西国巡礼 ひとり旅   4日目(2013年4月10日)
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  中国自動車道西宮名塩SA➡中山寺➡播州清水寺➡一乗寺➡圓教寺➡朝来(ビジネスホテル)


中山寺  (24番札所)

「西宮名塩SA」で目覚めましたが、今日は朝一に再び東に向かい宝塚まで戻らなくてはなりません。高速を戻ろうかと思いましたが朝の通勤ラッシュで混んでいる一般道を行ってみました。不思議なもので、今日は何処までという予定の無い旅なので渋滞にかかっても別段イライラもせず、かえって周りの景色を楽しむ事が出来ました。 さて、昨日入った風呂の近くにある24番札所、中山寺が今日のスタートになります。
中山寺は秀吉が祈願して秀頼を授かった話や、幕末の時代、中山一位局が安産の腹帯を授かり明治天皇を出産された事などにより「安産の観音さま」として全国に知られるようになりました。安産祈願にお参りする人に配慮しての事なのか、本堂前の階段横にはエスカレーターが設置されているのはお見事!
また、この中山寺は、西国巡礼の祖とされている徳道上人が閻魔大王から西国観音信仰巡礼の命を受け、生き返って巡礼を始めたものの、その普及が叶わず、閻魔大王から授かった宝印を埋めた寺としても知られています。宝印が埋められてから270年後、那智山で姿を現した熊野権現から託宣を受けた花山院がこの宝印を掘り起こし、仏眼上人を先達として三十三所霊場を巡礼したことから、やがて人々に広まっていったと伝えられ、花山院は西国巡礼中興の祖とされています。 先達となった仏眼上人は笈摺・納め札などの巡礼方式を定め、花山院が各寺院の御詠歌を作り、現在の三十三カ所巡礼の様式がここに定められたといわれています。
このように西国巡礼は徳道上人が祖、花山法皇が中興の祖とされていますが、これらが全て史実と云うわけではないようです。


清水寺  (25番札所)

中山寺を参拝し、時間を見るとまだ8時半を廻ったばかり。毎日かなり早い時間から動き出すので時間には余裕が出来ます。もう少しノンビリと廻れば、と思うけど、どうも先の事も気になり、先を急いでしまいます。ノンビリ、ユックリ!
宝塚ICから中国自動車道に乗り、西宮山口JCT、神戸JCTと進み、吉川JCTで中国自動車道から分かれて舞鶴若狭自動車道に入り三田西ICでおりました。中山寺を出てから1時間20分ほどで清水寺に到着。白州正子が西国巡礼執筆のためにこの清水寺を訪れた時にはまだ車で上がれる道路は無く、下から参道を登っていったと云いますから、今の時代の巡礼は随分と楽になったものです。かなり広い駐車場から仁王門を抜け、暫く行くと大講堂の前に出ます。下から登ってくる山道もここに延びていました。ここからこの裏手を回り、登って行ったところに根本中堂。ここからさらに上に登って行くと、この清水寺の寺名の由来ともなった「おかげの井戸」が今も清水を湧きだしています。この井戸を覗き、顔が映ったら寿命が3年延びると云われています。
この少し先に大塔跡があります。大塔は寺の説明によれば、保元2年(1157年)に平清盛の生母と伝えられている祇園女御の建立とされています。明治40年(1907年)に焼失し、大正12年(1923年)に再建されましたが、昭和40年(1965年)の台風で大破し、それからは礎石が残るだけとなっています。
この地は播磨、丹波、摂津の境にあることから、しばしば争いが起こり、山門から大講堂に向かう参道の途中には、切腹石が置かれていました。この場所で、赤松義則らに攻められた赤松氏範らが自害したととされているようです。
秋に再度訪れてみましたが、見事な紅葉でした。

一乗寺  (26番札所)

清水寺から1時間20分ほどで一乗寺に到着。一乗寺の開基はインドから紫色の雲に乗ってやってきたという法道仙人とされており、この辺り一帯に、法堂仙人を開基とする寺は多く、実在の人物なのかどうかは別として、このモデルになる人物が存在したことは想像出来ます。一乗寺には7世紀〜8世紀作の金剛仏があり、付近には奈良時代まで遡る廃寺跡や石仏が散在する事からもかなり早い時代から仏教文化が栄えた地であったようです。
石段を登って行くと左手にある三重塔は平安時代に建立されたもので、これは国宝の指定を受けています。階段を登り詰めた所にある本堂の懸造となった廊下からはこの三重塔を上から見下ろして見ることが出来ます。またこの塔は塔身部の逓減率(初重から三重に向かって小さくなる率)の大きいことが特徴となっています。
ここで歩きながら巡礼しているおじさんに会いました。通しで歩いているわけでは無く、何回かに分けての巡礼旅なのだそうです。自分も出来るものなら、歩いて廻ってみたいものです。


圓教寺  (27番札所)

一乗寺から2時間弱で姫路の書写山の麓に到着。実は圓教寺への登りはナビの指示では西側斜面を登って行くようなものでした。しかし、じっさいに行ってみると、道路は通れない状態。近くに居たおじさんに聞いた所、車では上がれないとのこと。東側にあるロープウェーに乗って登るのだそうです。事前の調査ミスでした。
東側に廻り、ロープウェーで書写山に登ります。上の駅に着いてからも1Km程歩かなければならないようです。別に登りでもなく、山門から続く参道脇には33カ所霊場の観音像が並んでいて、それを見ながら進むと、圓教寺の摩尼殿の前に到着。
圓教寺は西国三十三所のうち最大規模の寺院で、「西の比叡山」と呼ばれるほど寺格は高く、中世には、比叡山、大山とともに天台宗の三大道場と称された巨刹でした。境内は、仁王門から十妙院にかけての「東谷」、摩尼殿(観音堂)を中心とした「中谷」、3つの堂(三之堂)や奥の院のある「西谷」に区分されます。山内には、姫路藩本多氏の墓所である本多家廟所があり、そこには本多忠刻に仕え殉死した宮本武蔵の養子・宮本三木之助などの墓もあります。近年では、2003年(平成15年)公開のハリウッド映画『ラストサムライ』のほか、NHK大河ドラマ『武蔵』〈平成15年〉や『軍師官兵衛』〈平成26年〉のロケ地にもなりました。
摩尼殿正面の階段下から西へ徒歩数分で大講堂のある広場に出ます。白砂の広場を囲んで、右(北)に大講堂、正面(西)に食堂、左(南)に常行堂の3棟が「コ」の字形に並ぶ一画は中世の寺院景観を現在に伝えており、これら3棟を総称して「三之堂」と呼ばれています。
ロープウェーの山上駅まで戻り、下に降ります。遙か向こうの山の陰に僅かにその当時は改修中だった姫路城が見えていました。ここも秋に再訪。見事な紅葉でした。

さて、今日の予定は終了し、播但連絡自動車道に乗り、北に向かいます。明日はずっと楽しみにしていた竹田城に登ってみる予定なので、何とか竹田城のある朝来まで進んでおきたいところ。朝来まで行き、今日の風呂は「奧香の湯」。風呂に入る前に、明日は冷えそうなので近くにあるビジネスホテルを予約しておきました。
大きな風呂に入り、ノンアルコールのビールを呑んで、早々に予約しておいたホテルに入ります。今でもかなり気温は下がってきているので明日はさぞかし冷える事でしょう。もしかしたら雲海に浮かぶ竹田城を見ることが出来るかもしれません。ホテルの自販機で買った日本酒を湯沸かしに入れ澗付けして呑んだら少しは暖まりました。
ホテルのWiFi にノートパソコンを繋げ、孫とのビデオチャットで気分転換。疲れもだいぶ溜まってきているようです。
そういえば、今日清水寺から一乗寺に向かう途中で写真のような碑をみました。「東経一三五度西へ150M」と書かれている大きなものでした。これは日本の標準時を定めた東経135度の線上に建っているものと思いましたが、よく読んでみるとどうやら、この碑から西へ150m行った所が正確な東経135度ということのようです。正確な位置でなくても道路の脇にどうしても持ってきたかったのでしょうが....さて、明日は早起きして日の出前に山の上に行かなければ!

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