2016年4月20日、2回目となる旧中山道ウォークです。残念な事に今回は女性1名が膝の故障のために行けなくなり、4人の街道歩きになりました。自分はと言えば、前回の膝の痛みがまだ完璧にはなっておらず、不安を抱えてのスタート。取りあえず、前日には整形外科に行って注射を打って貰い、湿布薬も出して貰い、尚且つ、ドラッグストアで膝のサポーターまで購入し、万が一に備えましたが、こんなの気休め程度です。膝廻りの筋肉を鍛える運動も医者に言われる通りにやってはきましたが、所詮短期間でしたからそうそう期待できそうもありません。さて、どうなることやら....
吹上 熊谷 深谷 本庄 新町 倉賀野 高崎 板鼻 安中

1日目 吹上駅 〜 熊谷 〜 深谷

東海道線、高崎線と乗り継ぎ、9:14 前回のゴールとなった吹上駅に到着。
明日の天気は良くないようですが、今日は青空も広がり、それに今日のコースは車の往来も少ない所なので、気持ちのいい1日になりそうです。
渓斎英泉の版画によれば天気が良ければここから富士山が望めたようですが、残念な事に今日は春の薄霞。
今回も一秀翁に俳句、川柳? 短歌など添えて頂きました
  英泉の吹上富士は見えねども出立せんぞよ深谷の宿へ
吹上駅を出て、すぐにミスコース。えらい遠回りをして中山道に戻りました。吹上宿は、鴻巣宿と熊谷宿が離れていた為に、その間に設けられた間の宿で、69次には入っていません。30分ほど歩いて荒川の土手に出ました。この右手は行田市、ここは「のぼうの城」の舞台となった忍城のあったところです。あの話の中で石田三成が堰き止めた荒川は現在の荒川本流ではなく、今は元荒川と呼ばれている流れのようです。荒川は古来より何回も堤防の決壊による氾濫を起こしており、こうした事に関連する碑を幾つか見る事ができました。
青空の下で、気持ちよく北へ西へ進みます。
2時間ほど歩き、熊谷の市街地に入っていきます。時間もそろそろ昼飯時間。市街地を抜けてしまうと食事処があるのかどうかも分からないので、あるうちに食べてしまおうと、今回の第1回目の食事は熊谷市内の「餃子の王将」になりました。ビールを呑みたくなる所をグっと抑え、食事も済ませて12:10pm 再スタートです。
旧中山道は国道17号線に合流し、熊谷の中心部を抜けていきます。上熊谷駅入り口近くまで進むと、旧中山道はデパートの中に入り、この中を斜めに突っ切って反対側に抜けています。デパート側の好意なのか、両入り口にはしっかり「旧中山道碑」がありました。この熊谷は一ノ谷の合戦で平敦盛を討ち取った事でも知られる熊谷直実の生まれた地でもあります。熊谷駅前には直実の像があるようですが街道からは外れている為に見ることは出来ませんでした。江戸の時代には旅籠が42軒もあった大きな宿場でしたが、宿並は明治17年の大火、それに加えて昭和20年8月14日、終戦前夜の大空襲で焼失してしまい、その為に古い町並みは殆ど残っていないようです。このまま暫くは17号線を進み、熊谷警察署を過ぎたあたりで国道と別れ旧道に入ると右手に「新島の一里塚」。伝馬制が敷かれ一里塚が作られた時に植えられた木は榎木だったはずなのですがこの一里塚に残っている巨木はケヤキでした。これだけの太さならばその当時に植えられた木なのでしょうが、何故ケヤキなのか?
この欅の木もかなり傷んできており、この先そんなに長い間生き続けるのは難しそうでした。
この辺りまで来ると、今まではあまり見ることの無かった庚申塚や石造りの常夜灯がが目につくようになってきました。
ここから1時間ほど歩いて籠原の駅を通過。今日のゴールとなる深谷駅は籠原の次の駅ですからあと僅かのはずです。ところが深谷駅に着いたのはこれから1時間後。ゴール間近になると、体も疲れているので予定通りには体が動いてくれないのです。
  蒔坂の殿も食せし深谷葱
深谷の駅近くで目立つようになるのは古い赤煉瓦を使った建物や壁。
養蚕しかなかった深谷に煉瓦造りを興したのはあの渋沢栄一です。かれは深谷の超有名人で深谷の駅前には彼の像が建っています。街道を離れ狭い小路を深谷駅の方に入っていくと正面には東京駅そっくりの深谷駅がありました。東京駅は深谷の赤レンガを使って作られた事に因み、深谷駅も東京駅を模したミニ東京駅となったようです。しかし東京駅に使われた深谷の赤レンガは構造材として使われているため、残念な事に外からは見えないのだそうです。
   でもこの深谷駅、外からは想像できないほど中はチープなのです。何ーーーんにもないのです。
さて、深谷駅から今日の宿のある高崎駅に向かいます。
  飯盛の居ずとも楽し深谷宿
吹上駅 中山道 間の宿の碑
権八延命地蔵 荒川土手をいく
久下の渡し 冠水橋跡碑 中山道はデパートの中を行く 
新島の一里塚 見事な土塀
常夜灯 赤レンガ造りの深谷駅

2日目 深谷〜本庄〜新町〜倉賀野

2日目の朝。窓の外を見ると今にも雨の降り出しそうな天気です。どうやら雨は覚悟しておいた方が良さそうです。でも、今夜もこのホテルに連泊なので、必要ない荷物は部屋に置いていく事が出来、荷物はかなり軽くなっているはず。
昨日のゴールとなった深谷駅まで戻り、雨具だけ入ったリュックを背負って 8:15AM 2日目のスタートです。今日の予定はは倉賀野宿までの26キロで、これまでに無く、長丁場の一日です。雨が降ってくる前に少しでも先に進んでおこうと皆さん結構頑張って歩きました。
自分はいつ膝が痛み出すかと、恐る恐る、十分気をつけて歩いたいたはずなのですが、数キロ歩いたあたりから少し膝に痛みを感じるようになってきました
ギョ、ギョッ! また前回と同じじゃないか。痛み出したのも初日から二十数キロ歩いたあたりと、やはり前回と同じくらいの距離を歩いた頃です。
こうなると、何とか最終地点までは持たせなくては!と必死です。時々立ち止まってはストレッチ運動をやって最期までもつようにと必死。こうした事が少しは効いているのか、前回の痛みほどにはならずある程度以上には酷くならずにすんでいました。
深谷は熊谷と違い、昔ながらの建物もけっこう残っています。やはり旧街道を歩くからには廻りの景色もそれなりの街道であって欲しいです。深谷から本庄に入り岡部の「島護産泰神社」で千葉から日帰りで中山道を歩いているというグループに会いました。こちらの神社は利根川氾濫鎮護の神、また安産の神でもあり、この時には底の抜けた柄杓が奉納するのだそうですが、はて、何故に底の抜けた柄杓?船の安全祈願で船幽霊対策として底の抜けた柄杓をひとつ船に積んでおく話はありますが、安産と底の抜けた柄杓の関わりがどうも分かりません。
皇女和宮も降嫁の際、ここに参拝しているようです。
中山道は和宮降嫁に関わる話が多く各地に残っています。驚くのはその行列の規模で京都方1万人、幕府方1万6千人、その他荷物持ちなどを入れ、3万人規模の行列だったと言います。この行列の長さは50キロにもなったと言いますから、大変な数なのですが、一番苦労したのは助郷制度により駆り出されたその土地の農民だった訳で、彼らにしてみれば随分とはた迷惑な行列だった事でしょう。この一行は旧暦の10月21日に京を出発し、江戸到着は11月15日と、24日掛けて歩いています。この間の宿や食料などはどのようにしていたのか?興味深い話です。
  削ぎ足りぬその3キロが足にきて
ここから少し進むと渡るのが小山川に架かる滝岡橋。この橋は昭和3年に竣工した鋼製八連橋で国登録有形文化財となっています。親柱には以前は明かりが付いていたと思われます。渡っていると一見石造りに思えますが、この下は鋼製となっていました。
本庄宿を抜け神流川を渡って新町宿に入ります。この辺りが信長家臣の瀧川一益と北条氏が戦った古戦場になります。この戦いで瀧川軍は戦死者3,760名を出し、敗退しました。
この先の八坂神社の鳥居脇には芭蕉の句碑
      「傘におしわけ見たる柳かな 芭蕉」
午後2時を過ぎた頃から雨が降ってきました。でも、倉賀野まではもう少し。ここまで降らずに居てくれたことに感謝です。いよいよ雨具を着込み、この先で街道は烏川の土手を進みます。このあたりはハナミズキの植栽が多く、一般家庭の庭も道路の並木もハナミズキだらけ。この時期ハナミズキは満開を迎え、綺麗です。県木がハナミズキなのかと思いましたが、そうではないようで、埼玉県の県木はケヤキでした。雨の新町宿を抜け、いよいよ今日のゴールの倉賀野駅です。
  雨を突きうつけの4人倉賀野へ
16:30pm 満開のハナミズキに迎えられ倉賀野駅にゴーーーール!!!!
深谷ー倉賀野間、26キロ、何とか完歩です。
  千代ちゃんや天晴れ5万歩ちょ子ちょ子と
渋沢栄一像(深谷駅前) 古い家並み
酒醸造 普済寺 参道
深谷宿 岡部 滝岡橋
本庄宿 本庄宿
復元された見透燈籠(新町宿) 烏川土手道(新町宿)

3日目 倉賀野〜高崎〜板鼻〜安中

昨夜もしっかりホテル近くの居酒屋で呑んでしまいました。
一夜明け、3日目の朝オオオーーー!いい天気!!
青空が広がっています。
    春暁や高崎観音日を返す
高崎駅のロッカーに荷物は預け、昨日のゴールの倉賀野へ昨日と同じ電車で戻ります。たった一駅間ですが、この間の距離は結構あります。駅近くにあった、満開のハナミズキに送られて、3日目のスタート。膝の痛みはありません。
まずは、今朝、電車に乗った高崎を目指しますが、この間は4.6キロ。手ぶらのために歩くスピードが上がっているので、1時間ほどで高崎駅前の通りまで来てしまいました。駅の手前にはお世話になったワシントンプラザホテルが見えます。
天気がいいのは有り難いのですが、それだけに暑い!でもまぁ、贅沢はいえません。雨が降っているより暑くても青空の方がどれほど気持ちいいことか!
高崎には元々和田城がありましたが、この場所に家康の命をうけ高崎城を築城したのは井伊直政。かつては遠江国井伊谷を支配していたあの井伊氏ですから静岡県とも多少の縁があるのです。築城の後、井伊直政は初代城主になり、高崎の地名も直政によって付けられたと伝えられます。
高崎の市街地を抜け、烏川に架かる「君が代橋」を渡ります。この君が代橋という名は,明治11年9月、明治天皇が北陸東海御行幸のとき,馬車で木橋を渡られたことを記念して命名されたといいます。
板鼻宿に入ると、左手に飯野茶屋本陣跡がありました。跡となっていますが、ある程度の建物を残しており、入館無料となっていたので入ってみました。茶屋本陣というのは宿場にある本陣とは違い、高貴な人達のための単なる休憩所だったようです。案内のおねぇさんがいろいろと説明してくれて興味深かったのですが、逆に教えて欲しいと聞かれる場面もあり、同行のSさんが教えてやったところ、これから見学の人達に正確な説明が出来ると、随分と喜んでいました。
    昔日の風情を止む茶屋本陣
茶屋本陣から少し進むと国道18号線に合流します。その先にダルマ屋さんがあり、横にはダルマを作る工場もありました。、高崎では年間170万個が生産され、全国シェアは80%にもなるといいます。顔に亀と鶴の縁起のいい動物を書き込んであるのが高崎ダルマの特徴なのだそうですが、そう言われても亀も鶴もよくわかりません。
    高崎の達磨に託すこの道中
途中で変わったおじさんに掴まりトコロテンを食べるはめに。暑い時のトコロテンはおいしいのですが、このおじさん、やたらと自分のトコロテン自慢をするのです。何か変わったおじさんでした。この店の横にある公民館の裏に「月の宮」と呼ばれる祠があります。元々この公民館の地には板鼻宿の木島本陣があった事から、和宮の宿泊した建物を資料館として公開していました。
この裏にあるのが「月の宮」なのですが、ナントこれは和宮がこの本陣で初潮を迎え、この始末をしたものをここに埋めたのだそうです。土地の人達は高貴な人のものなのだと、ここに祠を作って祀り、これが月の宮と呼ばれるようになったとか。この板鼻宿と安中宿の間には碓氷川が流れていて、時々増水で川留めになることもあり、旅籠の数も54軒と大変多かったのだそうです。旅籠があればそこには飯盛女も付きもので、幕府公認の飯盛女は1軒の旅籠に二人、公認の飯盛女だけでも110人ほど居た事になります。非公認もいた事でしょうからかなりの数になって居た事と考えられます。この春を売って生活をしている人達にとって一番恐いのは仕事が出来なくなってしまう妊娠です。そんな彼女たちが願ったのは生理があることだったのです。こうした女性がこの月の宮を参拝し、妊娠の回避を願ったと言うのですから、あの世の和宮はどんな思いでいるのでしょうか。
公民館の館長さんがそのような説明を詳しくしてくれました。
    板鼻の本陣跡に千代ちゃんや何を思いて頭垂るらむ
安中駅の裏手の山は、斜面一面に東邦亜鉛の工場群です。あまり綺麗な光景ではありません。   12:40 安中駅ゴーーール!!
    妙義山間近に仰ぎ安中へ
高崎駅前通り 蔵造りの商家
天守閣の民家 飯野茶屋本陣
高崎だるま だるま屋さんの前で
妙義山が見えてきました 月の宮
公害問題で知られる東邦亜鉛 ゴールの安中駅
中山道街道ウォーク2回目の3日間が終わりました。今回は初回の58キロを越えて3日間で61キロです。遠くになりスタート時間も遅くなっているのにこれは立派!
3日目に膝の痛みが全く出なかったのは助かりました。それ以来今まで痛み無しです。これで治ってくれることを祈っています。
これで日本橋から約120キロ。中山道の地理的なものがイマイチはっきりしないので距離感が湧きませんが、東海道ならそろそろ沼津に届こうとする距離です。そう思うとかなり歩いています。                          

第3回予定

 
  清水 (6:21) → (6:32) 靜岡 (6:45) → (こだま702号)→ (7:52) 品川 (8:15) → (JR快速アーバン 高崎行き 15番線 )→ (10:12) 高崎 (10:19) → (10:32) 安中
     (7,880円)
第3回(安中ー岩村田)の地図ダウンロード
zip圧縮されたファイルです。ダウンロードして解凍されると10枚の地図が展開されます。今回10枚の地図の縮尺スケールは揃えましたが、地図の大きさはまちまちです。適当に切って下さい。