3月11日
3月6日に家を出て、7日に網走をスタートした北海道旅行も、今日が北海道での最終日になります。夜、9時48分発の「北斗星2号」に乗り込むまでにはたっぷりと時間があります。昨日のうちに函館市内をまわる定期観光バスの申し込みは済ませておきましたから、朝ホテルで待っているとバスが向かえに来ました。それでは最終日出発!

□ 湯の川温泉
昨日はあれだけ綺麗に除雪されていた道路が真っ白になっています。一晩でまたまた銀世界。今年の函館は雪が多いそうで、市の除雪の為の予算も使い切ってしまっているそうです。函館山の山頂も隠れてしまって今日もあまり期待できそうもありません。ホテルまで向へに来てくれた定期観光バスに乗り混み一旦は駅へ。そこで客を拾い、五稜郭へ向かいます。

□ 五稜郭
五稜郭は江戸の安政年間、蘭学者の武田斐三郎(アヤサブロウ)によって設計された堀が星形をした日本で初めての洋式城郭です。星形にすれば死角を無くす事が出来る理屈。この中には天守閣を持った城はなく、奉行所がおかれていました。函館戦争の時には榎本武揚を首班とする反乱軍?がここを占拠し、明治政府軍と攻防を繰り広げましたが、明治2年5月には降伏、開城しています。桜の花の名所にもなっているようですが、冬のこの時期では雪も深く中に入る事も出来ません。この時期は隣にある五稜郭タワーから見るしかなさそうです。しかし、このタワーも高さが60m程度しかなく、五稜郭全体の形を捕まえる事は出来ません。現在、新しいタワーを建設中でこちらは完成すると98mの高さから五稜郭全体を見渡せるようになるそうです。完成は来年の春頃とか。実は日本にはもう一つ五稜郭があります。どこかと思ったら長野県佐久市臼田町にある鶴岡城址。臼田にはパラボラアンテナを見に行った事がありましたが、五稜郭には気が付きませんでした。

□ トラピスチヌ修道院
函館のキリスト教関連で一番有名なのはこの「トラピスチヌ修道院」でしょうか。明治31年にフランスから派遣された8人の修道女が設立した日本初の女子修道院です。院内では現在でも約70名の修道女が牧畜や農耕の仕事に携わりながら自給自足の生活をしています。生活の基本は神への賛美と献身。祈りと賛美歌の時以外は口を聞きません。私語は禁止なのだそうです。戒律が驚く程厳しく、並の人間では勤まりそうもありません。修道女として修道院に入るための審査基準もかなり厳しいようです。
内部を見る事は出来ませんが、入った所にある建物の中では修道女たちが作ったお菓子などの販売が行われています。

□ 赤レンガ倉庫群
函館ベイエリアの顔ともいえる「金森赤レンガ倉庫」は明治時代長崎からやって来た渡邉熊四郎が始めた倉庫業の名残。明治40年8月に起きた函館大火で倉庫の何棟かを消失し大損害を被った熊四郎が火事の教訓を元に、燃えない赤レンガを使って建てた一大倉庫群です。完成は明治42年5月。
昭和後期からは北洋漁業の衰退、輸送形態の変化などから倉庫業もかつての勢いを失っていきました。その一方では建造物としての金森赤レンガ倉庫の風格ある姿が人気を呼び、現在では内部を改装し、ビヤホール、土産店、ブティック、など、倉庫の雰囲気を生かした洒落た建物に生まれ変わって観光客をよんでいます。今回、定期観光の昼食はこの中の「函館ビヤホール」。これだけの倉庫ですから内部もかなり広いです。こんな倉庫が何棟もありますから総床面積はいったりどれほどになるのか。
 倉庫1 倉庫2 倉庫3 倉庫4 倉庫5

□ 市内百景
写真左上)函館には路面電車が走っています。外回りは全面広告で1社1台。年間の広告料は百数十万とか。1台丸々ですから安い!
写真左下)旧桟橋
写真右下)旧イギリス領事館内
写真右上)日本最古のコンクリート電柱。この電柱円柱ではなく角柱です。

函館山は天候が悪くロープウェーも止まっているために定期観光も旧イギリス領事館を見て終了。


□ 土方歳三最後の地
榎本武揚の開陽丸に仙台から乗り込み函館にやって来た土方歳三は3000人の旧徳川家臣団と共に函館を占拠。1868年には榎本武揚を首班とし、五稜郭を拠点とした仮政府を樹立しています。この政府は海外政府からも正式なものとして認められたものでした。しかし、この後は明治天皇から「函館追討令」が出された事で反乱軍と見なされ、1869年に新政府軍の攻撃を受け、激戦を展開し五稜郭は陥落。土方歳三は一本木関門を出た所で政府軍の銃弾に倒れたと言われています。左写真のバックには1本木関門がありますが、実際の場所はここより少し現在の函館駅に寄った所だったようです。「歳進院殿誠山義豊大居士」と、大名並みに立派な戒名。函館新政府では陸軍奉行並といった要職に付いていましたから当然? さて、土方歳三の本当の墓は? これは歳三の生家の菩提寺(東京都日野市石田寺)にありますが、実際に埋葬されて居るわけではなく本当の埋葬場所は不明のようです。この場所は土方歳三の最後の地であるだけでなく、平安末期から続いてきた武士の終焉の地でもあるわけです。
駅からは1Kmもない所ですが、足下が悪く(雪でグチャグチャ)到着まで一苦労でした。でも、ここだけは寄ってきたかったです。

□ 摩周丸
青函連絡船

函館山が中止になったお陰で時間が随分と空いてしまいました。摩周丸は駅のすぐ近くのようなので行ってみました。

明治41年から昭和63年まで運行された青函連絡船も青函トンネルの開通と共にその役目を終えました。港に1965年から23年間、実際に連絡船として使われた「摩周丸」が係留され公開されています。船内は連絡船に関しての体験資料館となっています。31年前はこの連絡船に乗り、北海道へ渡りました。夜の乗船で真っ暗な津軽海峡を渡って北海道上陸!といった実感がありました。しかし、今回は青函トンネルを抜けて北海道へ。どうも実感がありません。過去には大きな悲惨な事故などもあった連絡船ですが、たしかに安全と言えば安全になりました。台風が来ていても海底のトンネルでは関係ありません。

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