2016年3月10日、8年ぶりの日本橋に立ち、同行5人の中山道ウォークがスタートしました。日本橋は東海道を歩いた8年前と変わる所はありませんでしたが、自分の周りはこの8年で大きく変わっています。何といっても8つも歳を取ったのですからこの差は凄いです。今回の5人の平均年齢は71.2歳で、これは東海道ウォーク時から較べると14歳も上になっています。自分も70歳過ぎた時、こんな気力が残っているのだろうか?と同行者4人の気力には脱帽です。
さぁ、日本橋を出発です。
日本橋 板橋宿 蕨宿 浦和宿 大宮宿 上尾宿 桶川宿 鴻巣宿 吹上宿

日本橋〜板橋宿

東京駅から八重洲口の地下街を東に行き地上に出ると日本橋はすぐ近くにありました。初代の日本橋は1603年に作られましたが、その後火災による焼失などで、何度も作り直されており、現在の日本橋は1911年に作られた19代目となる橋です。
日本橋のど真ん中には日本の国道の始終点の基準となる日本国道路元標が埋め込まれています。
以前、ここには東京市の道路元標がありましたが、これは東京都電本通線の架線柱としても使用されていました。しかし、都電廃止後1972年(昭和47年)の道路改修に伴い日本橋の北西側袂に移設され、東京市道路元標があった場所には、50cm四方の日本国道路元標が埋め込まれました。文字は佐藤栄作によるものです。
スタートの記念写真を撮り8:25 京の三条大橋を目指してスタートしました。
     いざ行かん一路京都へ中仙道  一秀
東海道のスタート日は日曜だったために、閑散とした銀座でしたが、今回はウィークデーと言うこともあり、大勢の通勤者で混雑していました。会社に急ぐ通勤者に混じり、リュックを背負ったおじーさん、おばーさん5人が街道を北に進みます。
神田駅を過ぎ、昌平橋で神田川を渡り湯島聖堂の裏手にある神田明神に寄り、京・三条大橋に無事到着出来ることを祈念しました。
湯島聖堂が湯島天神かと思っていたら、どうやら違うようで、湯島天神は神田明神のずっと北側にあるようでした。
本郷通りに戻り北に1キロほど進んだあたりから東大のキャンパスが1キロほど続きます。ここは元は加賀藩の江戸屋敷があった所で、当時の屋敷の面積は10万4千坪といい、これは東京ドーム7.3個分になりますから広大なお屋敷だった事が伺われます。屋敷の正門であった赤門は明治10年に東京大学に移管され、現在は国の重要文化財に指定される東大のシンボルとも言える門になっています。
    赤門や加賀の栄華と狭き門  一秀
暫くは17号線に沿って進みます。左手に八百屋於七の話で知られる圓乘寺があるはずなのですが、どうも見当たりません。マンションから出てきた若いおねぇさんに聞いたところ、どうやら行き過ぎてしまったようです。ここはどうしても寄ってみたかったので戻ってみました。それにしても年配の人なら兎も角、若いおねぇちゃんが知っているのは意外でした。於七は地元では結構知られている有名人のようです。
実は八百屋於七とは東海道を歩いた時から何かと縁があり、まず最初は東海道ウォークの初日、鈴ヶ森の刑場でした。鈴ヶ森の刑場で一番最初に処刑されたのが於七だったと云います。次は島田まで来た時、於七が惚れた相手、吉三郎の墓がありました。そして8年が過ぎ、中山道初日に今度は於七の墓です。於七とは何か不思議な縁があるようです。
    老いてなほお七の情念春の風  一秀
板橋宿に入る前に、おばぁーちゃんの原宿と言われる巣鴨を通過。ウィークデーで、おまけに天気もあまり良くない日というのに、結構な人出でした。天気の良い土日ならさぞかし混雑するのでしょう。


板橋宿〜蕨宿

巣鴨を過ぎ、埼京線の踏切を渡る手前で街道を外れ板橋駅の方に入っていくと駅前に新撰組の局長だった近藤勇の墓があります。慶応4年(1868年)4月25日、捕らえられていた新選組局長近藤勇は板橋宿の刑場で斬首され、首は京に運ばれて三条河原にさらされ、胴体はこの地に埋葬されたと言われています。この墓は明治9年(1876年)生き残った永倉新八らの尽力により、近藤、土方、新選組隊士の供養塔として建てられました。
東海道の岡崎ちかくにある宝蔵寺には近藤勇の首塚と言われる物がありました。
昭和33年、ここを彫ってみた所、墓碑の台座などが見つかり、この台座には土方歳三の名も刻まれていたと言います。京の町に晒されていた近藤の首を持ち去ったのは斉藤一と言われていますが、この首塚に本当に近藤の首が埋められたのかどうかは多くの疑問もあるようです。
江戸を出て最初の宿場となる板橋宿ですが、ここは上宿、仲宿、平尾宿の3つの宿場の総称が板橋宿となっていたようです。 再び街道に戻り、先に進みます。中山道が石神井川を渡る所に架けられた橋は板橋の地名の元になった板橋で、現在はコンクリート製ですが、一見木造に見えます。

暫く行くと道路の両側にある一里塚は「志村の一里塚」。ほぼ原型を残している一里塚で塚に植えられている木も「榎」です。よくもこれだけ立派な形で保存してきたものだと感心します。
志村の一里塚を過ぎると隅田川を渡り、その先の荒川を渡るといよいよ東京都を離れ、埼玉県に入ります。
スタートしてから約5時間が過ぎ、日本橋からの距離は約17キロになろうとしています。 早くホテルについてノンビリしたいものです。

蕨宿〜浦和宿

13:30 スタートから5時間経過し、荒川を越えました。この様子では今日は浦和駅がゴールとなりそうですが、でも浦和駅はまだ8Kmも先です。朝からずっと曇り空で何か気分的にも体が重くなってきてしまいます。やはり街道は青空の下で歩きたいものです。まぁ、雨が降ってこないだけまだましと言えばそうなのですが..... 靜岡は今日は雨のようでした。
さて、荒川を越えて東京から埼玉、蕨宿に入ります。
地名の由来については諸説あり、「藁火(わら-び)」説と「蕨」説に大別されるようです。蕨宿は江戸の手前の宿場であり戸田川が増水して川止めの時にはどうしてもこの宿に逗留せざるを得なくなり、そのため大いに賑わったといいます。
そろそろ4時になろうとする頃、浦和市内に入りました。どうやらこの辺りが初日のゴールのようです。それでも日本橋から24Km。よく歩きました。
     足は棒口では歩けぬ中仙道  一秀
浦和駅から大宮駅まで行き、駅前のホテルに今夜と明晩の連泊となります。この夜はホテル近くの中華屋さんでの食事になりましたが、その値段のあまりの安さにビックリ!生ビールの中ジョッキが310円とは!

浦和宿〜大宮宿〜上尾宿〜桶川宿

翌朝、大宮駅から昨日のゴールとなった浦和駅まで戻り、2日目のスタートです。ナント、今日は朝から雨模様。濡れるほどではありませんが、ポンチョを被っていると丁度良い暖かさです。これまで雨に遭うことはあまり無かったのですが、今回はどうやら初回から天気のツキは無かったようです。やはり天気が悪く灰色の空の下では気分もイマイチ乗りきれません。
スタートから4.5Kmほどで「さいたま新都心駅」。土地は存分にある所へ一から作ったような都市らしく、まさに新都心といった新しい街です。なにしろ全ての建造物が大きいのです。そんな中にイベントなどでよく登場する「さいたまスーパーアリーナ」もありました。そんな近代的な都市に驚きながら進むと、今度は趣のあるケヤキ並木が真っ直ぐに2000m先の氷川神社本殿まで伸びています。以前はこちらが中山道だったようですが、神の前を大勢の人が往来するのは神様に失礼にあたると言うことで、中山道はこの参道から別のルートに変更されています。それにしても見事な参道です。
     踏破期し氷川神社に詣でけり  一秀
この直後、緩い坂を下りる時に膝がピクリとしたかと思ったら、それが段々と痛くなって来ました。
コリャヤバイ!!
今まで膝を痛めた事など無かったのでこうした心配は全くしていなかったのですが、結構つらいものです。そんな訳で、2日目は鴻巣までは諦めて桶川までで良しとして貰いました。他の皆さんはもう少し進みたかったのでしょうが....
申し訳ない!!
ホテルに帰り風呂で揉んだり、鎮痛剤を貰って飲んだりもしましたが、余り変化はありません。夕飯に出かける頃には明日が心配になるほどの痛みになり
ウッソーーでしょ! 明日の朝、痛みが引いていますように.......!
でもあまり期待できそうも無いです。

桶川宿〜鴻巣宿〜吹上宿(間の宿)

さて、最終日は桶川から何処まで行けるのでしょう。膝の痛みは昨日のままです。コリャ大変だ!
桶川をスタートすれば最低でも5km先の北本駅までは行かなければ駅がありません。しかし、せっかく一泊して5Kmしか進まないのでは何の為の宿泊だったのかと言うことにもなります。やはり、ここは鴻巣、出来る事ならその先の吹上駅まで行きたいところです。
     雪枝ちゃん無口になってどうしたの  一秀
     鴻巣やはや町中が武者人形  一秀
取りあえずは鴻巣までを最低限の目標として桶川駅に荷物はすべて置いていき、身軽になって出発です。ここまで来ると少しは畑も出てきて、日本橋からは随分遠くまできたと実感します。やはり人間はこうした所で生きていかなくてはいつかどこかでおかしくなってしまうのでは?とそんな危惧さえ感じてしまいます。
膝の痛みもある程度まで行くとそれ以上は痛くならないようです。これなら騙し騙し吹上まで行けそうな感じです。
埼玉県に入って感じるのは歴史遺構の保存にあまり熱心でないと言うこと。急速な開発でそうしたものの保存が出来ぬままにこれまで来てしまったように感じます。急速な開発は全国どこでも同じようなものだったでしょう。東海道を歩いた時は、東京や神奈川県の街道にはそうした歴史遺産がしっかり保存整備されている事に驚きました。こうした事はその担当部署の意識の差というものでしょう。そういった視点で見ると、我が静岡市もお粗末そのものであまり他所の事は言えません。
鴻巣を過ぎ、約6Km先の吹上宿を目指してラストスパート、と言いたい所ですが、ヨタヨタ歩きではスピードも上がりません。でも、荷物を置いてきて良かったです。そのおかげで膝への負担はかなり軽減されているはず。吹上宿は鴻巣、熊谷間の距離が離れている為に後で出来た間の宿でした。
     三日目は口数程に歩は延びず  一秀
12:50 吹上駅に到着。今回のゴールです。ここから桶川に戻り、食事を摂っていれば、3:15の高崎線小田原行きの特別快速の発車時間には丁度いい頃になりそうです。在来線ではありますが、小田原まで乗り換え無しで約2時間。これなら新幹線とあまり時間が変わりませんでした。
中山道街道ウォーク初回の3日間が終わりました。初回で58Kmは立派です。3日間歩いても遠くからの遠征では60Km歩くのは思っているほど簡単な事ではありません。自分の故障がかなりブレーキになってしまったけど、それでも58Kmなのですから、自分でも精一杯ガンバッタのだと思います。さて、次は4月20日から22日。吹上駅から高崎の先まで。すでに高崎に宿は確保しました。
それまでに膝を完璧な状態にしておかねば!
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地図のファイルは圧縮したzipファイルです。ダウンロード完了と同時に解凍されて6枚のA4ファイルが展開されます。自動で解凍されない場合はダウンロードされた nakasenndo_2.zip をWクリックすれば解凍されると思います。一つのA4ファイルに2つの細長い地図が入っています。6枚で12の地図となり、印刷して切った地図を繋ぎ合わせれば 幅 8.6cm 長さ 3.5m 程の「吹上駅」から「安中宿」までの地図が完成します。スタート地点からの距離も書き入れてあります。

第2回予定


  清水 (6:21) → (6:32) 靜岡 (6:45) → (こだま702号)→ (8:00) 東京 (8:12) → (上野東京ライン・籠原行き 7番線 )→ (9:14) 吹上駅 (6,910円)