西国巡礼 ひとり旅
2日目(2013年4月8日)

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  2日目は道成寺➡2番 紀三井寺➡3番 粉河寺➡丹生都比売神社➡4番 施福寺➡5番 葛井寺➡名神高速桂川PA

道成寺

さて、西国巡礼ひとり旅2日目はみなべ町の道の駅で起床。周りを見ると、自分が寝てから入ってきた車もあったようです。綺麗なトイレで用を済まし、洗顔、歯磨きを済ませ出発。それにしても夕べは寒かったです。阪和自動車道の御坊ICで降り、一度行ってみたいと思っていた安珍、清姫の話で知られる道成寺に寄ってみました。まだ7:20am と時間も早いので駐車場の係りもいません。取りあえず境内に上がってみました。道成寺の鐘は大蛇に変身した清姫により安珍もろとも焼かれてしまったという事で鐘は無いのです。こうなると史実と伝説の境目がなくなり訳が分からなくなってきます。安珍清姫の話ばかりが有名になってしまった道成寺ですが、国宝の仏像三体を始め、重文指定を受けた仏像も多く、寺伝によれば文武天皇の勅願により義淵が開基したとあるように、かなり古い歴史を持っています。残念なことに、この日は時間も早かった為、宝物館を見ることは出来ませんでした。

紀三井寺  (2番札所)

再び阪和自動車道で海南東ICまで行き、和歌山市内にある3番札所の紀三井寺に向かいます。 1番札所の青岸渡寺から約180Km、ようやく2番の紀三井寺に辿り着きました。紀三井寺は高校の時の修学旅行で一度来ていますが、記憶は殆どありません。
寺号は紀州にある、三つの井戸が有るお寺ということで名付けられたといわれ、今も境内には、清浄水、楊柳水、吉祥水の三井より清水が湧き出しています。 境内には約500本の早咲きのサクラが植えられ、特に関西地方では早咲きサクラの名所としても知られています。
2002年に完成した仏殿は鉄筋コンクリート作りで高さ25m、中に安置されている千手観音立像は高さ12mにも及ぶ大きなもので、まだ出来て間もないために金ピカ。
この仏殿から眺める和歌浦は春の海。海を眺めながらノンビリ昼寝でもしたくなるようなそんな気分でした。

粉河寺  (3番札所)

紀三井寺を出て北に向かうとすぐに紀ノ川を渡ります。ここからは紀ノ川とJR和歌山線にそって東に進むと3番札所の粉河寺に到着。粉河寺はその全盛期には4Km四方の寺領を誇ったと伝えられますが、天正13年(1585年)、豊臣秀吉が紀州に攻め入り、この時に全山焼失し、現在は国宝となっている粉河寺縁起絵巻も焼損しました現在の伽藍はほとんどがそれ以降の江戸時代に再建されたものです。 粉河寺の特徴はその本堂の建つ様で、一段高くなった平地に本堂、千手堂、六角堂、丈六堂などが建ち、本堂前の斜面は巨石を並べた庭園になっています。本尊は絶対秘仏で公開された記録はありません。粉河寺においては「お前立ち」像も秘仏となっていて、本尊像は火災を避けるために本堂下の地中に容器に入れて埋められているとされています。「お前立ち」像は年に一度、12月31日に僧籍にある関係者が掃除のために開扉するのみで、在家の者が拝観する機会はないといいます。これでは一体誰の為の寺なのでしょう?

丹生都比売神社

ここは絶対に寄って見ようと思っていた所。丹生都比売神社は全国に散らばる「丹生神社」の総元締めで、丹(水銀朱)の採掘に関わっていた丹生一族が祀ったものと考えられています。丹に関わる神社であると同時に、水にも関わりを持っていたようです。
空海が高野山を拓くにあたって、丹生都比売神社ではその神領であった高野山を空海に与えています。高野山金剛峯寺と丹生都比売神社の関わりは深く、高野山においても丹生明神は今でも大事に祀られています。この事から高野山と丹(水銀朱)の関わりもあると考えられ、実際、高野山の土壌に含まれる水銀濃度はかなり高いという調査結果も出ています。空海は遣唐使として唐に渡っており、その時に丹=水銀朱=辰砂 の有益生は十分勉強してきているはずです。その空海が帰ってきてから日本国中を廻り丹の鉱床を探し求めたと考えても無理はないでしょう。
空海の持つ杖は錫杖ではなく、山師のもつ杖の形だといいます。そうしたことを踏まえた上で考えてみると、全国にある弘法大師が発見したと伝わる温泉や霊泉の類いも、丹を探しているうちにたまたま掘り当ててしまった産物なのかもしれません。
白州正子がこの神社を始めて訪ねた時には神社の裏に丹に関わる施設が残っていたといいます。
山を登っていくと、突然平らな土地が開けました。こんな山の上にこんな平らな土地があるとは思ってもみなかったので、意外な驚きです。廻りを小高い山に囲まれた盆地になっているこの地は天野いう地区で、自分が訪れた4月、朱色の輪橋と鳥居が目立つ丹生都比売神社は春ののどかな景色の中に建っていました。この朱色も丹から生まれた塗料だったのだと知りました。 もしかしたら丹生都比売神社と高野山(空海)の結びつきが無かったのなら明治まで続いた神仏習合も無かったのかもしれませんね。

施福寺  (4番札所)

施福寺までのルートを調べてみたら、どうやら山を越えてほぼ一直線に施福寺まで行ける山道があるようでした。ならば一番近道のその道を選択しました。この道、峠までは問題なかったのですが、下りになると極端に狭い道。それに急坂なので、バックは滑ってしまい出来ない状態です。カーブで一発で曲がりきれなくて切り返し何てことになったら一大事。
何とか無事に施福寺の登り口に到着。今日はまだ粉河寺で買った柿の葉すしを食べただけです。これから40分ほどの山登りになるので、その前に栄養補給しておかないと!と、参道口の店でうどんを食べながらこの先の情報収集です。さて、細かいことも店の主人に聞き、施福寺への登山開始。大変と行った所で、やはり寺への参道なのですから、山登りとは違います。さしたる苦労も無しに施福寺境内に到着。修験道の開祖・役行者が、書写した法華経を葛城の峰々に安置し、最後の巻尾をこの地の如法峯に納めたことから「巻(まき)の尾(お)」と呼ばれ、これが山号の槙尾に変化したといいます。 境内に入る手前の階段の途中、本堂に向かって左側に「弘法大師御髪堂」が建っています。この堂には、弘法大師の剃髪した髪が納められているといいますが、御髪堂の石碑、堂などは見た目に新しく、造られたてからあまり年月は経過していないようです。 槙尾山の山頂付近に建つ施福寺は今の時代でも自分の足で登らなければ辿り着けない寺で、西国巡礼の中でも大変な部類に入る寺とされています。
しかし高い所にある割に周りが林になっている為眺望はあまり開けていませんが、東方向には大和盆地の西に広がる葛城山や金剛山などの山並みを見ることが出来ました。
山越えに必死で気がつかなかったのですが、大阪府に入っていました。
本堂で御朱印と散華を頂き、4番目までクリヤーです。

葛井寺  (5番札所)

施福寺から葛井寺までは30Km程度なので、一般道を行くことにして国道170号を北に進みます。道路は混み始めているものの、1時間ほどで葛井寺に到着。葛井寺は住宅街に突然現れる大きなお寺で、国宝指定を受けている御本尊の千手千眼観世音菩薩坐像は、唐招提寺、三十三間堂とともに三観音として知られています。葛井寺という名にふさわしく、境内の藤棚に伸びた藤は房長1.5m にも伸びる見事な藤です。
さて、これで今日は打ち止めとし、まずは風呂に入ってノンビリしたい。調べてみたら「ゆららの湯 奈良店」がよさそうです。西名阪を使えば30分程で到着出来そうなので、西名阪を東に向かい郡山でおり、ゆららの湯へ。朝からいろいろとあり、今日は疲れました! 今日は何処に泊まろうか?調べてみたら奈良公園の駐車場が近いようです。実際にそこに行ってみると夜は駐車場内には入れないようです。結局この日は延々と北に走り、京名和自動車道、京滋バイパス、名神高速と進んで、結局名神高速の桂川PAでの泊まりになりました。

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