武川 〜下諏訪宿

昨年7月に日本橋をスタートした甲州道中も今回でゴールになります。距離では中山道の半分にも満たない甲州道中でしたが完歩までの苦労は互角でした。小仏峠の登りから始まった上り下りは傾斜の差こそあれ、ゴールの下諏訪宿まで続きました。中山道へ合流した地点が甲州道中の終点になります。2年前に中山道ウォークでここを通過してから早いものであれから2年。時の流れの速さに今更ながら驚きます。


 


武川 〜 すずらんの里駅  2018.3.14

JR小淵沢駅

早朝に小淵沢に到着し、2年ぶりの小淵沢駅です。一昨年の中山道ウォークの時には工事中だった小淵沢駅も新しく洒落た駅舎になっていました。ここからスタート地点に一番近い「日野春駅」までは長坂駅を間に挟んだ二駅目。小海線のホームに一両編成の電車が留まっていました。
春光を 見遣る雪嶺弾きけり 一秀 

日野春駅到着

am8:00前に日野春駅に到着。この駅の一つ先は穴山駅。武田の家臣でありながらこれを裏切り信長に内通し、その後江尻城の城主になった穴山梅雪ゆかりの地です。興味深いのは、穴山駅の次の駅は新府駅で、ここには武田勝頼が築城し、武田最後の城となった新府城のあった所。因縁の二人はけっこう御近所さんだったのです。 8:00am 日野春駅をスタートして釜無川まで下ります。西には今日も南アルプスが綺麗に見えています。

野猿返しの坂

道路をそのまま歩いて行くと距離が伸びてしまうので、ショートカットして下ります。このショートカットの山道はその名も「野猿返し」といいます。猿も諦めて引き返すような山道はさぞかし急な坂なのだろうと想像していましたが、斜面の傾斜は急でも道は緩やかな山道でした。駅からスタート地点までは2Kmほど歩かなくてはなりません。
仕上げだぜ 野猿返しに足慣らし 一秀

下三吹バス停

8:31am ようやく前回のゴール地点となった「下三吹」のバス停まで来ました。ここが本当のスタート。甲州道中は現在の国道を行くようですが、交通量の多い国道を歩いても面白くもありません。と言うことで、ここは国道の西にある街道を進むことにしました。今は枯れてしまった舞鶴の松で知られる万休院の下を抜けていきます。

はらぢ道

尾白川にそって古道があるようです。「はらぢ道」は五街道が整備される以前からあった道で、七里岩上の原路(はらぢ)と台ケ原を繋いでいた古道のようです。国道から別れ、久しぶりの土の道を歩いて行きます。

桜並木

気持ちのいいいかにも旧街道といった雰囲気の街道を行きます。この桜も咲いていれば綺麗だった事でしょう。やはり人が歩くのは土道に限ります。舗装された街道は車の為の道路であって人が歩く街道ではないのでしょう。

台ヶ原宿

台ヶ原宿の起源は明らかでありませんが、甲斐国志に「甲州道中の宿場なり、古道は辺見筋の渋沢より此に次ぐ・・・」とあり、台ヶ原は伝馬制度による甲州街道以前から交通集落としての機能を果たしていたと考えられます。(説明看板より)

七賢

甲州では名の知られた酒蔵で、ここでは店内、酒蔵を見ることが出来ます。七賢とは、三国志の時代末期、中国河内郡山陽の竹林で、酒を酌み交わしながら清談を行った、嵆康(けいこう)、阮籍(げんせき)、阮咸(げんかん)、向秀(しょうしゅう)、劉伶(りゅうれい)、山濤(さんとう)、王戎(おうじゅう)の七人で、天保六年この酒蔵の母屋を新築の折、高遠城主内藤駿河の守から竹林の七賢人の欄間をいただき、その後七賢の銘柄を冠したと言われています。

弁財天

七賢の奥には「甲斐七福神」の一人「弁財天」が祀られています。七賢で御朱印も頂けます。10年以上も前の事になりますが、友人数人で一泊二日の甲斐七福神巡りをした事がありました。冬の寒い中、七福神の祀られているお寺を一つ一つ探しながらの七福神巡りは結構楽しい思い出になりました。

出梁造りの旅籠

中山道の信州路でよく見かけた出梁造りの旅籠。台ヶ原宿にはまだまだ営業中の宿屋がありました。いったい誰が泊まるのか?と思いましたが、話をした地元の人によれば、この辺りにある企業(サントリー等)へ来る営業の人たちが多いようです。登山のお客も多いのでしょう。

出桁?出梁?

出梁、出桁、どちらなのかどうもよく分かりませんが、この家の軒の張り出し、妻側の屋根の張り出し、どちらも凄いです。昔は養蚕のために使われていた二階部分だったのでしょうが、今は何に使われているのでしょうか。このような伝統的な日本建築の家が取り壊され、姿を消してしまわないように願うばかりです。

山口の関所跡

甲州への入り口には24カ所に番所が置かれていました。この山口の関所は北側の信州口を見張る為に設けられていた口留め番所です。ここがいつ頃から使用されたかは不明ですが、天文十年(1546)の武田信玄 の伊那進攻の際設けられたという伝承があるようです。今は蔵一つ残すだけとなってしまい寂しい限りです。

甲州と信州の国境

暫く国道の喧噪から離れて長閑なたんぼ道を進んでくると、再び国道に合流します。ここにある橋が甲斐と信州を繋いでいる新国界橋。この橋を渡れば向こうは長野県になりますが、甲州道中はこの橋は渡らずに釜無川の右岸をもう少し先まで行きます。街道にはまだ雪が残っていて、真新しい動物の足跡もクッキリと残されていました。

一品香

そろそろ昼飯時。この先に進んでしまうと茅野市内に入るまで食事処は無さそうです。旧国界橋を渡ったところに「一品香」という中華風の店がありました。客は他に居ないようなので、あまり評判が良くない?とも思いましたが空いていた方がゆっくり出来るだろうと、入ってみました。ここの女将さんは台湾の方で、まぁ気さくな女将さんでした。いつものようにビールもしっかり呑み、再出発。
味は?
私、チャーハンでしたが、普通の味のチャーハンでした。

石仏石塔群

店を出てすぐの所から急な登り坂です。これは大変でした。ヒーヒーしながら登り出すと、日蓮聖人高座石と書かれた所がありました。日蓮が身延山に草案を結んだ頃、ここ蔦木村では悪疫が流行り、村民は難渋していました。日蓮は三日三晩高座石上に立って説法と加持祈祷を行い霊験により村人を救ったと伝えられています。

真福寺

変わった形の門をしたお寺がありました。門の2階部分が鐘楼になっています。帰ってきてから調べたところ、元々は真言宗のお寺だったようですが、日蓮の教えに感銘を受けて日蓮宗に改宗したとの事でした。境内には芭蕉の句碑などもあるようです。山門不幸の札がかけられていました。

三光寺

トイレに寄ったついでに横にあった立派なお寺に入ってみました。この寺は最近建て替えられたばかりのようで、本堂から鐘楼、庫裡まで殆ど新品状態みたいです。それにしても総工費は幾ら掛かっているのか?境内にはまだ雪が残っていました。

枡形

枡形が残っていました。小さな枡形ではなく、街道がこの部分だけコの字形になっている大きな枡形です。ここが蔦木宿の江戸口になるようです。ここから少しの間国道から離れて歩く事が出来ました。国道は歩道無く、また交通量も多いので怖いです。

電柵

この辺りは畑全体が電柵ネットで囲まれています。余程獣害が酷いのでしょうか。鹿?対策のようですが、これだけの広範囲にネットを張り巡らせるにはそのコストも馬鹿になりません。また、街道を行く人も通過する際には気を付けないと感電の恐れがあります。

青面金剛像

塩の道の時の千国街道程ではありませんが、庚申塚がかなりの数見受けられます。庚申信仰の本尊、青面金剛像は好きな石仏で、街道で見つけると嬉しくなります。正式な青面金剛像には下に三猿、上に太陽と月、それに日の出を告げる鶏が刻まれているものが多いです。

めどでこ

玄関に「めどでこ」が架けられていました。「めどでこ」というのは棒に縄のリングが付いたもので、上社御柱の特徴的なものです。漢字を当てると「目処梃子」。この棒が御柱の前部と後部にV字形に取り付けられ、縄の輪の部分に若者が群がって乗り雪解けの川を渡る様子は圧巻です。

富士見への最後の登り

今日の終盤になってからのこの坂は堪えます。ここから一番高いところまでの標高差は160m。疲れている身にこの標高差は二倍にも三倍にも感じます。急坂は最初だけでその後は緩傾斜になりますが、緩い坂でもずっと続けば堪えてきます。これを越えればあとは下って行くだけ。

塚平の一里塚

日本橋より47里目の一里塚。北塚を残していて、塚木は榎でした。脇には道祖神が祀られ「重修一里塚碑」もあります。これは昭和12年に諏訪中学校の教師と生徒が塚を補修した事を示したもののようです。

福寿草

清水では最近見ることも無くなってしまった「福寿草」がここには一杯咲いていました。長野県は福寿草が多いのでしょうか。塩の道の白馬から小谷にも一杯咲いていました。この時期咲いている花はあまりありませんから、余計に黄色の鮮やかさが際立ちます。
足重き 峠に笑みし福寿草 一秀

すずらんの里駅にゴーーーール!”

960mの最高地点まで登り切り、一気に下りてきてようやく今日のゴール、JR中央線「すずらんの里駅」です。名前にスズランが付いているのですからこの辺りには野生のスズランが咲くのでしょうか。駅の前には広い駐車場がありました。どうやらこれは駅の上の方にあるエプソンに勤める人達が利用している駐車場のようでした。

中央線には運がない!

中山道の時から中央線には割と運がなく、列車が大幅に遅れたり、行ってしまったばかり、という状況に何回も遭遇しているような気がします。今回も行ってしまった後で、何もない駅で1時間も待つことになりました。何もない所で1時間潰すというのも結構つらいものです。

上諏訪ステーションホテル

すずらんの里駅で1時間待ち、ようやくやって来た電車に乗り、上諏訪まで来ました。今夜の泊まりは駅前の「上諏訪ステーションホテル」。風呂に入ってしまうと食事に出かけるのも面倒くさくなってしまうので、すぐに食事に出かけることにしました。ホテルで聞いた居酒屋に行ってみましたが、最近チェーンの居酒屋ばかりだったので、メニューも新鮮に感じ、なかなかいい店でした。ホテルに戻って七賢で買ってきたスパークリング日本酒を頂きましたが「お味は?  微妙..



すずらんの里駅 〜 下諏訪宿 2018.3.15

2日目スタート

昨夜もよく呑みました。
歳ほどに 賢人たれと酌み交わす
  七賢の酒効く由もなし 一秀
さて、二日目のスタートです。昨日のゴールとなったすずらんの里駅まで行き、下諏訪宿を目指して甲州道中のラストウォークです。暖かい一日なるという予報ですが、信州の朝は流石に寒いです。

石仏石塔群

昨日からこのような石仏石塔を集めた所が何カ所あったのでしょう。こうした所も最初からここに集まっていたわけではなく、道路の拡幅、畑の整備などにより邪魔になった石仏や石塔を集めた結果、このような群となったというのが本当のところでしょう。ここも圧倒的に馬頭観音が多いです。

御射山 神戸の一里塚

日本橋をスタートして以来、初めて見る両塚揃った立派な一里塚です。特に西塚のケヤキは往時のもので樹齢400年の見事なもの。まだまだ樹勢も衰えていません。東塚は榎が植えられていましたが明治30年、枯死してしまい代わりにケヤキが植えられました。日本橋より48里目の一里塚になります。

樹齢400年のケヤキは見事

西塚の樹齢400年と言われるケヤキは見事なものです。中山道では綺麗に形が残っている一里塚は幾つかありましたが、甲州道中では貴重な塚です。一里塚のこの何ともいえない丸みを帯びた形は、歩いていて先に見えると何故かホット癒やされるものです。地図も無かった昔の旅人も塚を見るたびに無事一里進んだとホットした事でしょう。

出梁造りの家

下って金沢宿に入ります。この写真の家は元旅籠でしょうか。二階部分の桟は丸棒を曲げて作ってあります。この細工は凄いです。このような伝統建築が主の居ない状態となっている事が寂しい限り。是非とも後世に残していって欲しい建物です。

前の続き

細い丸棒が曲がり方を揃えて並ぶ様は綺麗です。ここまでの細工をしようとしたその心意気だけでも凄いものがあります。今の時代、機械を使って丸棒を造り、それをやはり機械を使って曲げる事は簡単に出来るのかもしれませんが、それ以前にそうした仕事をしようとする職人さんが居なくなっているのが現状でしょう。

馬宿跡

建物そのものはそれほど古いものではなく、明治中期の築。横棟の出梁造りでここは馬方と馬が共に宿泊できた馬宿の跡です。千国街道には牛方宿が残っていましたが、あちらは茅葺きの建物でした。昔は運送の手立ては馬や牛しかいなかったのですから、このような建物は数多くあったのでしょうが、現存する建物は殆ど無いようです。

馬繋ぎ石

馬方宿の前に「馬繋ぎ石」が残っていました。歩道の隅とはいえ、よくも残っていたものです。この馬や牛を繋ぎ止める為の石も数多くあったと思いますが、やはり現存するものは少ないようです。今でこそ、馬繋ぎ石もガイドブックにも掲載されていますが、ついこの間まではただの穴の開いた石でしかなかったのですから消えて行ってしまったのも無理も無いことです。

火の見櫓

かつては小さな集落にも必ずと言っていいほど立っていた火の見櫓ですが、最近では目にするのも街道歩きの時くらいになってしまいました。ここの櫓は立派なものです。

如意輪観音

この如意輪観音には金沢宿村人の思いが込められた石仏なのです。金沢宿本陣を勤めた小松家四代目、三郎左衛門は隣の千野村との山の所有権や入会権を争いましたが、高島藩は千野村の権利を認める裁定を下しました。三郎左衛門は、このままでは村の荒廃に繋がる一大事と立ち上がり、幕府に直訴も辞せじと伝馬の継立の駅務も遅滞させ抵抗しましたが、藩はこれを不届きとして彼を処刑してしまいました。その処刑・磔場がこの観音像の場所だったという事です。

権現の森

承応4年(1654)建立の金山大権現を祀っています。武田信玄が開発した金鶏金山の守護神であった金山大権現でしたが、武田家が滅亡すると鉱夫たちは青柳宿に定着し石祠をここに移したと伝わります。当時の青柳宿は宮川の氾濫に長い間悩まされてきた為、その後宿場は金沢宿に移されました。

寒天の里

茅野は寒天が特産品となっています。今年の寒天シーズンは既に終わっていますが、寒天のシーズンにはこの辺り一面に寒天が干されて居るようでした。茅野は気温が低く寒天を凍結させやすいこと。雪や雨の量が少なく、晴天率が高いため、寒天の融解や乾燥が適度に進むことなどの理由から天然角寒天のシャアは日本一となっています。というより、天然角寒天を作っているのは茅野だけなのです。

重厚な蔵

今回の甲州道中では随分と沢山の蔵を見てきました。綺麗に補修されているものが多かったのですが、どれも一見軽々しく見える蔵が多かったように思います。この蔵はあまり修理はされていませんが、壁の厚さや、入り口の扉の厚さなど、蔵本来の重厚感があります。蔵が多い理由としては土地が裕福だった、と言うことより、火災から守るという蔵の役目の方が大きかったのではないでしょうか。金沢宿の前身の青柳宿もかつては大火で苦労したこともあったようです。

石仏

道路の横に安置されていた割には出来の良い石仏でした。一見、十一面観音、馬頭観音、右端は三鈷杵を持っているようですから弘法大師なのでしょうか。いつの時代、誰が何の為に作ってここに安置されたのが興味が尽きません。

梅の香や 太宰の君に届きしか 一秀

神戸の一里塚跡

茅野駅を通り越し随分と中間が抜けてしまいました。この前にも茅野駅の手前に「茅野の一里塚跡」がありました。茅野駅までで朝からの歩行距離は約10Kmです。時間は10;30とまだ早いのでもう少し先に進むことにしました。と、その前に茅野駅に寄って、朝上諏訪駅で乗ったままになっているsuica の修正をしていかなくてはなりません。ついついうっかりして、到着駅のすずらんの里で自動改札を通らないで通過してしまいました。その為に未だに乗車移動中の状態。駅員に見せたら簡単に修正してくれました。

茅野は鏝絵の町

なまこ壁の蔵も多く、中にはこんな装飾を入れた蔵もありました。それもそのはずで茅野は寒天の里であるばかりで無く、鏝絵の町でもあるようです。鏝絵と言えば静岡県の伊豆松崎の入江町八が有名で長八美術館も見たことがありましたが、茅野が鏝絵で知られている事は初めて知りました。鏝絵の展示館もあったので見てみたいとは思いましたが、時間が早いのかまだ開いていませんでした。

祝言道祖神

こうした双体の道祖神は長野県には数多く見ることが出来ますが、男女双体道祖神でも宮廷の装束を身にまとった男女が酒を酌み交わす姿のものは特別に「祝言道祖神」と呼ばれています。ガイドブックではこの道祖神は「祝言道祖神」となっていますが、酒を酌み交わしている姿ではありません。発祥は長野県の安曇野と言われていて、このような道祖神は長野以外には無いようです。祝言というからには多分、貴族の結婚式を表したものなのでしょう。祝言道祖神は中山道ウォークでも望月宿で一体見かけています。

西郷どん

上諏訪まで来てようやく昼飯になりました。今回はもう少し食事処もあるのかと思っていましたが、やはりいつもと同じで店探しに苦労しました。「せごどん」とは何ともタイムリーな店名です。店の方に聞いたら20年前からこの名前なのだそうで、流行を追ったものではないそうです。そのお味もなかなか良かったです。

かねさ呉服店

蔵造りの商家で暖簾には「曲尺にサ」が染め抜かれています。この向かいに建つのは江戸期の創業という「染一染物店」。かつてはこの辺りには染物店が軒を連ねていたといいます。

銘酒真澄

上諏訪の人達は飲ん兵衛なのでしょうか。このあたりから酒造メーカーが続きます。ます最初に現れたのは寛文2年創業という「真澄」。高島藩の御用酒屋を務めたといいます。

銘酒舞姫

こちらは明治27年創業の舞姫酒蔵。これ以外にも銘酒「横笛」の伊藤酒蔵、銘酒「本金」のぬのや本金酒蔵、麗人酒蔵、などなど酒の蔵本がひしめきあっています。このあたり一体はバックに大きな霧ヶ峰高原があるために、ここからの伏流水を使って銘酒が生まれるのだそうです。確かに酒造りには水は大事なものです。

下桑原の一里塚跡

ここには「一里塚跡」碑と「甲州道中五十二里塚」解説がありました。ここまで来ればあと残す一里塚は一基だけ。52里と言えば208Kmです。よくもまぁ、こんな所まで歩いてきたものです。これから先に坂は無いだろうと思いながらの今朝のスタートでしたが、ここまで来て最後の坂道です。あと4Kmだけだ!と言い聞かせ、豆の出来た痛い足を引き摺りながら最後の行軍です。

凄い工事!

凄い面積の壁面工事。高さは一体どれくいらいあるのでしょうか。工事をしても上に住む人達は怖いでしょうね。その代わりに景色は特等地かもしれません。ここから急坂になり、下諏訪宿への最後の登りです。

温泉寺

全国の温泉地にはどこにでもある「温泉寺」ですが、上諏訪温泉にもあります。それもただ温泉の守り神と言うだけでは無く、高島藩2代、諏訪忠恒が菩提寺として建立したお寺です。菩提寺ですから当然高島藩主の廟所があり、をれなりに格式のある寺となっています。この廟所までの参道途中には和泉式部の墓もあります。

茶屋 橋本政屋

茶屋橋本屋跡で、ここは鯉料理が名物でした。当時、高島藩主もここまで出向き賞味したとか。門は廃城となった高島城の三の丸門を移築したものでかなり重厚なもの。現在の建物は江戸後期に建てられた木造二階建てで、茶会、展示会などに貸しているようです。

橋本屋の灯籠

橋本屋の入り口に架かる灯籠は見事な細工です。江戸時代からそこに付いていたものかどうかは分かりませんが、まだ電気という夜の明かりが無かった頃の、この灯籠が点っている情景を想像すると、何かホットするような思いがします。今は静かな通りになっていますが、かつては大勢の人がここを通り過ぎて行き、この灯籠は旅人の道行きを照らし続けて来たのでしょう。

諏訪湖

真冬には凍結する諏訪湖もこの時期にはその面影もありません。しかし、最近ではあまり起きなくなっていた御神渡が今年の2月2日には2013年以来、5季ぶりの御神渡が出現しました。やはり諏訪も今年は寒かったと言うことでしょうか。諏訪湖の歴史を見てみると、大正11年には諏訪湖上のリンクで日本初のフィギュアスケートの公式試合が行われていました。やはり世界は暖かくなりつつあるようです。

旧承知橋の一枚岩

道路脇の擁壁に組み込まれているのは承知沢に架かっていた承知橋の一枚岩。この岩が擁壁の一部として使われています。表面の煉瓦模様は滑り止めとも、又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われています。傍らには「承知地蔵尊」が安置されていました。

諏訪大社下社秋宮

諏訪大社に到着です。ここから中山道に合流する甲州道中の終点までは僅かに数十メートルです。中山道の時も参拝していきましたが、旅の無事の御礼も兼ねお参りしてきました。ここ数年、何故か諏訪大社にはよく来ました。御柱祭で知られる諏訪大社ですが、祭神である建御名方神(タケミナカタノカミ)についてはあまり知られていません。建御名方神は出雲の大国主命(因幡の白ウサギ伝説で知られる)の子供で、建御雷神(多分大和朝廷の使者)に出雲の国譲りを迫られたときにタケミナカタは簡単には承知しませんでした。その為に国譲りを迫った建御雷神(タケミカズチのカミ)に追われ、諏訪まで逃げてきましたが、ここでとうとう追いつかれて殺されそうになります。タケミナカタはこの地から絶対に出ない事を条件に命を助けてもらったという話が古事記に残されています。神様の世界も大変なようです。

ゴーーール!

甲州道中のゴールは中山道との合流点です。中山道の時にあった「綿の湯」跡のオブジェがあった角になります。ゴールはいつもあっけなくやって来ます。感激している間もありません。今回はゴールインセレモニー用の幕は支度してこなかったので、写真撮影時にポースだけ合わせて、後で合成しました。宿村大概帳によれば「五十三里二十四町」実測「211.3Km」となっていますが、自分たちの距離は213.3Km と僅かな差が出ました。地図をトレースしていくときの誤差の範囲と思います。


昨年7月からの甲州道中がようやく完結しました。距離も短いので些か舐めてかかった甲州道中でしたが、初日から大苦戦。その後も峠越えの連続で、一時寺は街道歩きと言うより登山の様相でした。しかし大変な事ばかりではなく、猿橋の紅葉、大善寺での一泊等々、楽しい思い出も一杯出来ました。
中山道では初回だけで一人が膝を痛めて抜けてしまいましたが、今回はスタート時の5人が揃ってゴール出来た事も本当に良かったです。それだけに中山道での一人抜けは残念な事だったと思います。
終わりよければすべて良し!
 それぞれに 背負い来しもの異なれど 感謝感激 完歩の歓喜  一秀