西国観音巡礼、秩父観音巡礼に続き、100観音霊場満願に向けて坂東観音巡礼をスタートしました。
参詣日:2015/3/15
神奈川県鎌倉市
本尊 :十一面観世音菩薩
山号 :大蔵山杉本寺
宗派 :天台宗
創建 :天平6年(734)
開基 :行基菩薩
参詣日:2016/1/5
東京都台東区
本尊 :聖観世音菩薩
山号 :金龍山浅草寺
宗派 :聖観音宗
創建 :推古天皇36年
開基 :土師中知
参詣日:2016/1/9
神奈川県逗子市
本尊 :十一面観世音菩薩
山号 :海雲山岩殿寺
宗派 :曹洞宗
創建 :養老5年(721)
開基 :徳道上人 行基菩薩
参詣日:2016/1/9
神奈川県鎌倉市
本尊 :千手観世音菩薩
山号 :祇園山安養院
宗派 :浄土宗
創建 :建久3年(1192)
開基 :田代信綱
参詣日:2016/1/9
神奈川県鎌倉市
本尊 :十一面観世音菩薩
山号 :海光山長谷寺
宗派 :浄土宗
創建 :天平8年(736)
開基 :徳道上人
参詣日:2016/1/9
神奈川県小田原市
本尊 :十一面観世音菩薩
山号 :飯泉山勝福寺
宗派 :古義真言宗
創建 :天平勝宝5年(753)
開基 :弓削道鏡法師
参詣日:2017/10/21
茨城県土浦市
本尊 :聖観世音菩薩
山号 :南明山清瀧寺
宗派 :真言宗
創建 :推古天のちも三寺皇15年(628)
開基 :行基菩薩
参詣日:2017/10/21
茨城県つくば市
本尊 :千手観世音菩薩
山号 :筑波山大御堂
宗派 :真言宗
創建 :延暦元年(782)
開基 :徳溢法師
あんどん倶楽部で「坂東観音霊場」を廻ることになりました。自分としては大歓迎です。というのも2015年に「100寺を歩こう会」で鎌倉に行った折、個人的に廻る予定でいた坂東観音霊場の1番札所の杉本寺が近くにあったので、数人で参詣し、その日が自分にとっての坂東観音巡礼のスタートとなりました。その後鎌倉だけは友人と歩いてクリヤー。そののちも三寺ほど廻り現在8カ所は参詣済みになりました。スタートしたからには33観音を廻り、西国、秩父、坂東、合わせて100観音札所満願を達成したいものです。現在は75寺クリヤー。残り25寺となりましたが、今回のあんどん倶楽部1回目では新しい札所は無かったので、この数は変わっていません。
坂東霊場全体マップはこちら
杉本寺は天台宗の寺で鎌倉幕府が開かれる500年近くも前の平城初期の天平6年(734)に創建された鎌倉最古の寺。参道の石段を少し登ると仁王門があり、左右の仁王像が睨みつけています。18世紀半ば頃の建立されたこの仁王門は切妻造、茅葺の八脚門で左右に金剛力士(仁王)像を安置しています。
仁王門をくぐると境内に真っ直ぐに登る苔むした石段が続きます。この石段は鎌倉時代に柔らかな鎌倉石で造られ、その後巡礼の人たちに踏みしめられた時間を刻むかのように磨り減っていました。現在この石段は立ち入り禁止になっています。
本堂には行基、慈覚大師、恵心僧都が安置したと伝わる三体の十一面観音像が安置されています。内陣に進むと源頼朝が奉納したと伝わる前立ちの十一面観音蔵像の後ろに安置されているこれらの三尊を拝観することが出来たようですが、残念ながら拝めずに済ましてしまいました。
本堂は茅葺きの五間四面の堂で、寺名の由来は文治5年、寺が火災に遭った時三体の本尊が自ら境内の杉の木の本に難を避けたという故事によるもののようです。
寺の背後にはかつて杉本城があり、足利方の武将で鎌倉府執事を務めた斯波家長(?-1337年)が拠ったが、南朝方の北畠顕家に攻められ、この寺で自害しています。本堂右手前には杉本城の戦いで戦死した斯波家長と一族の供養塔とされる石塔群があります。
帰りに石段を降りていく時に山門のも茅葺きだったことに気が付きました。先に紹介した仁王像は寺伝によれば「運慶作」との事ですが、これは単なる言い伝えなのでしょう。
杉本寺へ参詣の翌年正月、東京国立博物館で毎年正月にだけ公開される長谷川等伯の「松林図屏風」を観に行った折、ついでに浅草寺の参詣も済ませてきました。よく知られる雷門は正式には「風神雷神門」で、仁王ではなく風神・雷神が安置されている門です。門と提灯は松下電器が寄贈したもので、大提灯は10年毎に新調されていています。
正月5日という事で仲見世通りから境内まではごった返していました。最もここは正月で無くても年中こんな状態なのでしょうが、それにしても人、人、人です。浅草寺は以前、スカイツリーを見に来た時以来です。境内からもスカイツリーがよく見えます。
浅草寺の歴史は古く「浅草寺縁起」によれば推古天皇36年(628)檜前兄弟が今の隅田川で漁をしていた時、網の中に聖観音像を発見。郷士、土師中知は出家し自宅を寺に改めてその観音像を祀ったのが浅草寺の始まりと伝わります。今や年間3000万人もの参詣者が訪れる民衆信仰の中心地となっています。
2016年の正月明け、友人と二人で逗子から鎌倉まで歩きながら坂東2番札所から廻ってみました。鎌倉駅周辺はまだ正月気分も残り観光客でごった返していましたが、逗子駅周辺は静かです。駅から鎌倉方向に戻り、閑静な住宅街を抜けた先に岩殿寺はありました。 山門にはまだ「謹賀新年」の文字が!
観音堂の裏には「岩殿寺奥の院」と呼ばれる岩窟があり、その洞内には行基作と伝えられる十一面観音像が安置されています。この観音堂は逗子市の重要指定文化財となっています。
境内から望む三浦半島方向。高台にあるので遠くまでよく見えます。
岩殿寺から安養院までは名越の切り通しを越えて行きます。道程は3キロ程度ですが、切り通し手前の坂道が半端ではない!!
昔、鎌倉に入る道は鎌倉七口と呼ばれ、7つの街道があり、そのうちの一つが逗子から鎌倉に入る名越切通(なごえきりどおし)。名越切通は、鎌倉と三浦半島とを結ぶ要路の一つで周辺には、切通の防衛にも関係すると考えられる平場や切岸、やぐらや火葬跡など葬送に関する遺構も多く分布していて、中世都市の周縁の歴史的景観を良く残しています。昭和41年(1966)に国史跡に指定されました。
名越切通を抜け、ノンビリ歩いて一時間ほどで安養院に到着。山門の前には立派なツツジが植えられており、ここは鎌倉有数のツツジの名所となっています。見頃は4月下旬から5月上旬。
北条政子が頼朝と結ばれる事をここの観音様に願い、それが成就した事の故事により「良縁」を願う参詣者が絶えないようです。
安養院は北条政子が頼朝の菩提を弔うために建立した長楽寺が元になっていますが、鎌倉幕府滅亡の時に兵火で焼失。安養院は長楽寺・善導寺・田代寺という3つの前身寺院が関係していて複雑な歴史を持っていますが、最終的にはゆかりのあった田代寺をこの地に移して安養院田代寺となりました。因みに安養院は北条政子の法号からとられたもの。
安養院から長谷寺までは広い道路を30分ほど歩けば到着します。逗子方面は混雑もありませんでしたが、長谷寺近くには鎌倉の大仏もありこの辺りはかなりの賑わいです。江ノ電の長谷駅の標識を過ぎると正面に長谷寺の山門が見えて来ました。山門は親柱が直径40cmもある四脚門。
本堂内にある十一面観音は高さ9.18mある大きなもので、これは大和・長谷寺の本尊と同じ木から造られたと伝えられています。この一体を行基が海に流したところその観音像が三浦半島に漂着し漁師が引き上げたものがここの本尊なのだそうです。この観音像に足利尊氏が金箔を施し、足利義満が光背を造ったと伝わります。
奈良・長谷の観音像は高台にある境内からは由比ヶ浜が一望でします。今日歩いて来た道順もよく見えていました。この後、鎌倉の大仏を参詣しバスで鎌倉駅へ。人で溢れている「小町とおり」はパスし、鶴岡八幡宮参拝へ初詣。八幡宮も凄い人出でした。
再び鎌倉駅に戻り江ノ電で藤沢へ。
藤沢駅から鴨宮駅までJRで来て、そこからは約2Km歩いてようやく勝福寺に辿りつきました。仁王門には仇討ちで知られる曾我兄弟が成功を祈り怪力を授かったという仁王像が睨みをきかせています。
孝謙上皇の信頼を得た弓削道鏡でしたが、上皇の没後下野国薬師寺に左遷されることとなり、下野国へ赴く途中、上皇から賜った十一面観音を相模国足柄下郡千代村に堂宇を建立して安置したのに始まると伝えられ、この観音像は、唐からの僧鑑真が請来したものと伝えられています。
今日はよく歩きました。山門の前にバス停がありもうじきに小田原駅へ行くバスが来るようです。出来るならば、坂東33カ所霊場を歩いて廻ってみたいものです。
昭和44年、火災に遭い本尊も堂宇も焼失してしまい、清瀧寺の唯一の遺構となってしまった仁王門に安置される仁王像。造られたのは文化15年で、その後の損傷が酷く一時期は消滅の危機に至りましたが、全国から寄付を仰いで平成15年、復元されました。阿形像は体内に阿弥陀如来像を抱く貴重なもの。
木立のなかに雨に打たれる仁王門は風情があります。清瀧寺の建つ小野地区は小野小町伝説の地でもあり、小野小町の墓まであるようです。私有地を通らなくてはこの墓に行けないようで、また地主さんとの話も纏まらないために墓参りは出来ない状態のようです。もっとも、小町の墓は全国あちこちにありますから.....
これまでの反省をふまえて造られたコンクリート製の本堂。この中に安置された聖観音菩薩像は23番札所・観世音寺の住職が寄進された菩薩像との事。坂東33箇所霊場に入っているという事はかつてはそれなりの寺格を誇っていた寺だったのでしょうが、やはり時代の変化なのでしょうか。
江戸時代には筑波神社と知足院大御堂との神仏習合により人々の信仰を集め盛隆を極めていましたが明治時代の神仏分離により寺院は破却されてしまいました。この時本尊だけは仮堂に移され難を逃れ、その後昭和5年に再興されましたが、昔を偲ばせるものは残っていません。最近まで戦後(昭和36年)に建てられた本堂がありましたが、これも最近取り壊され、現在2020年の完成を目指して新築中。
明治の初めまでは大御堂の伽藍は現在の筑波山神社の場所にありました。明治に破却された大御堂でしたが昭和になり再興されます。昭和13年には山津波の被害を受けましたが本尊はこの時も土中から傷一つ無く現れたといいます。現在はプレハブの仮の祭壇に安置されています。ここの御朱印を書いている老女はタバコ嫌いで有名なのだそうで、まず喫煙者かどうかチェックされるようです。
今日の一番の目的は東京国立博物館で開かれている「運慶展」でした。5時過ぎ東博の平成館に入り、1時間半ほどかけてゆっくりと見てくることが出来ました。運慶の作品がこれだけの数集めた展覧会は今後開催される事は無いだろうといわれ、それがこの「運慶展」の人気を盛りあげているらしく、連日かなりの混雑になっているようですが流石に夜は少し空いているようでした。