竜王駅 〜 武川

第6回目は新年そうそうの1月6日、全回のゴールとなった「竜王駅」から神代桜で知られる武川町までの約22Kmを歩いて来ました。かなりの冷え込みを覚悟して出掛けましたが、心配した程の寒さでもなく、途中からは坂道では汗ばむほどでした。ゴールした後は路線バスで韮崎駅まで戻って来なければならないので時間の制限が厳しいかと思ったものの、ゴールしてみれば早すぎて寒風吹く中で一時間のバス待ちになりました。ここまで来ればゴールまでは2日。次回は一泊二日で一気にゴールを目指します。


 

竜王駅 〜 武川  2018.1.6

JR竜王駅

竜王駅前の駐車場に車を駐め 7:05am 第6回目甲州道中ウォークのスタートです。前回来た時には双葉のIC から駅までの道路は随分と混んでいましたが、正月明けの最初の土曜日という事もあり道路はガラガラ状態でした。心配していた寒さは左程でもないようです。

朝から登り

中央線の踏切を越えると長い登り坂が続きます。正面には朝日に赤くなった鳳凰三山、振り向けば朝日に染まった富士山が正面です。朝一番のこの登り坂のお陰で体もかなり暖まりました。
戌年や いざ歩き初め着脹れて 一秀

なまこ壁の蔵

街道沿いにはなまこ壁の立派な蔵が目立ちます。かなり古い物のようですが、時々手を入れてこれまで維持して来たのでしょう。今ではこうした蔵も物置代わりになっているのでしょうが、一体どんな物が入っているのでしょう。

豪邸

大きな屋敷が多い中でも特別広大な敷地にたつ豪邸がありました。他人事ながらこれだけの屋敷に掛かる固定資産材はどれ程になるのだろうか?と想像してしまいます。門だけでも小さな家が建ってしまいそうです。

中部横断道

南から上がってきた中部横断道が中央高速の双葉JCTに接続する間際の高架下。この先すぐの所に双葉JCTがあります。高架のその向こうには雪を頂いた鳳凰三山が綺麗です。

タイル張りの高架橋

何とも趣のあるJR中央線の高架橋です。かなり古い物なのでしょう。現在の高架橋はこのタイル張りの橋からは浮かせて作られているようで、古い橋台には重量を掛けないようになっていました。

なまこ壁

このお屋敷の敷地面積は凄いです。屋敷の周りをなまこ壁の蔵が取り囲み、一見防火壁のように見えます。もしかしたら蔵が屋敷への火災延焼を止める役目も持っているのかもしれません。それにしてもこれだけの建築物の維持管理はさぞ大変なものだろうと想像出来ます。行政でもこうした建築物の保護に何とか援助の方法を考えていかないと、近い将来には全て消えてしまう運命なのかもしれません。。

氷柱

予想していたよりは暖かいとはいってもやはり静岡の北、甲州ですから気温はかなり下がるようです。雨が凍ったのか、夜露が凍ったのか?

韮崎市

正面に鳳凰三山を見ながら塩川橋で塩川を渡ると韮崎市に入ります。韮崎宿の前の宿場は甲府柳町宿でしたからようやく次の宿場に入ったという感じです。今日はゴールまでまで進んでも次の台ガ原宿には入りません。甲府までは宿場間の距離は短かったのですが、この辺りは宿場が随分と離れています。それだけにこれまでの宿場に較べれば裕福な土地だったという事なのでしょうか。

鳳凰三山

ずっと見えている鳳凰三山。自分にとっては最期の登山となった山なのですが、秋の山の頂は見事な紅葉で綺麗でした。もう10年も前の事になってしまいます。ここから見る鳳凰三山は壁のように山が立ち上がっています。

身延道

鰍沢横町と刻まれた道標がありました。説明によれば富士川を下っていく身延道の基点となった場所のようです。ここから馬の背に荷物を乗せて鰍沢まで運び、鰍沢河岸で船に積み替えられて富士川を下っていったようです。今は水運など想像も出来ない富士川ですが、富士川水運は身延線が開通するまでは盛んに行われ、駿河からは塩も運ばれていきました。こうした事の名残なのか、長野では塩のことを鰍沢と読んでいるところもあるようです。

馬繋ぎ石

馬子達が休憩などで一時的に馬をつなぎ止めておくための穴を空けた石。繋ぎ止めておくだけで馬が盗まれてしまう事は無かったのか、と心配にもなりますが、そのような事は無かったようです。今で言うなら鍵を掛けずに路上に自転車を置いていくようなものなのですが、当時の人々の方が現代人より道徳心はあったという事なのでしょうか。

平和観音

昭和36年に市街を一望できる七里岩南端に市民の平和や登山者らの安全を祈願して建立された観音像です。その優美な姿から関東三観音のひとつに数えられていると言いますが、何となく胸に違和感が....。胸がこれだけ豊かな観音さんも珍しいし、その胸の部分は衣に覆われていないのです。身長は16.6mで台座まで含めた高さは18.3mとなっています。

小林一三生家跡

今は「にらさき文化村」となっているこの地には宝塚歌劇団の創始者となった「小林一三」の生家がありました。小林一三は多くの事業を興してきた韮崎が生んだ大実業家で、阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道をはじめ、交通、住宅地経営の不動産業、阪急百貨店の小売業、東宝・宝塚歌劇団・阪急ブレーブスの興行業など、阪急東宝グループを成す数多くの事業を興したことで知られています。

七里岩

約20万年前に発生した八ヶ岳の山体崩壊による韮崎岩屑流(または韮崎泥流、韮崎岩屑なだれ)と呼ばれる岩屑なだれが形成した平坦地を、西側の釜無川と東側の塩川によって侵食崖を形成したものが七里岩。南北の長さが30km(約7里)にも及ぶので、七里岩と名がつけられたといわれています。また、台地の形が舌状であり「韮」の葉に似ているので、その先端部のある地域を「韮崎」として、韮崎市の地名発祥のひとつになったとも言われています。

茅葺の武家門

この家はかつて武田家に仕えた名家だったとか?この茅葺きの門の維持だけでもかなりの経費は掛かってしまいそうです。

道中は行けど行けども七里岩
  偉大な自然我を攻めくる 一秀

石塔群

繭神、石尊神、和気大神、九頭竜大神などが並んでいます。これは古いものではなく、昭和34年の水害で流出してしまったものを復元した石塔群のようです。釜無川の氾濫を抑える為の信仰として九頭竜大神を祀ったのでしょう。また石尊神は山岳信仰を表し農耕の神、雨乞いの神とも言われます。川の治水と同時に雨乞いの神も一緒にあるという事がいかにもこの地で生きていく事の苦難を物語っているようです。

桐沢橋

桐沢橋で釜無川の右岸に渡ります。釜無川の名の由来には「釜(かま=深淵)の「無」い川とか、河水が暖かいために釜を必要としないので「釜無」という説」など諸説あるようです。橋の名が桐沢橋で欄干には桐の花が描かれていました。その昔、桐(毒荏)の栽培などが盛んな土地だったのでしょうか。
 釜流す 程に水無き釜無川 一秀

八ヶ岳連峰

釜無川右岸に渡ると途端に静かになりました。車の往来も少なく気持ちよく歩く事が出来ます。正面には山頂が真っ白になった八ヶ岳が青空に浮かび上がり、コンビニも自販機も何ーーんにも無い街道を北へ、北へ! 

釜無川右岸を行く

山添から釜無川まで基盤整備された広大な農地が広がっています。今では優良農地に生まれ変わったこの土地もかつては氾濫を繰り返す釜無川に苦しめられてきたのでしょう。正面の対岸には武田勝頼の最後の城となった「新府城」のあった山が見えています。その当時、この地は荒地だったようです。

徳島堰

江戸深川の商人、徳島平左衛門が身延詣での際、この地の荒野を憂い寛文5年に着手したのがこの後に「徳島堰」と呼ばれるようになった水路です。寛文7年には現在の韮崎市円野から櫛形町までの17Kmの堰を作り上げました。この堰は古くから日本三大堰(柳川堰、箱根堰、徳島堰)中、随一と言われています。

かかしの里

円野は最近「かかし祭」の行われる「かかしの里」として脚光を浴びています。こうした案山子祭りは全国で行われているらしく、全国での案山子祭りの出品総数は1万体にもなるとか。円野の「かかし祭り」は昨年、2017年で24回目を迎え、会場となる田んぼには100体程の作品が並び、盛況だったようです。

信玄公

信玄公の像でしょうか。信玄には武将としての荒々しいイメージと同時に土木技術者としての一面もあります。釜無川、笛吹川と二つの荒ぶれる川の流れる甲斐の地で信玄が土木技術に長けていたという史実も納得させられます。この二つの川を旨く治めなければ甲斐国の発展は無かった事でしょう。
食事処を探して街道を外れています。

内藤家

一旦国道20号に出て何とか腹ごしらえ出来ました。同席のお客さんに聞いたら、この店はラーメンが美味しい店という事でかなり有名な店のようでしたが....
この屋敷?は明治13年に天皇巡行の際に休息した「内藤家」。天皇が休憩したくらいですから名家なのでしょうが、門から中をみたら空き地だったのにはビックリ。

一里塚跡

一里塚碑ですが、甲府より6里という事で、六里塚とも言われているようです。甲州道中では殆ど一里塚跡は見てきませんでしたが(あったのか?)ここにあるこの一里塚碑も最近になり作られたもののようです。
 富士のみぞ夕日に映えて冬ざるる 一秀

ゴール

午後2時過ぎにゴールとなる武川町三吹(下三吹バス停)に到着。予定よりかなり早くゴールしてしまい寒風吹く中で1時間近くもバスを待つ事になりました。日野春駅まで歩くという手もありますが、ずっと登り坂と思うと気力も萎えます。結局畑の中の小屋の影で風をしのぎながらバスを待ちました。

韮崎駅

20分程バスに揺られて 15:22 韮崎駅に到着。車を駐めた竜王駅までは2駅です。それにしても1日中何も無い街道歩きになってしまいました。強いて上げれば徳島堰くらいのもの。かつては街道沿いに残っていたであろう歴史遺産も開発の影で悉く消えて行ってしまったようです。

年明け初回が終わり、残すところ約40Km。日数にすれば2日でゴールです。この寒い中を歩いても楽しくも無いので2月は冬休みとし、3月9,10日の一泊二日で一気に下諏訪まで行く事になりました。今回のゴール地点までどうやって行こうか?と考えていたところ、別組で歩いている友人から、七里岩を登り日野春駅まで行ける「野猿返し」と言われる近道がある事を聞きました。彼らはゴール後にその急な山道を上って日野春駅まで行ったようです。次回はここを登るわけではなく下るだけですから時間は掛からずにスタート地点に立てそうです。しかし、野猿返しとはいかにも急な崖道のようです。スタートする前に怪我をしてしまわないように気を引き締めてかからねば!!