってみたかったのはここ。今までこんな物があるのは知りませんでした。これは奈良時代の僧、玄昉の頭を埋めたという伝説があり「頭塔」と呼ばれています。しかし正確には、東大寺の僧実忠が国家安泰を祈って築いた土塔の跡のようです。日本古来の仏教の雰囲気とは違い、インド辺りにありそうな建造物です。そう言えば実忠はインド人といった話もあったような。

浮見堂

頭塔からそのまま駅にも向かえますが、そのまま横方向へ行けば浮見堂があるのでそちらを経由して奈良駅に向かう事にしました。浮見堂の周りには和式の結婚装束カップルが何組もいます。今時神前結婚ってやはり奈良だ!と感心していたら、聞こえてくる言葉は中国語。ナント、ここにいるカップルはほぼ100%中国人でした。今や、日本人以上に日本的?

春日大社一の鳥居

浮見堂からそのまま上に上がり春日大社の参道にでました。目の前に春日大社の一の鳥居が見えます。ここまで来ればあとは三条通を真っ直ぐに駅に向かうだけ。想像していた以上に良かった柳生街道もそろそろ本当のゴールです。

無情なる 一陣の風花吹雪 一秀

以前から歩いてみたいと思っていた柳生街道をようやく完歩できました。これで奈良の桜井から奈良まで歩いた「山辺の道」と奈良から笠置までの「柳生街道」が繋がり、その総距離は60Km近くになります。まぁ、よく歩いたものです。
今回の柳生街道では二月堂でお水取りを始めた「実忠」に関わる話が二つありました。一つは笠置寺の開基に纏わる話、もう一つは頭塔の建造に関わる話。この実忠という僧はインド人でかなりのイケメンだったと伝わります。才能を持ったイケメンだったのでしょう。
これで予定していた街道ウォークは全てクリヤーしてしまい、これから先の予定は今のところありません。でも何か目標を作って生活の中での張りを持つ必要を感じます。何か計画せねば!