100寺巡礼 第3回 (山梨)


乾徳山 恵林寺

信玄公 墓所

山号 乾徳山
開基 夢窓疎石
甲斐武田氏の菩提寺

天正10年(1582年)4月3日、信長による甲州征伐で武田氏が滅亡した後に恵林寺に逃げ込んだ六角義弼の引渡しを寺側が拒否したため、織田信忠の派遣した津田元嘉・長谷川与次・関成重・赤座永兼らによって焼き討ちにあった。この際、快川紹喜が燃え盛る三門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と偈を発して快川紹喜は焼死したといわれ、後代には快川の遺喝として廣く知られ、再建・改築された三門の両側にも、この偈が扁額として掲げられている。しかし、これは後世の脚色である可能性が高い。
信玄の墓所の他にも晩年甲府城主となった柳沢吉保夫婦の墓所も恵林寺境内にある。
信玄の墓所はここ恵林寺だが、息子の勝頼の墓は日川渓谷の上流にある景徳院となっている。長篠の戦いの時亡くなった信玄は3年の間その喪は隠され、その3年間は躑躅ケ﨑館(現在の武田神社の場所)の東南に密かに埋葬されたが、3年後の天正4年には恵林寺において快川を大導師に、嫡男の勝頼を喪主として信玄の葬儀が行われた。本堂裏手にある庭園は、大きな池を中心に配した池泉回遊式で現在は国の名勝に指定されている。

甲斐の武田といえばやはり忘れてならないのが「風林火山」の旗と呼ばれる「孫子の旗」。
故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆(故に其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し。
この文句の初出は武田晴信(信玄)が快川に書かせたという軍旗に由来する。この旗がいつ作られたのかは確かな記録がなく良くわかっていないが、「甲陽軍鑑」には1561年から使用を始めていると書かれている。
「風林火山」という名称は、現代の創作のようである。甲州市・雲峰寺、武田神社など数旗の現存が確認されており、特に雲峰寺のものがよく知られている。