日野宿〜与瀬宿

8月は夏休みで休んだ甲州道中も9月には再開し、9月20日、前回のゴール地であった日野宿(日野駅)から与瀬宿(相模湖駅)まで進めました。今回はそこから先に進む訳にもいかないので日帰りとし、約24Km先の与瀬宿まで進んでゴールとしましたが、ゴール手前には難所の小仏峠もあり、思っていた以上に大変な第2回目となりました。日本橋からずっと旧街道の面影など感じられない街道歩きでしたが、八王子を過ぎ、ようやく旧街道の雰囲気も出てきました。



日野駅 〜 相模湖駅  2017.9.20

JR日野駅

前回と同じように高尾駅に車を駐め、JRで日野駅まで行き、 7:40am 第2回目甲州道中てくてく旅のスタートです。天気はハッキリしなく、雨が降り出しそうな気配ですが、まぁ、暫くは持ちこたえてくれるでしょう。スタートして直後に緩い登り坂になります。朝いち、まだ体が慣れていない状態ではこの坂道でさえ息切れしてしまいました。

日野自動車

日野は日野自動車の本拠地。工場の面積は途方もなく広く、本社と工場を併せた面積は実に43万㎡もあり、このうち30万㎡が工場敷地といいます。ところが、日野自動車では2020年までにこの工場部門を完全閉鎖する予定で、この広大な跡地がどうなるのか?日野市にとっても大きな問題となっているようです。
商敵も 最早懐かし日野工場 一秀

銀杏並木

八王子市に近づいていくと銀杏並木が見え始めます。古い銀杏並木はまだ先の方ですからこれは後年植えられたものなのでしょう。しかし、秋の紅葉の終わった後の落葉は市で片づけているのでしょうがさぞかし大変な事なのでしょう。

銀杏の 熟れし並木や延延と 一秀

銀杏

銀杏の木ですからやはり実も成ります。頭上を見ると枝に銀杏の実が一杯着いていて、この下の歩道には潰れた実が落ちています。銀杏の木が無いような所では拾う人も居るのでしょうが、八王子市民はどうなのでしょう?
銀杏の実は、あの匂いが!!

大和田橋

八王子の市街地に入る手前で浅川に架かる大和田橋を渡ります。八王子は太平洋戦争終結の13日前の昭和20年8月2日未明に大空襲を受け、約450名が死没、2,000余名が負傷し、旧市街地の約80%の家屋が焼失する被害を受けました。その時の焼夷弾痕が橋の歩道に残されています。
大和田橋 焼夷弾痕後世へ 一秀

新町竹の鼻一里塚跡

江戸から12里目の一里塚の跡になります。明治30年の八王子大火で焼かれるまでは大榎公園の片隅にあったこの一里塚も涼しい木陰をつくり、往時をしのばせていたといいます。日本橋からここまで、形の残っている一里塚は有りませんでした。

八王子宿

八王子宿は横山宿、八日市宿、八幡宿で構成され、総称して八王子宿と呼ばれていました。
写真の建物はこんにゃく、寒天の製造販売の中野屋商店で操業は明治期といいます。「こんにゃく」と書かれたのれんは掛かっていましたが、開いているのか?

追分交差点

陣馬街道との追分です。真っ直ぐに行けば和田峠を経て相模原に抜ける陣馬街道。陣馬街道に入って、すぐの所に、かつて千人同心が住んでいた屋敷跡の碑が詳しい説明看板と共に建てられています。

銀杏並木

前の写真と同じ歩道橋の上から撮った、こちらは甲州道中。八王子の銀杏並木は昭和4年、大正天皇陵が造られた時、記念に植えられたもので、この追分交差点から高尾駅前にかけて続く、763本の銀杏並木になっています。

千人同心屋敷跡の碑

天正10年、武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗れ、これにより武田氏は滅亡しました。この主君を失った武田家臣を受け入れたのが徳川家康でした。家康はこの武田家臣に甲州道中の西の守りを任せ、千人同心と名付け八王子に常駐させました。万が一の時の徳川将軍の甲府への避難路としての甲州道中の警護も受け持っていたといいます。その千人同心の屋敷があったのがこの辺りだったようで、町名も千人町となっています。

追分道標

幾つにも折れてしまった道標がなんとも痛ましい姿で建っています。この道標は八王子空襲の時に4つに折れてしまい、一番下の部分だけこの場所に置かれ、残りは郷土資料館に置かれていました。このバラバラになった道標は平成15年になり地元の要望を受け、修復されこの地に建てられたものです。4つに分かれた道標の一番下と下から三番目は元々の道標で、それ以外は新たに制作されたようです。

銀杏並木

追分から始まる昭和4年に植えられた銀杏は見事な銀杏並木になっています。それとも植え替えられたものなのでしょうか。道標が折れてしまっているくらいですから、この辺りも火に包まれたと考えられますが、どうなんでしょう?
市の天然記念物に指定されているという事は昭和4年に植えられたオリジナルの銀杏?いずれにしても見事な銀杏並木が延々と続きます。          

武蔵陵墓地

昭和天皇陵が造営されるまでは多摩御陵と呼ばれていたので、これが今でも通称として使われています。大正天皇陵・貞明皇后陵・昭和天皇陵・香淳皇后陵の4陵が造営されています。
陵域の面積は約47万平方メートルあり、陵の形態は上部2段・下部3段の上円下方墳。上円は直径15メートルで高さは10.5メートルあり、一番下部の段は一辺27メートルの正方形で多摩川の石が葺き石として用いられており、南面は前方部の形をとっているので前方後円墳のような形をしています。これは奈良県桜井市の伝舒明陵古墳の形状に酷似しています。

ようやく昼食

高尾駅を過ぎてしまうと食事処は無さそうなので、この辺りで何とかしておかないと相模湖まで空腹状態で歩かなければならなくなってしまいそうです。しかしまだ時間も11時前。開いている店もあまり有りそうもない時間帯。いよいよになったらコンビニ弁当になりますが、そのコンビニでさえ見つかりません。高尾駅の近くまで来てしまい、少々焦りも出てきた頃、ようやくラーメン屋がありました。しかし開店まではまだ20分程あります。交渉の末、店には入れて貰い待つ事にし、それまでビールで疲れを癒やす事に......。ここのラーメン、美味しかったです。

高尾駅

ようやく朝車を駐めた高尾駅まで戻ってきました。ここまでで今日の行程の丁度半分くらいの距離ですから、まだまだ先は長いです。ここまではほぼ平坦でしたが、高尾から少しづつ標高は上がっていきます。急な坂道と言うわけではありませんが、最後には急登の小仏峠が控えていますから、後半の12Kmは結構キツそうです。高尾を過ぎ、小仏宿までは王子バスが走っているようですが、そこを過ぎると交通機関は無くなりますから、峠を越えて相模湖駅まで進むしかなくなります。中山道の時と違い帰りも1時間半あれば清水ですから少しは気が楽です。因みに高尾という宿場はありません。

高尾駒木野庭園

高尾を過ぎて街道脇に「高尾駒木野庭園」無料。とありました。タダなら見ていこうと入ってみたら、これがなかなかの庭園でした。どういうものなのかと聞こうにも、係の人も丁度居なくて、さっぱり訳が解りません。どうやら、となりにある病院の院長先生宅だった屋敷を開放しているようです。それにしても立派な庭園と、盆栽、植木。自分に盆栽は分かりませんが、これはかなり高価なものなのだそうです。入口の門も簡単だったから、盗難に遭わないのかと、少し心配にもなります。

小仏関跡

小仏関は江戸時代には甲州道中で最も堅固な関所としてしられていました。元々は北条氏照が武蔵国と相模国境の要衝として小仏峠の頂上に築いたものでしたが、その後徳川家康によって、現在地に移設され整備されたといわれています。全国の関所は、明治2年(1869年)に廃止されます。小仏関も例外ではなく、建物は取り壊されてしまいました。現在は建物の前にあった、通行人が手形を置いた手形石と吟味を待っている間に手をついていた手付石が残っています。
(国史跡)

駒木野宿

小仏関跡碑を過ぎたあたりがかつての駒木野宿ですが、古民家などが残っている事も無く、往時の面影を感じるものは殆どありません。
この碑の先で街道は緩い下り坂になり、そこに数体の地蔵と「甲州街道念珠坂碑」があります。今は緩い坂道ですが、かつては大変な急坂であったため念仏を唱えながら登った、ので念珠坂なのだとか。

秋の気配

9月も中旬を過ぎたばかりで、まだ秋の気配は感じられない街道沿いの集落ですが、そんな中にも僅かばかりの秋の気配も見つかります。時々出会うリュックを背負った皆さんも、甲州道中を歩いている訳では無く、高尾山からの縦走組のようです。あと一月もすればこの辺りにも高尾山からのハイキング客が大勢歩くようになるのかもしれません。

小仏宿

このレンガつくりのトンネルは中央線のガード。よく見ると拡幅された跡が無いのです。ここに鉄道が敷かれたのは明治34年の事。その時から複線化の予定が組み込まれていたという事でしょうか。この区間が複線化されたのはそれから60年後の昭和39年の事でした。
このトンネルを過ぎた辺りが小仏宿。小仏宿はこの前の駒木野宿よりも小さく、本陣はありませんでした。今は宿場の面影も無く僅か数件ばかりの民家があるだけです。

小仏バス停

集落を抜けて少し行けばそこが小仏のバス停で、王子バスがくるのもここまでです。バス停では10人程の人達がバスを舞っていました。どうやら高尾山から下ってきて人達のようです。
バス停を過ぎ、この先の山道に入れば車は通行不能になります。バス停から峠までは約2.5Km。ゆっくり登っても1時間あれば峠に到着できるでしょう。

小仏峠への登り

バス停から少し進むと道路の舗装は消え、砂利道になります。まだ道路幅も広く左程の登りでもありません。本当に大変になるのは細い山道になってからで、ここまで来てからの山登りは足に堪えます。この山道でも何組かの下ってくるグループに会いました。この人達も甲州道中と言うわけでもないようで、山登りの帰りのようです。先ほどの小仏バス停からバスで高尾駅に出るのでしょう。

小仏峠  548m

14:15 ようやく小仏峠に到着です。小仏のバス停から2.5Kmを55分、山道の登りでしたからこんなものでしょう。小仏峠は高尾山からの縦走路と甲州道中が交差する場所でもあるので、峠のベンチで休んでいる間も登山者が降りてきます。まだ紅葉前のウィークデイでもこれだけの人が歩いているのですから、毎年秋になると報道される高尾山の異常なまでの混雑も想像出来ます。

茶屋跡

つい最近までこの峠には茶店があって、ここではビールも売られていたようです。江戸時代は賑わった小仏峠でしたが、明治になり車道化するには急すぎるという理由から、国道(現在の20号線)は南の大垂水峠を通る事になり、これにより小仏峠の通行量は激減し、時代から取り残されていきました。
足取りの 重き峠や秋海棠 一秀

峠を下る

2:20pm 相模湖に向かい下山開始です。峠から舗装路に出るまでは約1.8Kmと、大した距離ではないのですが、何しろ山道が歩きにくい。急と言うわけではなく、山道が荒れているという事も無いのですが、石がゴロゴロ、おまけに先日の台風で折れた枝なのか、木の枝が行く手を邪魔していて、足をぐらして痛めないかと心配しながらの下山になりました。

舗装路に出ました

2:54pm 峠から30分ほどで舗装路に出ました。舗装路を10分も進むと中央高速の超高い橋が頭上を横切っています。この辺りは美女谷といい、全国にある小栗判官伝説に登場する照手姫の生まれ故郷と伝えられ、その美貌が地名の由来になったといわれています。そう言えば、中山道でも昼飯古墳の先に「照手姫水汲井戸」なんてのがあったし、東海道の藤沢宿の遊行寺には彼の墓までありました。史実なのか伝説なのか?

小原宿 本陣

3:25pm 小原宿本陣に到着。小原宿は江戸より14番目の宿場として設置されました。現在、小原本陣は神奈川県下に26軒あった本陣で現存する唯一の建物となっています。江戸時代、甲州道中を通る事を許されていたのは信州の高島・高遠・飯田の3藩と甲府勤番の役人しかいなかったといいます。そうした事から、この本陣もそうそう頻繁に使われたものでも無かったのでしょう。入館時間ギリギリでしたが見学させて貰いました。
本陣の 厠は辛き興喜ちゃん 一秀

最後の登り

本陣を過ぎればあとは相模湖駅に向かい坂道を下るだけ、と思っていたら最後にかなり急な坂が待ち構えていました。ここまで来ての坂道は足が悲鳴を上げそうです。急にも急ですが、想像以上に長い!!
相模湖は終戦後の発展のため、京浜工業地帯へ電力と水を供給する為に生まれた人造湖です。富士山麓の忍野八海を出発した桂川は、ここ相模湖へ注ぎ、馬入川となって平塚の海へ流れます。

えんどう坂

最後の坂道を登り切り今度は相模湖に向かい真っ直ぐ下る急坂を行くと途中で右に降りる急な石段があります。これが甲州道中の「えんどう坂」。下りきって国道へ出た辺りが15番目の「与瀬宿」になります。ここまで来ればゴールの相模湖駅は目の前です。

相模湖駅

4:05pm ゴールの相模湖駅に到着です。今日の総歩行距離は約24Km。しかし、今は通行できない街道部分もありこれは変更して進んで来ました。昨夜睡眠不足の体に24Kmは結構堪えました。しかし予定通りに進めて良かったです。一回でも計画通りに行かないと、次回からの計画も全て変わってきてしまいます。これで日本橋から約63Km。次回の甲州道中は紅葉も始まっているのかもしれません。