西国巡礼 ひとり旅
1日目(2013年4月7日)
| 西国巡礼目次 | 前ページ | 2日目 |



   1日目は1番・青岸渡寺➡那智大社➡那智の滝➡補陀洛山寺➡熊野本宮大社➡湯ノ峰温泉➡みなべ市

甫母町(ほぼ)

靜岡から一番札所のある那智まではかなりの距離があります。計ってみると約420Kmにもなり、第一日目はかなりの覚悟がいりそうです。予定では1日前の4月6日にスタートする筈でしたが、台風並みの強風が吹き荒れ、一日延期しました。東名、伊勢湾岸、東名阪、伊勢自動車道、紀勢自動車道と乗り継ぎ、尾鷲までは順調でした。ここからは熊野灘を見ながら海岸線に沿って行ってみましたが、部分的には、これが国道?と思えるような酷道です。
途中の甫母という町の高台に綺麗な海の見える展望台がありました。説明によれば、神武天皇が東征の折り、ここに上陸し、ここから大和へ八咫烏の案内で進んだ、との事でした。成る程!
海岸線を進む為に距離はかなり伸びているようですが、これから先、こんな所に来ることもないのでしょうから今生の見納めになる光景なのかもしれません。

徐福(じょふく)

新宮に入ったところで、以前より興味を持っていた「徐福」の墓に寄って見ました。
徐福は今から2,300年も昔,秦の始皇帝の時代の人物で、この頃の日本は狩猟生活から農耕生活へ移っていく時代でした。始皇帝に不老不死の薬を探すように命じられた徐福は東方にあるという蓬莱山を目指し、3,000人とも云われる子供や技術者を引き連れ船出し、辿り着いた所がここ新宮だったと伝えられていますが、徐福伝説は新宮だけでなく全国至る所にあります。この当時3,000人も乗れるような船が存在するはずは無く、実際には小さな船の集まった船団だったと考えられます。この船団が纏まって日本に到着したと考えるには無理があり、やはり途中で離ればなれになり、幾つものグループになって日本に辿り着いたと考えるのが妥当でしょう。そう思えば徐福伝説が全国各地にあることも納得できます。
徐福の墓は徐福公園の中にありますが、この公園、色彩豊かでまるで横浜の中華街です。


青岸渡寺  (1番札所)

ようやく最初の目的地である西国三十三カ所霊場の一番札所、青岸渡寺に到着。流石に靜岡からは遠いです。熊野三山と云われる熊野那智大社・熊野速玉大社・熊野本宮大社は明治までは神仏混合の神社でした。明治の神仏分離令により他の2社は仏堂が全て廃されてしまいましたが那智大社では如意輪観音堂が破却を免れ、のちに信者の手で青岸渡寺として復興しました。 まずは一番の御朱印を頂くことができましたが、この時はまだ大事な事を忘れていた事に気がつきませんでした。しかし、このお陰で後々大変な思いをする事になってしまいました。これはまた後ほど。
さて、今日はまだまだ先に進まなくてはならないので、そうそうゆっくりしている訳にもいきません。2番札所の紀三井寺まではこの先180Km走らなくてはなりません。

那智の滝

青岸渡寺の三重塔越しに見る那智の滝は絵になります。ここまで来たのですから那智の滝くらいは見ていかないと!
那智山一帯は、滝に対する自然信仰の聖地であり、那智の滝は那智山にある48滝の総称であり、一般的に云われる那智の滝はその一の滝の事をいいます。
一の滝は飛瀧神社の神体であって、飛瀧神社の境内に設けられた滝見台からその姿を見ることが出来ます。

補陀洛山寺

那智のお山から下りて来て、熊野本宮大社に向かう前に渡海信仰で知られる補陀洛山寺に寄ってみました。
補陀洛山寺はインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝える古刹で、平安時代から江戸時代にかけて人々が観音浄土である補陀洛山へと小船で那智の浜から旅立った宗教儀礼「補陀洛渡海」で知られる寺です。補陀落というのは古代サンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳です。チベット仏教の総本山であるポタラ宮もこのポータラカに由来する事といいます。実際に行われた「補陀洛渡海」は記録に明らかなだけでも日本の各地(那珂湊、足摺岬、室戸岬など)から40件を超える補陀洛渡海が行われており、そのうち25件がこの補陀洛山寺から出発しています。
渡海舟の 船上に造られた屋形には扉がありません。屋形に人が入ると、出入り口に板が嵌め込まれ外から釘が打たれ固定されます。その屋形の四方に4つの鳥居が建っていてこれは「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」の死出の四門を表しているとされます。 渡海は北風が吹き出す旧暦の11月に行われました。渡海船は伴船に沖に曳航され、綱切島近くで綱を切られた後、朽ちたり大波によって沈むまで漂流します。もちろん、船の沈没前に渡海者が餓死・衰弱死した事例も多かった事でしょう。しかし、船が沈むところを見た人も、渡海者たちの行く末の記録もありません。補陀洛山寺の住職は61歳になると渡海する事がいつの頃からか慣習化されていたと言います。その年になっても渡海しない住職は信者に後ろ指を指されたというのですから残酷な話です。そのような歴史をふまえた上で境内に展示されている渡海舟を見ると、補陀洛渡海とは誰の為、何の為の信仰だったのか..... 分からなくなります。

熊野本宮大社

那智から再び東に戻って新宮市へ。そこから熊野川に沿って熊野本宮大社に向かいます。早朝から運転しているからなのか、眠〜いのです。
那智から1時間ほどで本宮大社に到着。現在の本宮大社は山の上にありますが、明治22年の大洪水で流されるまでは熊野川の中州にありました。明治時代に入り木材の伐採が急激に行われたため、保水力を失った山林が大洪水を引き起こしたといいます。それまで千年以上もの間、中州にあっても無事であった社殿が明治に入っての僅かな期間の変化で流失してしまったという事は、逆に言えば人の手さえ入らなかったら熊野川の中州で今の時代まで生き残っていたのかもしれません。熊野坐大神(家都美御子大神)は、須佐之男命とされますが、その素性は不明です。太陽の使いとされる八咫烏を使いとすることから太陽神であるという説や、中州に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説などもあるようです。
最近のパワースポットブームのためか、若い参拝者が多い事は意外でした

湯の峰温泉

さて、初日はこれくらいにして、泊まりはどうしようか?田辺くらいまでは走って行けそうですが、その前に風呂にも入りたいし、夕飯も何とかしなくては。それに夜、車の中での飲み物も買わなくては!
風呂は小栗判官の重病でさえ治したと伝えられる「湯ノ峰温泉」に入っていこうと、峠を越えていく途中、小栗判官を乗せて照手姫が曳いてきた車を埋めたと伝えられる「車塚」がありました。湯ノ峰温泉で病気が治癒し、必要の無くなった車をここに埋めたという事なのでしょう。
湯ノ峰温泉の温泉街に入り、公衆浴場がないかと聞いたところ公営のものがあるようでした。この公衆浴場に入って家を出て以来、ようやくのノンビリタイム
もう1人入って来た同じような年格好のおじさんと話したら、このおじさん、車で温泉に入りながら全国を走り回っていると言います。中でも、この湯ノ峰温泉が一番だと盛んに褒めていましたが、確かにこの湯ノ峰温泉は効果がありそうな感じです。
湯の峰温泉と言えば「坪湯」が有名で、これは入る事の出来る世界遺産にもなっている温泉です。入ってはみたかったけど、小さな川の中にあるこの坪湯、入るにはチト度胸が必要です。結局入らずじまいで終わってしまいましたが、今思えば入ってくればヨカッタ!と思う事しきり。
さて、風呂も入ったので、あとやるべき事は夕飯を食べなければ!
途中にあった道の駅で夕食を摂り、飲み物とつまみを仕入れて寝場所探しです。この車中泊の場所はiPhoneの専用アプリで探してみたところ、どうやら田辺の北にあるみなべ町の道の駅が良さそうです。田辺から阪和自動車道に乗り入れ、みなべICまでの1区間だけ利用し、今日の宿となる道の駅に到着したら、既に1台だけ先客がいました。
還暦過ぎての小さな冒険旅行の初日が終わりました。
予想外の事が!  寝袋とフトンで十分暖かいと思っていたんだけど、結構冷える!

西国巡礼目次 | 前ページ | 2日目 |