辰野

小学校跡

小野宿

善知鳥峠

道祖神

老根田縄文遺跡

安曇野

道祖神

喫茶店

古民家豪邸

松本城

翁より

塩の道 第7回目(2014.5.28〜30)0

南箕輪〜安曇野 69Km


地図をクリックで詳細地図

飯田線 北殿駅

1日目(箕輪〜塩尻)

塩の道をスタートしてから足掛け5年目に入った2014年5月末、箕輪ー塩尻ー松本ー安曇野と、二泊三日で歩き、約70キロ前進した。
今回は以前一緒に東海道を歩いたTSさんも一緒に歩く事にななり、今回は総勢4人の街道ウォークだ。
何とか今年中に糸魚川にゴールインしたいと思うが果たしてどうなる事か。
事前に探して置いた岡谷駅前の安い駐車場に車を入れ、飯田線で北殿駅まで行きスタートする予定だ。しかし、タイミングの悪い事に電車は出たばかりで、次の電車まで1時間ほどの待ち時間が出来てしまった。ああ−、少しでも早くスタートしたかったのに残念!
コンビニで朝飯を仕入れ、駅前で食べながら電車を待つ。
ようやく来た飯田行きの電車に乗り、約35分、出発地の北殿駅に到着出来た。岡谷、塩尻、辰野の間のJRは路線と地形を理解していないとどうも分かりにくい。三角形の上の頂点に塩尻、底辺左の頂点が辰野、右が岡谷となり、 以前は中央線は岡谷ー辰野ー塩尻と経由していたが1983年に岡谷と塩尻間に塩嶺トンネルが出来た事により中央線は辰野を経由しなくても直接岡谷から塩尻に抜ける事が出来るようになった。今でも岡谷ー辰野ー塩尻は中央線になっているが、実際にここを通る中央線の列車はないようだ。 一方飯田線は辰野から南の部分なのだが、岡谷から飯田行きの電車に乗ル事が出来る。

道祖神

塩尻と岡谷の分岐
まぁ、こうした事は多分今回1回乗るだけで終わるだろう自分たちには無縁の話なのだが... 北殿駅から暫くは三州街道と呼ばれる国道153号線を行く。国道だけに車の往来は多い。 3時間ほど歩けば丁度お昼時。旨い具合にカツ丼屋があった。店の看板に「ここが噂の」と書かれている。少し高めだったがどんなカツ丼なのかと注文して、出てきたものを見たらビックリ。何とも巨大なトンカツが乗っている。結局誰も完食出来ずに随分無駄な事をしてしまった。しかし、この店も、食べきれないような量を出して、皆が残してしまうのならもう少し少量で安くしたらどうなのかと思うがメニューには少量のものは無かった。
ビールとカツ丼で満腹状態。これで歩くのも結構つらい。

青面金剛
辰野を過ぎると国道から離れ静かな街道歩きが出来る。信州は伊那から小谷まで石仏が多い事でも知られる。その主なものは庚申塔、道祖神、観音さん(馬頭観音が多い)などになるが、その数が半端でない。
上島を過ぎて三州街道の宿場、小野宿に入ると、昔の面影を残した町並みが現れる。その保存されている昔の家の風格や大きさがただ者ではなく歴史の重みをずっしりと感じる。
初期の中山道は塩尻峠を越えずに下諏訪から西に峠を越えて小野宿を通り、木曾の贄川にに抜けていた。小野宿はこの中山道と三州街道の交差する宿場となり、一時は大層賑わったが、中山道はその後十数年で塩尻峠を通るコースに変更されてしまった。

小野宿


善知鳥峠

この小野宿は南塩と呼ばれるいわゆる太平洋沿岸からの塩の終点地であると同時に日本海からの北塩の終点地でもあり、北塩、南塩の複合地帯となっていた。
小野宿を過ぎると善知鳥峠への登り坂になる。善知鳥峠は南北の分水嶺になっており、これより南は天竜川に流れて太平洋へ、北は千曲川から日本海に流れる。
善知鳥峠を越えれば今日のゴールであるみどり湖駅は近いと安心した直後、急な下り坂で同行の一人(TSさん)が膝を痛めてしまった。それでもゴールの駅が近い所であったのが不幸中の幸い。何とかみどり湖駅に到着し今日のゴールとなった。
ここからは塩尻経由で松本まで行き、今日、明日と連泊で松本駅前のホテル泊まりとなる。
夜はよく呑んだ!!
                     ▲ 右段の最上段へ

2日目のスタート

2日目(塩尻〜田沢駅)

2日目は再びみどり湖駅まで行き、昨日の続きを歩く。
みどり湖の駅は高台にあり、ここを降りていくと田植えの負えたばかりの田園地帯に出る。広い田んぼに水がはられ、水面には空と北アルプスが映る。

遠くに常念岳を見ながら
昨日膝を痛めたTSさんも痛みは消えたと言って朝から歩き出したが、この後、2時間ほど歩いたら再び激痛があって、残念ながら早くもリタイヤとなった。
みどり湖駅から15分ほど歩くと中山道に出る。そこから約200m程の区間は塩の道は中山道を行く。五千石街道の道標があり、ここからは五千石街道と呼ばれる街道に入る。名前が何ともユニークであるが、この由来が面白い。
『ここを領地とする松本藩は、小笠原秀政を領主としていたが、大阪夏の陣で戦死したため、その後の八万石を忠政が継いだ。しかし播州明石移封されてしまい、高崎藩から戸田康長七万石が領地替で、松本藩にやって来たがそこに石高の差が一万石できてしまったため、これを諏訪藩と高遠藩に五千石づつ分け与えた。諏訪藩は飛び地となったこの五千石の領地巡見ため、この街道を作ったと言う』


麦畑

耳塚古墳
田んぼの緑、もうすぐ麦秋の黄金色となるだろう麦畑、左手には常念岳、まさに癒やしの田園風景だ。こんな所で生活したらストレスも消えていく気がする。
街道脇に『耳塚古墳』。
これは1500年程前の安曇族の王の墓という。1500年前といったら6世紀初頭であるからかなり古い。この安曇族を調べてみると面白い。

安曇族は古代日本を代表する海人族という。発祥は九州北部、現在の福岡市の東部といわれている。朝鮮半島とも交易があり関連があったとされ、後に最初の本拠地である北九州から離れ全国に移住していった。安曇族が移住していった地には阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名が残されている。



庚申塔に彫られる青面金剛
今日の昼は蕎麦。松本に近づいてきたので、飲食店もパラパラと出てきた。なら食べられるうちに食べてしまおうと蕎麦で我慢だ。
相変わらず石仏や庚申塔が目立つ。庚申講は信仰というより、冬の何も出来ない時期、出来るだけ隣近所が寄り集まる機会を作る為の手段では無かったろうか。そう考えれば冬雪に閉ざされるような所に庚申塔が多いのもうなずける。

松本城

松本市内に入りそのまままっすぐ半年前に来たばかりの松本城内に入る。太平洋から歩いて松本城まで来たのだと思うと感激ものだ。よくも歩いてここまで、と自分を褒めてやりたくなる。
時間もまだ2時半。まだまだ先に進めそうだが、進んでしまうと10キロ先までは松本市内に戻る為の交通手段がない。そうかといって、このままホテルに戻るのもシャクなので、頑張ってあと10キロ進む事にした。ここからの旧街道はかなり複雑で、事前にルートを調べるにも苦労した所だ。以前は家も差ほど無かったろうから今ほど折れ曲がってはいなかったはずだが、現在では住宅街の中を行くから旧街道はクランク状態の連続だ。 少しづつ山の斜面を登っていき、ようやく高台に南を見ると松本市内が一望出来る。
ここから一旦下り坂になり、舗装路に出ると再び緩やかな登り坂に分岐する。途中には「老根田縄文遺跡」もあり、新緑の林の中を進む。峠を越えるとその向こうには安曇野の水田地帯が広がっていた。下りきって国道19号線に出た。ここから一番近い電車の駅は篠ノ井線の田沢駅になるが、そこまでは約3Km。電車の時間を調べてみると、ギャオ、あまり余裕がない。間に合うかどうか?間に合わなければ1時間待たなければならなくなる。足にマメが出来たようで痛いこと!!
我慢しつつ疲れた足に鞭打って必死で歩いた甲斐あり、何とか間に合い無事松本駅に戻る事が出来た。
あーー、2日目終了。


犀川を渡る

3日目(田沢駅〜穂高)

3日目も天気は良し。松本駅から篠ノ井線に乗り昨日のゴールとなった田沢駅まで 行き、最終日をスタートする。今日は帰らなければならないのでそうそう遅くまで歩いていられない。最初の目標は穂高駅までであったから、そこまで行けば予定通りだが、それではかなり早い到着になってしまいそうだ。田尻駅から真っ正面に常念岳を見ながら西に進めばじきに犀川を渡る。この辺りには道祖神が多いと聞いていたが、それほど見る事もなかった。街道歩きではなく道祖神探索に絞って歩けば沢山見る事も出来るのだろうが、今は前に進む事だけで精一杯。それでも穂高神社近くになると所々で見る事が出来た。しかし余り古いものではないようだ。穂高神社でノンビリして、膝を痛めた同行者が岡谷の駅前駐車場までとりに行った車を待つ。
暫く待って合流した所で、せっかくここまで来たのだからと、この先の池田町にあるあの蕎麦屋「翁」に行ってみた。身内のソバ通に言わせると、山梨の長坂の「翁」よりはここの方が遙かに旨いとか。店の場所は安曇野を見下ろす絶景地だったが、ソバの味は好みもあるのだろうが、長坂の翁の方が自分好みのソバに感じた。
さて、清水は遠いぞ!!

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                 歩行距離 約69Km