昨年3月日本橋をスタートし、是までに10回、日数にして28日が経過しています。スタートした時には西方遙か遠くに思えたゴールの三条大橋でしたが、ここまで来てみると意外に簡単に進んできてしまえたような気がします。
実際には初回から膝を痛め、泣きたい思いで歩いた雨の大宮、暑い思いをして越えた和田峠や塩尻峠、雨の中の奈良井宿、倉賀野宿、等々、苦労もあありましたが、それを感じもせずに楽しく道中を進んでこれたのも、同行二人ならぬ同行四人が居てくれたからなのでしょう。
車で通り抜ければ1日で事足りる旅程に30日という時間を掛け、旅費を掛け歩き抜くという事は考えてみれば今の時代一番の贅沢な旅なのでしょう。
三条大橋にゴールして一つの目標が消えてしまいました。次の目標を定めなくては!
草津(草津本陣) 大津(月心寺走井) 三条大橋

1日目 草津 〜 大津   15.1Km

いよいよ最終回の中山道てくてく歩き旅です。
車で大津まで行くと帰りが遠くなり厄介なので、彦根に3日間駐めることにしました。彦根駅前には静岡とも縁のある「井伊直政」の像が建てられています。彦根から草津までJRで行き、7:50am 29日目のスタートです。天井川となっている草津川を越えると東海道と合流する草津の追分、その先には草津本陣があります。この本陣は当時のまま、完全な形で残されている貴重な建物です。ここは東海道の時には時間がなく入れなかったので、是非とも寄ってみたかった所でした。建物の敷地面積は約4,800平方メートルといいますからかなりのもの。まだ朝早く時間もあるので、ゆっくりと見る事が出来ました。
   大名の 往時偲ばむ本陣に   一秀
本陣を過ぎると瀬田まではあまり大したものもなく、それに交通量の多い賑やかな通りを歩かされ、あまり快適な街道ウォークというわけにも行きません。
草津から3時間ほどで瀬田に到着。瀬田川に架かる唐橋は古代より、瀬田を制する者は天下を制すると言われたほどの戦略上の要衝で、壬申の乱、寿永の乱、承久の乱、建武の乱など唐橋を舞台として大きな戦いが繰り返されてきました。
唐橋の架かる瀬田川は琵琶湖から流れ出る只1本の川となっています。
   戦乱の舞台となりし唐橋に
       今日の旅路の何と長閑ぞ 一秀

唐橋を渡り石山の賑やかな通りに出てまずは昼飯です。丁度いい所に手頃な店があったのでここでいつものようにビール付きの昼となりました。このまま進んでしまうと大津のホテル着が早すぎてしまうので膳所城址を廻ってみました。膳所城は琵琶湖(瀬田川)に張り出した部分(かつては陸から離れていたようです)に作られた日本三大湖城の一つに数えられる城。明治まで生き残りましたが廃城令により取り壊され、現在は公園として整備され市民の憩いの場となっています。
湖岸に出てみると目の前には近江大橋、その遙か向こうには近江のランドマークとも言える近江富士(三上山)が見えています。この間までは西に見えていた近江富士も今は遙か東に見えているのですから、歩いてきた道のりに我ながら驚きます。再び街道に戻り和田神社を参拝。本殿は国指定の重要文化財になっている程の檜皮葺の立派な建物ですが、それ以上に興味を惹くのは境内にある大銀杏です。樹齢600年から650年にもなるこの銀杏の木に、関ヶ原合戦で敗れ、捕らえられた石田三成が京都に護送中に一時繋がれた、という伝説が残されています。
そろそろホテルに向かってもいい時間ですが、もう一つどうしても寄っていかなければならない所が「義仲寺」。同行の3人は昨年秋に来ていますが、ふたりは初めてと言う事なので、自分にとっては3度目となる義仲寺です。義仲寺は字の如く、木曽義仲の墓のある寺です。平家討伐の兵を挙げて都に入り、帰りに源頼朝軍に追われてこの地で壮烈な最期を遂げた義仲の菩提を弔うべく、側室の巴御前が尼僧となりここに草庵を設け供養したのが始まりと伝えられています。それより何よりこの寺が知られているのは松尾芭蕉の墓のある事で、俳句を嗜む芭蕉ファンにとっては聖地ともいえる寺です。芭蕉は木曽義仲の生き方に憧れていたそうで、生前より自分の墓は義仲の墓と隣り合わせて建てて欲しいと話していたといいます。芭蕉の遺志通りに、亡くなった大阪の去来の家よりその日のうちに船で運ばれここに葬られました。
  旅に病んで 夢は枯野をかけ廻る   芭蕉
    木曽殿と 背中合せの寒さかな   島崎又玄

境内にある翁堂には伊藤若冲の描いた天井画15枚12種類があります。
今でこそ前にはビルが建ち並び琵琶湖は望む事も出来ませんが、1960年代までは琵琶湖岸まで何もなく、砂浜が続いていたといいます。芭蕉もここからの景色がいたく気に入っていたといい,生前には何度も訪れて境内にある無名庵に滞在していたと伝えられています。
   春寒や 芭蕉の墓前に額ずきて   一秀
さて、これで今日の予定は終わり、ホテルにチェックインしてもいい時間です。
草津追分 草津本陣
弁天池 瀬田唐橋
膳所城址 近江大橋と近江富士
和田神社の大銀杏 義仲寺 芭蕉の墓
義仲寺 義仲の墓 大津駅とホテルテトラ


2日目 大津 〜 三条大橋   10.7Km   ゴール後、京都御苑 知恩院 円山公園 八坂神社

いよいよ今日は三条大橋ゴールの日。三条大橋では仲間数人が出迎えてくれるようなので出発前から楽しみです。でも、大津から三条大橋まではさほどの距離もないのでこちらで時間を調節しないと自分たちが待つ羽目になります。
まずは朝一から逢坂の登りです。
   京都へと 越えし逢坂初音かな   一秀
東海道の時はもっと急な坂だったような気がしますが、こんなものだったのかと予想外。多分今回はまだスタートしたばかりで体力に余裕もあったからなのでしょう。苦労もなく逢坂を登り切るといい匂いがしてきました。錦糸丼で知られる店「かねよ」でウナギを焼く煙の匂いでした。辺りには煙がたちこめ、蒲焼きの匂いで腹もたまりそうです。下りきって再び国道と合流し、しばらく進むと左に月心寺があります。かつては東海道随一の賑わいをしていた追分の地で繁昌していた走井茶屋の跡で、境内には今も枯れることなく走井の名水が湧き出ています。当時は左右に山が迫る狭い土地に店が建ち並び、大津絵、大津算盤、縫い針などの大津の特産品を商いする店や茶屋がひしめき合っていたといいますが、今ではその面影すらありません。
国道を北側に渡り、山科の賑やかな通りを進むと、右手に山科駅。この調子で進むと何処かで時間を調節しなければこちらが待つ事になりそうです。少し街道からは外れますが、山科駅の西側には天智天皇陵があるので、行ってみました。こんな時でもなければこれから先見る事などないでしょう。
関ヶ原あたりから壬申の乱に纏わる史跡が数多く残されていましたが、その災いの元を作ったのはこの陵に眠る天智天皇でした。弟の大海人皇子(後の天武天皇)と天智天皇の皇子である大友皇子との身内同士の間に起きた古代史上最大の戦(壬申の乱)が繰り広げられたのが美濃から近江かけての一帯でした。
遙拝所まで行って、はて?と迷ったのが拝礼の仕方です。天皇は神なのだから(実際に鳥居がある)二礼二拍一拝でいいのか、墓なのだから寺の式でいいのか?
神社式で拝礼しましたが、後から来たおじさんに聞いたところ、やはり神さんなのだから二礼二拍一拝で良かったようです。
街道に戻り、街道最後の坂道となる日ノ岡峠を越え再び国道に合流したところに置かれているのが車石。これは現代の鉄道の鉄のレールの代わりに、溝を掘った石を並べ、これを荷車の軌道として使ったもののようです。石の上を行けば荷車がぬかるみにはまる事もなかったのでしょう。
ここからは蹴上に向け一気に下ります。蹴上まで行くとその人の数にビックリ!南禅寺やインクラインの桜はまだ蕾で咲いていませんが、やはりツアーでは変更も出来ないのでしょう、南禅寺の駐車場には大型バスが一杯。そのバスで運ばれてきた観光客が道路に溢れていました。そろそろ昼飯を食べておかないと、ゴール後に食べている時間もなくなります。しかし、この観光客で溢れている状態で空いている店なんてあるのか?偶然にも狭い小路の先にウドンと蕎麦の店を見つけ、行ってみたところ10分後に開店のようです。店の前で待つ事10分。その間にもお客さんが集まり、開店した時には即満席になりました。
   風なくば 退屈そうな青柳   一秀
しっかりビールも飲み、ゴールの三条大橋を目指します。ここからは2キロもありませんから、途中で柳並木が綺麗な白川に入り込んだり、骨董屋に立ち寄ったり、龍馬とおりょうの結婚式場跡の碑を探したりと、ノンビリ進み、待ち合わせの少し前の12:54
  三条大橋にゴール!
  街道歩きで出迎えのあるゴールは初めてです。感激!!

日本橋スタートから30日目、総距離約548キロを完歩です。総時間はどれくらいになるのかと大雑把な計算をしてみたら、500時間から530時間くらいになりそうです。そのうちにGPSのログから正確な所要時間をだしてみようと思います。
  一抹の寂しさ有りし京三条
       友の出迎え嬉しき完歩   一秀

出迎えに来てくれていた人達も交え、記念写真をとり、一緒に京都御苑の桜を見に行ってみました。異常なほど遅れている京都の桜なのですが、どうやら今咲いている桜は御苑の近衛邸跡の垂れ桜か醍醐寺の垂れ桜しか無いようです。折角サクラの時期に合わせてゴールしたのに、サクラ無しで帰るわけにもいきません。有り難いことに、京都御苑のサクラは綺麗に咲いていてくれました。ここに来てようやくです。
この後は出迎え組と別れ、地下鉄で東山まで行き、知恩院、円山公園、八坂神社などと見て回り、ホテルへ戻りました。
この夜の反省会が盛り上がったのは言うまでもありません。明日が心配です。
逢坂 天智天皇陵
石車 インクライン
白川 三条大橋
京都御苑 近衛邸 京都御苑
京都御苑 知恩院  梵鐘
円山公園 八坂神社


3日目 船で行く琵琶湖疎水 毘沙門堂 醍醐寺 

ゴールの翌日、今日は朝から楽しみにしていた琵琶湖疎水クルーズです。満開の桜のトンネルを船で行く筈でしたが、残念ながら予想外のサクラの遅れで、蕾のサクラの下を行く事になってしまいました。それでも、なかなか乗る事の出来ない琵琶湖疎水の船旅ですから楽しみです。
大津駅のコインロッカーに荷物を入れ、身軽になって3日目のスタートです。
指定された集合場所に行くとそこは疎水の取水口。事務所内で説明を受けた後、船に乗り込みイザ出発です。今回予約が取れたのは蹴上までのフルコースではなく、山科までの半分のコースです。距離にして4キロちょっとですが、そのうちの半分以上はトンネルの中です。スタートしてすぐに入る第一トンネルは2000mオーバー。かなり長く、おまけに寒いです。トンネルから出ると両岸は桜並木。でもやはり蕾のサクラです。船から見る景色は何処もあーーー、サクラが咲いていたらサイコーの景色!と思えるような光景ばかり。
   観桜や 琵琶湖疏水に 舟で出づ   一秀
是非とも、もう一度サクラの満開の時にトライしたいものです。船旅は25分程で山科に到着。この代金の中には山科の毘沙門堂の拝観料も含まれていると聞き、毘沙門堂に行ってみました。以前、秋に紅葉の見事な毘沙門堂には来た事がありましたが、春は初めてです。本堂前の垂れ桜がよく知られていますが、やはりこれもまだ蕾の状態でした。でも、船のツアーの拝観者には住職の説明が付いてくれるようで、堂内を細かく説明してもらい、思っていた以上に良かったです。
山科駅まで戻る途中に瑞光院というお寺があり、ここは赤穂藩主浅野内匠頭の妻遥泉院の縁故により浅野家の菩提寺になっています。境内には内匠頭の供養塔、義士の遺書、遺髪を埋めた遺髪塚、義士の墓、内蔵助の歌碑等があるようでした。そういえば忠臣蔵の話の中で、大石内蔵助が周りを騙すために遊びほうけていたのは山科でしたね。内蔵助は赤穂の家を処分してここ山科に自宅を新築したといいます。
山科駅から地下鉄で醍醐まで行き、醍醐寺に行ってみました。醍醐寺のサクラは毎年早いので、遅れている今年もそこそこ咲いているようです。三宝院まえの「太閤桜」はほぼ満開。淡いピンクの桜が綺麗です。それだけに観光客の数ももの凄く、それに加えて何かの新興宗教の会員が全国から集まっているらしく、境内全体がもの凄い人で溢れていました。
   醍醐寺や 乱舞の如き 糸桜   一秀
いつもなら別々に買う事の出来る拝観券なのですが、何故か今回は三宝院、仁王門から先、霊宝館の3つの共通券しかなく、そのお値段も1500円とお高め。お寺もしっかりしています。でも、秀吉が花見を行ったというだけあり、醍醐寺の桜は見事です。まだ完全に咲きそろっている訳ではありませんが、それでも綺麗です。今までに何回か桜シーズンの醍醐寺は訪れていますが、いつも遅いか、早いで、丁度いい時期にはまった事がありません。しかし、醍醐寺の桜を代表する主な「太閤桜」と霊宝館の桜が丁度良かったのですから、まぁ、良しとしましょう。
醍醐の駅から再び地下鉄で山科駅まで行き、そこからはJRで大津駅まで行って、ロッカーから荷物を出して再びJRで車の置いてある彦根まで戻りました。
駐車場から出そうとすると、精算機をなにやら修理中のようです。支払いして出ようとしたら、いいから行ってといいます。 桜のツキが無かった見返りは3日分の駐車料がタダになった事で報われました......
琵琶湖疏水 第一トンネル 琵琶湖疏水(山科)
毘沙門堂 醍醐寺 仁王門
太閤桜 不動堂
弁天堂前 霊宝館の桜


醍醐寺 三宝院庭園
これで1年続いた中山道歩きも完了です。今まで三条大橋に到着する事を目標に歩いて来たその目標が消えてしまうとつまらないものです。以前、どこかのホームページで、終わりにならないように、三条大橋の手前で止めて、未だにゴールはしていないという人がいると聞きました。せっかく三条大橋を目指してきたのですから、やはりゴールはさせないと歩いてきた意味もありません。取りあえずはゴールで中山道は完結させて、また何か新しい目標を作らないとつまらない日々になってしまいそうです。まずは6月の「山辺の道」南北通しで大神神社から新薬師寺までの古代の道ウォークです。