100寺巡礼 第3回 (山梨)


定額山 甲斐善光寺

山号 定額山
正式な名は浄智院善光寺という。
開基は武田信玄

信玄は信濃侵攻を行い越後の上杉謙信と衝突し、現在の長野県長野市南郊において五次に渡る川中島の戦いを行うが弘治元年の第二回合戦では戦火が信濃善光寺にも及び、信玄は自分の領国である甲斐へ本尊などを移したといわれる。
そのために長野の善光寺と似た形をしている。創建当時は長野善光寺とほぼ同じくらいの大きさであったが宝暦4年
(1754年)2月の火災によって失われ現在の本堂は寛政8年(1796年)8月に再建されたものとなっている。
本堂
永禄8年(1565年)に完成した当初は桁行およそ50メートル、梁間がおよそ22メートル、高さがおよそ23メートルあったいう。創建当時のものに比べると規模は小さくなっているがそれでも東日本においては最大級とも言われる木造建築物。昭和30年(1955年)6月22日に重要文化財に指定された。

山門
本堂とともに焼失したがのちに再建され現在のものは桁行およそ17メートル、梁間およそ7メートル、棟高およそ15メートルとなっている。門の両脇には未完成の金剛力士(仁王)像が祀られている。山門も本堂と同日に重要文化財に指定された。 本堂内地下には胎内巡りもあり、入ってみたが本当のの暗闇は初めての体験。やや白内障気味ということもあり、何〜〜〜んにも見えない。あの世への旅立ちは暗闇という。みんなの供養が足下を照らす明かりとなる、という話を聞いたことがあった。あの世はこんなにくらいのだろうか。

  信玄と謙信

信玄も謙信も途中で出家している。肖像画も法衣をまとっているものも多い。
法名は信玄は機山、謙信は不識庵という。出家した理由はいろいろあるようだが、一番の理由は当時、信濃で頻繁に起こっていた一向一揆を起こしていた一向宗の門徒を自分も出家する事により味方につけようとしたのが信玄、一向宗を自らも出家することにより押さえようとしたのが謙信ということになりそうだ。





長野善光寺と同じ形の本堂