与瀬宿〜下鳥沢宿

第3回目となる甲州道中テクテク旅は前回のゴール、相模湖駅から鳥沢駅までの約24Km。今回から車は大月駅前に駐めておけるようになり、経費も大分安上がりで済むようになりました。この日は暑くなく、寒くもなくのウォーキング日和になり、日本橋スタートの日、水不足の熱中症で苦しんだ事も嘘のような季節になって来ました。




相模湖駅 〜 鳥沢駅  2017.10.27

JR相模湖駅

大月駅に車を駐め、中央線で前回のゴール相模湖駅に到着。7:53am 相模湖駅を出発しました。今日は暑からず、寒からずの街道歩きには絶好のコンディションです。

与瀬宿

スタートしてすぐに登り坂になりました。次の吉野宿へは小さな峠越えになります。大した標高差ではありませんが、朝いちは息が切れて大変。上がりきれば眺望も開けるはず。            

中央高速の上を行く

10分ほどで登り切り、平になりました。中央高速も越え、今は高速道路は下に見えています。本当に雲一つ無い良い天気で気持ちの良い街道ウォークになりました。
秋うらら 甲州道中いざ行かん 一秀

富士山が見えた!

南西方向の山の上に少しだけ富士山が頭を出していました。この時期、富士山頂は真っ白です。次回からの甲州道中はさぞかし寒くなる事でしょう。

中央高速

今日はこれから何回も右へ左へ中央高速の上を越えます。まずは1回目。高速を越えて吉野宿に下っていきますが、街道の正確な位置がイマイチハッキリしません。というのも、甲州道中そのものが中央高速建設時にズタズタになってしまったようです。

吉野本陣跡

コースをミスしていないかと心配しながら歩いていて、こうした碑を見るとホっとします。かつての吉野本陣は木造5階建て、五層楼の威容を誇っていましたが、明治29年の大火で焼失してしまいました。

関野宿

藤野駅の手前で親切に「甲州道中はこっちだ」と教えてくれたおばぁさんがいました。素直に言われた小径に入りましたが、どうもこれは間違いのようで、そのまま20号線を行くのが正解だったようです。

関野宿2

スタートからずっと、急ではありませんが坂を登ったり下ったりの連続です。今のうちはまだいいけど、そのうちに足に堪えて来そうです。

諏訪番所跡

右手擁壁上に諏訪関跡碑がありました。ここは甲斐國の東口にあたり、武田氏が設置した甲斐二十四関のひとつです。徳川の世になると境川番所、境川口留番所とも呼ばれ江戸末期までありましたが、明治4年(1871)に廃止されました。

諏訪神社

この地を支配した古郡氏が諏訪神社を勧請したところから古郡神社とも呼ばれました。 境内には芭蕉句碑「稲妻に悟らぬ人の尊さよ」があります。
この先で今日2度目の中央高速を跨ぎます。

酒まんじゅう

上野原宿に入ります。上野原の名物は「酒まんじゅう」。宿内にある何軒かの和菓子屋さんで売られていました。試しに食べてみたら、これが結構旨い!
このお店のあった上野原二丁目交差点が上野原宿の起点になります。
酒饅頭 食し道中天高し 一秀

上野原宿 LiveCamera

上野原の「山梨中央銀行」にライブカメラが設置されていたので、iPhoneで繋げてスクリーンショットを撮り記念撮影です。右下に小さく5人が写っています。ここを過ぎてしまうとJRも20号線も街道から離れていきます。

鶴川

上野原宿を過ぎ、鶴川を渡ると鶴川宿に入ります。鶴川は都留川とも書かれていたようで、流末は桂川に注ぎ、桂川の流末は相模川に流れ、相模川は平塚で相模湾に注いでいます。鶴川は甲州道中唯一の川越し河川となっていました。しかし水量の少ない冬場は仮橋が架けられていたようです。

鶴川宿

鶴川を渡ると鶴川宿に入ります。鶴川宿は小さな宿場でしたが、鶴川が川留めになるとたいそう賑わったといいます。

鶴川宿 宿並

鶴川宿に入ると宿場は緩やかな坂に沿い続いています。真っ直ぐな緩い登りで正面に山が見える景色は中山道で見た刎石山を正面にした坂本宿の雰囲気に似ています。

出梁造り

宿場内には目立った見るべき物も無く、緩い登りを淡々と進みます。家の造りが、中山道でよく見た「出梁造り」になっていました。
荒れ果てし 主なき庭石蕗の花 一秀

中央高速

鶴川宿を抜け暫く登り続けると、現在の甲州街道ともいうべき中央高速にぶつかります。甲州道中は上野原から鳥沢までの間、20号線やJRとも離れ中央高速に沿っています。その為に、上野原宿を過ぎてしまうと鳥沢宿まで進むしかなくなります。

大椚

中央高速に架かる鳶ケ崎橋を渡り、緩い上り坂を進みます。今日、中央高速の上を越えるのはこれで3回目。相変わらずアップダウンが続いています。

大椚一里塚跡

中央高速を渡って200m程進むと日本橋より19里目となる、大椚の一里塚跡に着きました。登りもようやく終わったようなので、ここの休憩所でしばしの休息。朝からのアップダウンが少しづつ足に堪えてきています。

吾妻神社の大杉

境内にあった大椚(おおくぬぎ)が地名の由来となっていましたが、残念ながら枯れてしまいました。椚はありませんでしたが、樹齢600年という大杉が大椚の後を引き継いでいるようです。

長峰砦跡

武田信玄は甲斐國の東口を北条の侵略から防衛する為、この地に長峰砦を築きました。2度にわたる中央高速道路の工事により砦跡付近は原型をとどめない状況になってしまっていて、遺構は消滅しています。

日本橋より78Km

暫くは中央高速の側道を行きます。車の往来も殆ど無く、ノンビリした街道歩きが出来ました。この辺り左はゴルフ場が広がり、その遙か向こうに中央本線四方津駅から エスカレータが延びた住宅地「コモアしおつ」の住宅街が見えていました。

野田尻宿 入口

ここで新栗原橋を渡り野田尻宿に入っていきます。今日、中央高速を跨ぐのはこれで4回目。

野田尻宿

野田尻宿は鶴川が一旦川留になると大いに賑わったといいますが、宿並は明治19年(1886)の大火で灰燼に帰してしまいました。野田尻の集落は談合坂のサービスエリアと隣り合っていますが、そんな気配は全く感じないほどの静けさです。

荻野一里塚跡

野田尻宿を抜けたところで今日5回目となる中央高速道路跨ぎ。長閑な街道を進むと擁壁の外れに荻野一里塚跡解説があります。伝承によれば、塚木はヒラマツの老松であったといいます、江戸日本橋より数えて20里目。数百m進んだところで今日6度目の中央高速跨ぎをし、その先で矢坪旧道に入ります。休憩中に課外授業で甲州道中を歩いている大勢の中学生に追い抜かれました。

八坪坂の古戦場跡

享禄3年(1530)相模國の北条氏縄の軍勢が甲斐に攻め込み矢坪坂に進出しました。一方、武田家の家臣小山田越中守の手勢が坂の上で待ち構え、両者は坂を挟んで対峙し、やがて激戦が展開されましたが、小山田勢は敗れ、富士吉田方面に敗走しました。

今日最後の登りか?

十分な休憩をとり、再出発。中学生の集団を追います。ここへ来てこんな坂道があるとは!!ふくらはぎがパンパンになっています。左下には県道30号線が走り、街道は斜面の中腹を県道と並行しています。
杉の葉や 喘ぎ踏み締む峠道
  焚き付けとせし 往時追懐 一秀

座頭転がし

鎌倉時代、盲人の組合として当道座がありました。これは平家物語を 語る琵琶法師の集団で、その中に階級として検校、別当、勾当、座頭があり、 一般の人々が按摩や、琵琶法師を呼ぶとき座頭と言うことが多かったようです。先導者の鈴音を頼りに進んできた盲人達が、屈曲している山道を先に回り切ってしまった先導者の鈴音の方に進み、谷底に転がるように落ちてしまったといいます。

尾張家殿様定宿跡

ここでようやく中学生の集団に追いつきました。ここは代々米山伊左衛門を名乗り、尾張藩主の定宿を勤め庄屋を兼ねていた米山家。豪壮な門構えです。

瀧松苑

犬目宿を過ぎると右手上に茅葺き屋根の古民家がありました。現場では何なのか分かりませんでしたが、その後調べてみたら完全予約制の瀧松苑という蕎麦店のようでした。しかし営業しているようには見えなかったが.....
ここを過ぎたら最後の坂「君恋坂」が控えていました。

恋塚一里塚

最後の坂道「君恋坂」を上がりきるとそこには「君恋温泉」が有りましたが、残念ながら今は閉館しています。君恋とは随分と洒落ていますが、これは日本武尊が東国征伐の帰途、自ら海神の生贄となった妃、弟橘姫を恋しく思い偲んだところに由来しています。君恋温泉から下り県道に出て少し進むと甲州道中では始めて塚の残る「恋塚の一里塚」がありました。

大月市に入る

恋塚の一里塚を過ぎ、少し進んだところで街道は県道から外れ馬宿の石畳を下ります。この石畳は甲州道中では珍しいもので、距離は僅かに40m程しかありませんが、江戸時代の石畳そのものです。石畳の街道から再び県道に出ると間もなく大月市に入ります。ここまで来れば鳥沢駅までずっと下るだけです。

鳥沢に向かって下り坂

この辺りの正確なルートがどうもはっきりしません。原田旧道という古道があったようですが、気が付かずに遠回りをする事になってしまいました。どうも今回は細かなミスコースが何回かあったようです。もう一度コースを見直す必要がありそうです。大いに反省!!

下鳥沢宿

中央高速の下を過ぎて300m程行くと、上野原で分かれて以来の国道20号線に合流しました。下鳥沢宿到着です。下鳥沢宿と上鳥沢宿とは合宿で毎月上15日の問屋業務は下鳥沢宿が勤めました。宿並は明治39年(1906)の大火で焼失しています。

ゴール!!

ゴールの鳥沢駅前交差点に到着。歩行距離は約25Kmになり、それに加えて1日中アップダウンの繰り返しでしたからかなり疲れました。どうやら甲州道中はこれまで歩いて来た東海道や中山道に較べても一番大変な街道になりそうです。

鳥沢駅

大月に戻らなければなりませんが鳥沢からでは2つ駅目が大月駅です。丁度いい電車が来そうなのでホームに入ると「列車に異常音があったために、点検中で30分の遅れ」との事。またまた中央線でのトラブルに遭遇です。ホームで30分もじっとしていると寒くなって来ました。早く来ないかなぁーー.....
秋の暮れ 旅果て帰路の無人駅 一秀

ようやく3回目(4日目)が終了し、大月市まで進みました。しかし中山道の時と違い日帰りなので一回で進む距離はたかがしれています。それでも歩いただけは前に進んでいるのですから、時間は掛かっても歩きを止めない限りゴールする筈。
今回書き忘れた事があるので最後に書き留めておきます。
野田尻宿の南に中央高速の談合坂サービスエリアがありますが、はて、この談合坂って坂があるのか?と思いきや、近くを探しても見当たりません。この談合坂の名の由来には諸説有り、甲斐国の武田信玄軍と相模国の北条氏康軍の調停の談合が行なわれた、といった、武田・北条・今川のいわゆる甲相駿三国同盟にからむ話が多いのですが、もう一つ面白い説もあるのです。昔話の物語でも有名な桃太郎が実はこの辺の人間で、その証拠にこの辺りには、百蔵山(ももくら山=桃太郎)、犬目(=犬)、猿橋(=猿)、鳥沢(=キジ)といった地名もあり、また談合坂(=ダンゴ坂)もあります。いわゆる桃太郎伝説なのですが、桃太郎がこれらの家来を引き連れて行った先はなんと、大月の岩殿山に住む鬼退治、というお話。