笹子駅(阿弥陀海道宿)〜竜王駅

第5回目は笹子駅からスタートし、笹子峠を越えて、大善寺で一泊。2日目は甲府柳町宿を過ぎて、竜王駅までの一泊二日の旅となりました。心配していた笹子峠も無事に越え、甲府盆地に入りゴールも見えて来ました。最終の下諏訪までは残すところ3日となり、春には何とか辿り着ける予定です。下のマップと左の宿場図の距離には少しずれがありますが、誤差の範囲と思ってください。


 


笹子駅 〜 大善寺  2017.12.6

JR笹子駅

9:13am 笹子駅を出発します。寒さを心配していましたが、思っていたほど寒くは無いようです。それでも前回の紅葉真っ盛りの様子とは一変し辺りの景色は既に冬の装いです。まずは笹子峠を越えなくては!!

新田集落

9:58am 20号線から離れ新田の集落から新田沢に沿って少しずつ標高を上げていきます。思っていたほど寒くは無いとは言え、霜柱が立っています。

新田沢

沢沿いの山道ですから左程急坂にもならずに谷の奥に入っていく感じです。途中には大きな砂防堰堤が幾つか出来ています。
静かです。

山梨県道212号線

再び県道に出ました。少しづつ急勾配になって来た山道を上っていて、たまに緩傾斜の道路に出ると一息つく事ができます。車も滅多に(途中一台も会わなかったような?)来ないので、静かな晩秋の街道歩きを満喫できました。思えば1年前の今頃は美濃の山中でこんな景色の中を歩いていました。

笹子峠への山道

山道には落ち葉が一杯。これがクッションになり膝への負担は少なくなるのでしょうが、やはり歩きにくいです。東の方向を見ると知らないうちに随分と高いところまで上がって来た事がよく分かります。

石仏

山道でこのような石仏を見掛けると何となく安心してホットします。昔の旅人は今の時代とは違い命懸けの旅だったのでしょうから、尚更の事こうした石仏に励まされ、また癒やされた事でしょう。こんな山の中まで運び上げた人達も凄いものです。

矢立の杉

出陣の武者がこの杉に矢を射立て武運長久を祈願したといいます。根回り14.8m 目通り9m 樹高は26.5m 幹は地上21.5m で折れ、樹幹は中が空洞になっていて、以前はこの中に入る事が出来ましたが、現在は木の保護の為に周りは柵で囲まれてしまっています。

矢立の杉 歌碑

矢立の杉の横には杉良太郎の歌う「矢立の杉」という歌の歌詞を刻んだ歌碑がありました。またその横にはハンドルを回して発電すると歌が流れる機械もあり、突然木に囲まれた山の中で演歌?が流れれるとビックリします。
こんな曲です。 ←クリック

眠る山 矢立ての杉に生く力 一秀

直登

矢立の杉から先への道は一度道を間違えて県道に出てしまいました。甲州道中を歩いている別組の友人達はここでミスコースしたと言っていました。一旦矢立の杉まで戻って注意して周りを見てみるとどうやら杉の横に踏み分け道程度の山道があるようです。多分これが正解の道なのだろうとそちらを行ってみました。ところがこの道は尾根を真っ直ぐに登るようです。

尾根道を直登

いよいよ本格的な笹子峠への登りなのですが、山道というのに道は真っ直ぐ。前をみるとメゲそうなので、出来るだけ下だけ見て必死で登ります。多分、甲州道中の中でもここが一番の難所なのだろうと思います。小仏峠もこれ程大変ではありませんでした。ここを抜ければ下諏訪のゴールまで苦労する山道は無い筈!

旧笹子トンネル

直登山道を登り切ると県道に出ました。この県道の登りを少し行くと正面に旧笹子トンネルが見えましたが、自分たちが越える笹子峠はこのトンネルの上を越えています。このトンネルの手前から再び山道に入ると、峠までは距離は左程無いようですが、かなりの急坂です。入口には西洋風の飾りの付いた柱が2本デザインされているのが特徴となっています。このトンネルは心霊スポットとしても結構有名らしいです。

笹子峠

笹子峠は笹子雁ガ腹摺山への縦走路の分岐地点にもなっています。以前(もう20年近くも前)雁ガ腹摺山へは登っていましたが、どうやら雁ガ腹摺山は幾つかあるようで、自分が登ったのはここから行ける笹子雁ガ腹摺山ではないようでした。峠で昼食の弁当を食べて、体が冷えてこないうちに下山開始です。

駒飼宿への下り道

下りは登りの急登とは違い緩傾斜の山道がずっと続きます。それだけに下りきるまでにはかなりの距離を歩かされる事になります。徐々に標高が下がってくると少しづつ気温も上がって来て汗ばむほど。最近はどんな山道でもイノシシや熊との遭遇が現実的な心配になってしまいます。

駒飼宿

ようやく駒飼宿まで下ってきました。馬の放牧が多かった事が宿場の名の由来になったと伝わります。駒飼宿は次の鶴瀬宿と相宿となっていて、駒飼宿では人馬の継ぎ立ては21日から月末まで行っていたようです。また、1868年(慶応4年) 駒飼宿は新鮮組の近藤勇が甲陽鎮撫隊を組織して甲府城に立てこもる 板垣退助と決戦する為、軍議を開いた場所としても知られています。

駒飼宿

以前は茅葺きの家屋もかなりの数残っていたようですが現在では残っていても、茅葺きをトタン屋根で覆ってしまった家が多く、茅葺きそのものの家は皆無でした。やはり今の時代、茅葺き屋根を維持していくのは大変な事なのでしょう。

中央高速

大きな鉄橋は笹子トンネルに入る直前の中央高速。2012年に天井が崩落して大惨事となったトンネルとして名を知られるようになってしまいました。もう少しで下りきり20号線に合流します。

鶴瀬宿

鶴瀬宿は駒飼宿との相宿でこちらが1日から20日までを受け持っていました。この地は酸化鉄を含み赤みを帯びた「甲州鞍馬石」を産出する事でも知られているようで、何件かの石屋さんがありました。ここまで来れば今日の宿となる「大善寺」はあと僅かです。

絶景

あと少しと思ったら国道にトンネルが現れ、街道はその上を越えていくようです。ここまで来てからの急登は超大変。登り切ると上には観音堂があり、芭蕉の句碑もありました。
 「観音の甍見やりつ花の雲 芭蕉」
また広重もここからの景色を「古今絶景也」と評しています。

真下を通る20号線

観音堂からの下りは恐いです。小石混じりの山道でザラザラと滑るし真下には20号線が走っています。恐る恐る滑らないように下っていきます。

恐怖の下り道

本当に甲州道中はこんな所を通っていたのか?と疑いたくなるような急な坂道です。近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊は大砲2門を引き摺りながらの行軍だったといいますから、この坂も大砲を引き摺り上げたのでしょうか。

武田不動尊

落ち延びる勝頼は武田の守り本尊として捧持していた「武田不動尊」を村人に託し、村人はここに不動尊を祀ったと伝えられています。崖下に村人が祀った「武田不動尊」が復元されています。

近藤勇像

ここ柏尾坂は明治元年、近藤勇が率いる幕府軍(甲陽鎮撫隊)と板垣退助が率いる官軍の先鋒隊が戦った地である事から近藤勇像が建てられています。当初は大善寺に陣を構えて戦う予定だったようですが、大善寺に戦火が及ぶ事を懸念した近藤勇がここから後方に退き、このおかげで大善寺は兵火による被害を免れたといいます。

大善寺 薬師堂

この勝沼の地に葡萄栽培をもたらしたという葡萄薬師が安置される大善寺の薬師堂は国宝指定を受けている貴重な建物で、弘安9年3月16日(AD1286)の刻銘が残されています。堂内に安置される薬師三尊は秘仏で普段は厨子の中にあり見ることが出来ませんが、5年に1度の御開帳ではその姿を拝むことが出来ます。
徳川織田連合軍に負けて落ち延びる勝頼の一行もこの薬師堂で一夜を明かしたといいます。

民宿「大善寺」

今日の宿となるのはこの大善寺で経営している民宿「大善寺」。宿坊と言うのではなく民宿なので飲酒も問題ありませんでした。と、これは事前に確認して宿の予約をとりました。部屋も広く綺麗でそれで安いのですから、歩き旅の宿としたら良いことずくめです。よく呑みました!!
大善寺 葡萄薬師のお恵みと
  明日の力に グラス重ねし
           一秀



大善寺 〜 竜王駅 2017.12.7

大善寺スタート

翌朝、雪を頂いた南アルプスを見ると外はかなり寒そうでしたが、出発の準備をして外に出てみると思ったほどではなく、歩くには丁度いい気温なのかもしれません。まずは記念撮影して今日のゴール「JR中央線・竜王駅」を目指して出発です。
白銀の アルプス望み宿発ちぬ 一秀

ワイン民宿

大善寺を出発してすぐの所に古い建物を使った民宿があります。事前に調べたところでは「ワイン民宿」となっていました。外は古民家ですが、中は洒落た雰囲気の民宿に生まれ変わっているようでした。ただ、食事内容は女性向けかも。
道すがら そっと摘みし貴腐ぶどう 一秀

勝沼宿本陣跡/槍掛松

本陣跡の前には、大名や公家などが宿泊した時その目印に槍を立て掛けたという「槍掛けの松」が残っています。かなりの太さがあり、その当時から生き残っている老松と思われます。

仲松屋

仲松屋住宅は、江戸時代後期の主屋を中心とした東屋敷と、明治時代の建築を中心とした西屋敷の二軒分の商家建築から成り、東西両屋敷群は江戸時代後期から、明治時代の勝沼宿の建築を知る上で貴重な建物となっています。

3階造りの土蔵

三階建ての土蔵。説明文によれば明治20年頃の大火の後、自己所有の山林の木材で建てた蔵となっていました。地上3階、地下1階の構造となっているようですが、土壁の部分が傷んで来ているところも目立ち、維持管理は大変そうです。

旧田中銀行社屋

藤村式建築の流れをくむ建物。明治30年代前半に勝沼郵便電信局舎として建てられました。入母屋造り、瓦葺、二階屋の建物で、大正9年より昭和7年頃まで山梨 田中銀行の社屋として利用されました。外壁の砂漆喰を用いた石積み意匠、玄関の柱や菱組天井、二階のベランダ、引き上げ窓、  彩色木目扉、階段などに凝洋風建築の名残があります。

ピラカンサス

あまりの見事な実の付き方に引かれ、思わず記念写真。ここまでは風も無く、暑くもなく寒くもなく快適な街道歩きになっています。街道(国道)沿いには観光葡萄狩り農園もかなりの数見られますが、既に廃業してしまっている農園も少なくありませんでした。

青梅街道追分

内藤新宿(正確には新宿3丁目交差点)で甲州道中とは分かれ別ルートで来た青梅街道がここで再び合流します。江戸時代当時、「鶴川の渡し」人足の評判が悪く、それを嫌い青梅街道を選ぶ旅人も多かったと聞きます。

レトロな映画館

今時珍しく超レトロな映画館です。この映画館がある場所も繁華街と言うわけではなく笛吹川の土手近くにある住宅や農地の一画にあるのですから突然これが現れるとビックリです。これでも営業が成り立っているのが驚き!

甲斐善光寺

身延線の線路が見えてくると右奥に甲斐善光寺までの参道が真っ直ぐに伸びています。あまり遠くも無さそうなので行ってみたいところですが、それでも距離は片道760m、往復では1.5Km以上にもなるので今回は諦めました。それに甲斐善光寺には同じようなメンバーで2014年の6月にも来ています。ここは先を急ぐことにしました。

天尊躰寺

金山奉行を勤めた大久保長安や「目には青葉山ほととぎす初がつお」で知られる山口素堂の墓があるようなので寄ってみましたが、説明も何も無く、結局墓の位置は分かりませんでした。

竜王駅

甲府からは一足飛びに竜王駅へ。甲府を過ぎるとあまり見るべき物も無いのです。今回は甲府市内で、娘に頼まれた「印傳」の財布を「印傳屋」で購入。カミさんへのプレゼントにするようでしたが、未だにこの印傳の代金は娘から貰っていない。

ようやく甲州道中一番の難所と言われる「笹子峠」を越えました。確かに大変な峠越えでしたが、昔と違い今の甲州道中はかなりの部分が車道になっていて、最初から最後まで急峻な山道が続く訳ではありませんから江戸の当時に比べたら遙かに楽な峠越えにはなっています。驚くのは近藤勇率いる「甲陽鎮撫隊」が大砲を引き上げながらこの笹子峠も越えていったという史実です。自分の身ひとつでさえ持ち上げていくのが大変なのに、あの急峻な山道をどうやって進んで行ったのか。運ぶのは大砲だけではなく、これに使う砲弾、また幕府からの軍資金5000両など、その総重量はどれほどになったのか。
甲府盆地に入れば先は見えてきました。下諏訪温泉まで3日で届くはずです。